9 秘

 数日経って、やっとアメリカ軍から開放されて帰路に着く前に、ぼくはジェンキンズ中尉から横田基地のお偉方、ライス空軍中将を紹介される。そのライス空軍中将から、怪物遭遇以前にぼくと山下理緒菜が取材した映像ファイルの収まったメモリ・デバイスがぼくに手渡される。その後、厳かな表情を浮かべながらライス中将がぼくたち二人に事実を告げる。

「あなた方にも判るだろうが、今回はあなた方に対して記憶消去を行っておらん。やろうと思えばもちろん出来たが、今回のケースではそれによってあなた方の潜在意識がダメージを蒙り、将来的に今回の事件に関する事実が明らかにされたときに催眠誘導で引き出せなってしまう可能性を考慮したからだ。だからと言って、あなた方の体験を軽々しく吹聴されては我々としても立つ瀬がない。よって、あなた方には監視がつく。今回の問題をアメリカ国外で起きたアメリカの事件として捉えれば本来アメリカ人ではないあなた方に守秘義務は生じないが、監視についてはこの世を動かすからくりのひとつだと諦めて我慢していただく他はない。この世の中は紳士協定だけでは成り立たない。それは雑誌記者のあなた方には知っての通りの事実だろう。何か質問は?」

「しばらくの間はそれで構わないでしょうが、人の口に戸は立てられませんよ。……確かに今回の状況では人工衛星の墜落現場付近に誰かがいて何かを見たとは考え難いですが、あの日、宮ケ瀬ダムにさえ観光客がいたんです。丹沢山中に登山者がいなかったとは限りません」

「それについてはそのときの判断とするしかないな」

「日本政府が接触してきた場合はどうしたらいいんです? 日本国民として協力を要請された場合は?」

「日本政府にとって必要だと思われる情報は既に外務省を通じて送付済みだ。よって、その件については解決済みと考えてもらいたい」

「そんなにお行儀の良い連中ばかりではないでしょうが?」

「我々は日本政府に対していくつかの切り札を持っている。基地移転問題もあれば、地震災害時の救援活動もあれば、現時点ではあなた方には話せない諸々の件もある。この答えで納得してもらえぬかな?」

「わかりました。当面はそれで納得しましょう」

「ありがとう。では、次に我々からの希望を告げる。監視をつけるほど信頼していないはずの相手に対して厚かましいと思わないでもらいたいが、今回の事件について、あなた方には我々に協力をしていただきたいのだ。具体的には事件の謎を解くメンバーの一員になっていただきたい。メンバーの一員となって明晰な頭脳をその場に提供していただきたいのだ。無論、それを引き受けてもらって以降はその件に関してあなた方に守秘義務が生じるが、やがて十数年後に守秘義務が解かれた暁にはスクープを公表できる権利も獲られる。この件に関する質問はあるかね?」

「特に質問はありません。ぼくに関する限りは協力しましょう。乗りかかった船から降りるよりは出港先の海の景色を眺める方が楽しそうですからね。……ですが」とぼくが山下理緒菜に問いかける。「山下くんはどうするんだ?」

「わたしも協力は惜しみませんが、わたしなんかで役に立つのでしょうか?」

「我々がまず重要と考えているのは事件の体験者の確保なのだ。あなた方があのとき目撃したアレはいまでは姿を晦ましている。いずれ何処かに現れるという見当もない。いずれ何処かに現れないという見当もない。アレに関しては一切が謎だ。もしかしたら金輪際地上に現れることはないかもしれん。もしかしたら既にその存在を停止しているのかもしれん。そういった場合を仮定すると、あなた方にも明確に事件の体験者=目撃者の存在の重要性がお判りになるだろうと思う。さらにアレが再度出現して我々に害を為す場合を考慮すると、それに備えて種々の対策を立てるにも目撃者がいなければシミュレーション自体が困難になる」

 そして最後に友好の握手をして、ぼくと山下理緒菜は横田基地を去ることになる。ライス空軍中将の右手は皺が寄っていてゴツゴツと堅くて機械油の臭いがして――実は古狸だったのかもしれないが――そのときにはぼくに旧き良き時代のアメリカ人を連想させる。

 ライス中将たちとはその場で別れてぼくと山下理緒菜はアメリカ軍横田基地の出入ゲートに向かって歩いてゆく。厳しい顔つきの守衛が見守るゲートから一歩基地の外に出た途端に携帯が鳴る。出ると、それは村上卓編集長からの連絡で、迎えの車を基地の近くに待たせてあるからそれに乗れという内容だ。ついで彼はぼくの家族に起こった悲劇について簡潔に述べる。そこからぼくの修羅がはじまる。早紀と真紀の遺体はまだ確認されてはいないらしい。北アルプス山中の何処かの山に激突した飛行機がすべての燃料を激突前に消費することができずに火災が起こり、それで多くの乗客および乗務員が焼け死んでしまったようだ、と村上卓が淡々と告げる。とにかく仕事は後まわしにして、すぐにでも飛行機の墜落現場に向かえと淡々と言う。最寄り駅まで車で送るから、その間に必要なことがあれば何でも申し出ろと彼が言う。

「そんな、嘘だろう?」

 そしてぼくの心がぼくを離れて宙空に昇る。悲劇渦中の人物となった自分自身を真上から見下ろす。それからしばらく記憶が跳んで、同僚の長内が運転する車の中でぼくはぼく自身を取り戻す。けれどもまだ離隔した感覚は残っている。自分が自分ではない感覚が残っている。世界が世界でない感覚が残っている。それでいままで自分がどうしていたのかを山下理緒菜に尋ねると、粛々とこれからの予定を作成していたようだったとぼくに告げる。車内のPCを使って電車の時刻表を調べていました、と彼女が言う。

「上原さん、大丈夫ですか?」

 それからぼくは山下理緒菜にそう問われたのだが、そんなときに返す言葉をぼくは持たない。そんなときに言うべき言葉をぼくは持たない。そんなときに用意された言葉をぼくは持たない。自分自身の精神状態が壊れていって自分自身の人格がバラバラになっていく感覚がする。自分と世界との関係性が膜を通したように不明瞭になって自分と他人との関係性が忽ち無限に引き伸ばされていく。ぼくは自分がこれまで所属していた人々に囲まれた世界から隔離されてまるで父母未詳以前のいつかの時の中にたった一人で投げ出される。そんな感覚。そんな想い。そんな精神状態。

「上原さん、本当に大丈夫ですか?」

 ぼくの両手を優しく握り締めてぼくを励ましてくれているらしい山下理緒菜は本当に存在するのだろうか? ぼくの手を強くぎゅっと握り締めてぼくを正気に戻そうとしてくれているらしい山下理緒菜は本当に山下理緒菜なのだろうか? 彼女の心配そうな眼差しは本当にぼくに対して向けられているのだろうか? 彼女の社会人としての当然の行為は本当にぼくを心配する目的だけで為されているのだろうか? 何故だろう? ぼくには見える。彼女の心の中に燻っているぼくへの想いが…… 何故だろう? ぼくにはわかる。彼女の心の中でこれまで燻ってきた想いのひとつがぼくへの愛であることが…… 何故だろう? ぼくには感じられる。彼女が仕事を通じて徐々にぼくの人柄に惹かれていったその経緯が、けれどもぼくには妻子がいるのでその想いをこれまで直隠に隠していた心の裡が…… そしてぼくも識域下で彼女のその想いを感じ取って満更でもなく思ってたことが感じられる。

「最低だな!」と思わずぼくは叫んでいる。「おれは最低な人間だ!」と、ぼくは繰り返し大声で叫んでいる。

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