10 叫(承前)

「落ち着いてください、上原さん!」

「おい、上原。落ち着くんだ!」

 突然叫び出したぼくに向かって山下理緒菜と長内武尚がそう声をかける。気が違ったように突然大声を張り上げたぼくに向かって山下理緒菜と長内武尚がそう声をかける。理由は不明だが、何故だかぼくには山下理緒菜の心の中が見透せる。彼女の心の中が見透せる。だがその一方で長内武尚の心の中は見通せない。同僚で今回の件では社用車の運転手を引き受けてくれた長内武尚の心の中は見通せない。あるいは彼の心の動きについて、いまのぼくは関心がない。

「山下さんにはわからないのか? 自分の心がだだ漏れになっていることが…… きみにはわからないのか? 自分の想いがだだ漏れになっていることが……」

 続けてぼくが叫んでいる。山下理緒菜に向かって叫んでいる。ぼくがそう叫ぶと彼女は怪訝な表情を浮かべはじめる。怪訝な表情を浮かべはじめながら自分の胸の上を圧さえつけるはじめる。自分の胸の上を圧さえつけはじめながら、ぼくの顔を盗み見はじめる。

「あの、それって、どういう意味ですか?」

 そんなふうに山下理緒菜が発した疑念から、彼女にはそれが理解されていないことをぼくは知る。彼女の口から返ってきたその言葉と抑揚から、彼女にはそれが通じていないことをぼくは知る。だからぼくは言葉を失う。言葉を失って、ぼくは自分に常識の感覚が押し寄せてくるのを感じている。言葉を失って、ぼくは自分に人間らしい感覚が戻ってくるのを感じている。言葉を失って、ぼくは自分に世間の一般常識が戻ってくるのを感じている。人間の人間らしい感覚がぼくの中に戻ってくるのを感じている。

「悪かった。ぼくの勘違いだ。山下さん、許してくれ……」

 だからぼくは声のトーンを下げて山下理緒菜に謝っている。気持ちを落ち着かせながら、ぼくは山下理緒菜に謝っている。自分がついさっき垣間見た彼女の心の深層が一般常識的に考えればぼくの妄想でしかないことがわかったからだ。他人の心の中を読める人間など何処にもいるはずがないという客観的な判断をぼく自身が受け入れることができたからだ。だが果たしてそれは本当に不可能なのだろうか? 一般常識的には不可能な事件に巻き込まれてしまった後でもそれはやはり不可能なのだろうか? 数日前に自分に起こった怪物体験は人間の心の動きとはもちろん何の関係もないはずだ。一般常識的に考えれば何の関係もないはずだ。だが果たしてそれらの間には本当に無関係なのだろうか? 本当に無関係といって良いものなのだろうか?

「許してくれって謝られても、わたしにはその理由が理解できません」

 ああ、確かにそれはそうだろう。きみには間違いなくそうとしかいえないだろう。だが……

「でももしかしたら、もしかしたら、わたしには伝わったかもしれません。上原先輩の謝られた意味が伝わったかもしれません」

 山下理緒菜がそう言って、ぼくは再び混乱しはじめる。だが……

「でも、いまそれを想うことは止めにしませんか? その方がたぶんいいんです。上原先輩のいまの心にとっては考えない方がいいんです」

「それは、まあ、常識的にはそうなのだろうが……」

 そういってぼくは口を閉ざす。言葉の混乱から逃れ出ようと口を閉ざす。山下理緒菜もぼくに合わせたように口を閉ざす。ぼくに調子を合わせたかのように沈黙を続ける。

「おまえらいったい今日はどうしちまったんだ?」

 そんなぼくたち二人の会話にならない会話を聞いていた長内武尚が呆れかえってそう呟く。そう呟いて、バックミラーに移ったぼくと山下理緒菜の表情を互い違いに確認する。それを見返すぼくの目は長内武尚の表情から彼の感情を読み取っている。少なくとも読み取ろうと努力している。

「詳しい事情は聞かされていないが、ここ数日いろいろあったんだろうとは思うがな…… それにまあ、そう言っても無理だろうが、上原、気を落とすなよ」

「長内、いろいろと気遣ってくれてありがとう。きみには感謝するよ。……ところで後どれくらいで駅に着く」

「何処の駅でも良いのだったらもうとっくに着いているんだが、そういうわけにもいかんだろう。道が込んでいなければ調布飛行場まで乗せていってやるよ。おまえたちを待っている間に村上編集長から連絡が入った。飛行機事故の現場付近に向かうチャーター便がいまから四時間後に出るそうだ」

「事故発生から何日も経っているというのにか?」

「事情は人それぞれだが、上原以外にも事故に気がつけなかった家族たちがいるんだよ。それが東京近郊にも数名いたので政府は各地の小飛行場に集まるようにと被害者の家族に連絡した。調布飛行場はその一環だ」

「なるほど、わかった」

 そのときぼくはそう応えたが、実際には途中から長内の言葉を聞いていなかった。というのは、突然ぼくの頭にある考えが浮かんだからだ。

 航空会社の種類にもよるが全日本空輸株式会社(ANA)の航空機を用いて東京から早紀の郷里の鳥取まで飛ぶとすると、その航空機は羽田空港から鳥取空港までをほぼ直線コースで進むことになる。実際には東京から木曽山脈上空を経由して宮津上空までと、そこから鳥取までの二本の直線に分かれるのだが、その誤差はあまり大きくはない。さらにいえば天候やその他の諸々の条件によって飛行コースはもちろん変わるが、ここで細かいことを言っても仕方がない。その東京・鳥取間の飛行コース近辺には順に、箱根山(左窓)、甲府(右窓)、富士山(左窓)、名古屋(左窓)、乗鞍岳(右窓)、琵琶湖(左窓)、若狭湾(右窓)、京都(左窓)、天橋立(右窓)という日本の各名所が現れる。しかしよりその飛行コースに近いのは例えば山中湖や宮ケ瀬湖で、後者の近傍には数日前に人工衛星とおそらく謎の怪物が落下している。正確なフライト時刻は忘れたが、早紀と真紀の搭乗した航空機は人工衛星落下の時刻にはおおよそ宮ケ瀬湖近傍をフライトしていたと考えられる。その前日の深夜には日本政府はアメリカ外務省から人工衛星落下の報を受けているはずなので当然それを各航空会社にも報せたはずで、その報せを受けた各航空会社の航空機はその飛行コースを安全なものに変えたはずだ。それとも動点と動点の接触は、より正確にいえば航空機と人工衛星落下物との接触は人工衛星落下物と地上の人間との接触よりも確率が少ないと見積もって飛行コースをそのままにして変えなかったのだろうか?

 一九八一年のコスモス1275号に疑われるスペースデブリ(耐用年数を過ぎて機能を停止したり、または事故や故障によって制御不能となった人工衛星および人工衛星などの打上げ時に使われたロケット本体やその一部の部品やそれらの破片のことで、デブリ同士の衝突で生まれた微細物なども含まれる)との衝突はどうなる?

 一九九六年のフランスの人工衛星スリーズが一九八六年に破壊されたアリアン・ロケットから発生したスペースデブリのひとつと衝突した件はどうなる?

 二〇〇六年のロシア静止衛星エクスプレスAM11が静止軌道から墓場軌道へと追いやられたスペースデブリとの衝突はどうなる?

 二〇〇九年の機能停止中のロシアの軍事通信衛星コスモス2251号とイリジウム社が当時運用中だった通信衛星イリジウム33号との衝突はどうなる?

 確かに早紀と真紀の乗った航空機は人工衛星落下物と直接接触はしていない。だが航空機事故の方もそう滅多に起こるものではない。それがしばしば起こるのだとしたら航空機会社はあっという間にすべて潰れてしまうだろう。それともそうではないのだろうか? 早紀と真紀の乗った航空機事故をあの怪物と関連付けて考えるのは、怪物を実際に目撃したぼくが抱いた妄想だろうか? 一度に二人の家族を失って気が動転している早紀の夫であり真紀の父親であるぼくの何処にも打つけようのない悲しみの矛先を得体の知れない怪物に投影した単なるぼくの妄想なのだろうか?

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