11 墜
航空機の墜落現場は北アルプス(=木曽山脈)常念山脈の燕岳近傍の東斜面で、乗客および乗務員全員の安否は未だ確認されてはいなかったが、生存の可能性はまず絶望的だろうと事故対策関係者に見做されている。ぼくも妻の早紀も早くに両親を亡くしていたので、この世で直接その死を悲しむ家族はぼくひとりだけだったのが、せめてもの救いという他はない。早紀はその両親のひとり娘で、ぼくもまた自分の両親のひとり息子だった。現場で他の遺族たちに接触して、ぼくの精神はまたしても危機的状況に見舞われるが、十数時間前に雑誌社同僚の長内武尚が運転していた社用車内での出来事を伝え聞いて編集長の村上卓に同行を命じられた山下理緒菜が近くにいてくれたお陰で、最悪の事態になることだけは避けられたようだ。その後、精神の不調と持ち直しを繰り返しながら、ぼくはこの世を生きている。生きているという感覚を時とともに希薄に感じながら生きている。
「今日はもう対策本部に戻りましょうか?」と、そんな状態を呈するぼくの傍らで山下理緒菜がぼくに問う。
「ああ、その方が良いかもしれないな」と彼女の傍らでぼくが応える。
山下理緒菜の航空機墜落現場での第一の目的はもちろん現場の取材だ。本日の午前十時くらいに自衛隊のヘリコプターでぼくとともに現地入りしてすぐに雑誌の取材記者として事故対策関係者および複数の遺族から話を聞き、それを纏めて編集部宛にメールしている。さらに撮影した現地写真や破壊された航空機残骸の写真を編集部宛に送っている。彼女は実に働き者だ。ぼくとは違って働き者だ。気が動転して使い物にならないぼくと比較して可哀想だが……
ところで今回の航空機事故は火災を伴ったために対策関係者はその火が消え去るまでなかなか現場に近づくことが出来ず、それは他のテレビやラジオの取材陣でも同様で、ゆえに彼女は他社と比べて絶対的な遅れを取っていなかったのがありがたい。雑誌社のためというよりは彼女のためにありがたい。ぼくのためというよりは彼女のためにありがたい。
ところで現地ではヘリコプターが直接大地に降りられるように燕岳山頂の一部傾斜の緩い部分に簡易的なヘリポートが設けられていたが、そこから墜落現場まで辿り着くのには約一時間掛かる。ヘリコプターが本日一旦事故現場近傍の町に設けられた対策本部に戻る時間があと約一時間後の四時に迫っていたので、山下理緒菜はぼくにさっきの提案をし、ぼくもそれに応えていたのだ。
「既に数日前に衣服まで含めて乗客の多くはきれいに燃えている。一部、人体と思われる燃え残りは発見されているが、その破損状態から遺体の確認は難しいだろう。いまのところ子供の遺体は回収されていない。今回の航空機事故で子供の被害者は娘の真紀だけだから、とりあえずここから帰って自分の身体を休めた方が得策なのは間違いない。この時期の夜の山は冷えるからね。それにきみもぼくもここに来る前に別件で拘束されてきているから疲労困憊この上ない」とまるで他人事のようにぼくが呟く。実際に他人事のようにぼくが呟く。それに山下理緒菜が応えている。
「わたしのことなんかどうだっていいんです。いまはご自身のことだけを考えてください。上原さんがここに残りたいと仰るならば、わたしもここに残ります」
「ありがとう。だが、それではきみには何のメリットもないよ」
「そんなことはありません。他に本日現場に残る人たちから話が伺えます。ご遺族さんたちとともに悲しみを分かち合うことが出来ます」
「きみは優しい人間だな。それに比べてこのぼくときたら…… 何もかも忘れて、すべてを忘れて、いまここできみを抱きしめたいと思うぼくが確かにこの頭の中にいるんだよ。妻と娘を亡くしてから、まだ僅かな時間しか経っていないというのに……」
「その話は止しましょう。周りにいる誰かが聞いたら勘違いします。わたしは全然構いませんが、上原さんにはもうこれ以上、心労を増やしてもらいたくはないんです」
山下理緒菜がそう応えるので、ぼくには口を噤むことしか出来なくなる。すべてを自分の中に飲み込んでしまうことしか出来なくなる。だからぼくは燕岳山頂に向かって無言で歩みはじめることしかできなくなる。ぼくにはそれしか出来なくなる。するとぼくのその動きに合わせてやはり無言で山下理緒菜がぼくの後に付いてくる。ぼくと山下理緒菜の二人が沈黙しながら山道の方に向かって行く。ぼくたちのまわりにいた人間の中で本日のヘリコプター発着時刻に間に合わせて一旦対策本部まで戻ることに決めた他の人間たちも同じ動きをはじめている。その人たちの中には家族の突然の死に呆然としたままの遺族がいる。その人たちの中には突然の家族の死に我を通して「このままここに残る!」と対策関係者に抗議している遺族がいる。そして不意にぼくは胸の悪さを感じている。辺り一面に吐瀉物をぶちまけたくなるようなえずきの感覚を感じている。
「奴だ!」と確信をこめてぼくは言う。「理由は知らないが奴がここに近づいて来ている」
その同じ感覚は山下理緒菜にも感じ取られたようだ。気丈には振舞っていたが、その目の奥では彼女の心の脆弱な部分な恐怖のために蠕動している。
「確かに、わたしにも感じられます。あのときと同じ感覚です。でも何故?」
「この世の中に怪物が現れる理由を知っている人間なんてひとりもいないよ」
思わずぼくはそう口にするが、果たして本当にそうだろうかと、すぐに心の中で考えている。心の中で考えて、もしかしたらこのぼくには判るのではなかろうかと妄想している。そんなふうに妄想して、それを自分自身で嘲笑している。そしてぼくが自分自身を嘲笑していると不意に頭の中をある考えが通り過ぎる。ある考えが通り過ぎて、それが言葉と変わってぼくの口から外に出る。
「関係者の死と匂いだ。自分が引き起こした航空機事故による死者と自分を目撃した人間の放つ匂いの混合体が怪物の何かを刺激したのだろう。ぼくなりの理論で考えればそんな理由もあり得るだろう。ぼくなりの非論理で考えればそんな理由もあり得るだろう。まあ、実際に怪物の持つ――いまは壊れてしまったかもしれない――別の論理がどう働いたのかまでは、ぼくにはまるで見当がつかないがね」
「不吉なことを言わないでください」
「ぼくたちはここに来るべきではなかったのかもしれない。少なくとも山下さん、きみはここに来るべきではなかったと思うよ。だが、もしかしたらそれは避けられないことだったのかもしれない。この世界に埋め込まれた概念装置の必然の働きの結果でしかなかったのかもしれない。こうしてぼくたちは何度も何度も怪物と出遭うことになるのかもしれない。偶然も蓋然も必然も通り越した論理の果てで、ぼくたちは怪物に出遭うことになるのかもしれない」
「そんなことって……」
「それを回避するには、お互いに相手の存在を無視する以外に方法はない。人間と怪物の双方で互いに互いを無視することしか他に方法はないかもしれない。そしてそれ以上、ぼくはこの件について語れない」
「ならば語らなけれないいいんです。口を閉ざしていればいいんです。口を閉ざして怪物に論理の隙を与えなければいいんです。そうすれば怪物はこの世で形を維持できなくなって消えてしまうかもしれません。そうすれば怪物はこの世との絆を失って、わたしたちには感知できなくかもしれません。仮に怪物が実際にはわたしたちのすぐ近くにいたとしても、そうなれば怪物はわたしたちにとって無となります。仮にわたしの背中のすぐ真後ろに怪物がいたとしても、そうなれば怪物はわたしたちにとって居ないことになります。だからわたしたちは怪物のことを考えなければいいんです。そうしなければいいんです」
「もしも、それが可能ならばね。だが……」
ぼくの指差した方向には怪物がいる。身の丈数メートルの怪物がいる。墜落した航空機の残骸の近くには怪物がいる。ヌメヌメと身体を身震いさせている怪物がいる。鮮やかな内臓の赤色をテラテラと揺らめかせている怪物がいる。そしてその怪物がぼくと山下理緒菜を含めてその場にいた十数人の人間たちに認識されて、そしてその代わりにぼくと山下理緒菜を含めてその場にいた十数人の人間たちが怪物の方からも認識されて、怪物は確固たる己の存在基盤を固めてしまう。己の存在基盤を固めて、この世の中に確固として存在してしまう。
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