17 道
興を殺がれてしまったといっては不謹慎かもしれないが、気分的には雑誌社に向かう気がしなくなってそのまま地下鉄通路を歩いて改札を通り抜け、自宅に向かうホームに向かう。しばらく待ってやってきた地下鉄に乗り、それに身を揺られながら本日これまでに起こったことに思いを馳せていると、ふいに奇妙な感覚が心に浮かぶ。それを何と表現したら良いのだろう。予言とは違う。しかし予測や予想とも違う。そのときぼくの心の中に浮かんだのは、ぼくがこれからの人生で辿るかもしれない幾つかの道で、それが数本の巨大な白いトンネルのような雪の洞窟のような塩の風穴のようなイメージを伴って浮かんできたのだ。ついで、そのイメージが圧倒的な迫力でぼく全体に瞬間的に覆い被さり、さらにイメージ自身の強烈に際立った個性がぼくの中にジュリジュリと浸透してくる。ぼくはしばしたじろぎ、まるで氷のようにその場に固まってしまうが、するとぼくを襲った感覚は訪れたとき同様、瞬く間にぼくから去る。引き潮のごとく去ってゆく。だから、ぼくは息を切らせて「はあはあ」と荒い呼吸をして、おそらく顔には脂汗を浮かべながら両手でぎゅっと地下鉄車両の吊革を、まるで自分とこの世界とを結ぶ唯一の接点であるかのように掴んでいる。すぐさま、「大丈夫ですか? 顔色が悪いですよ。真っ青ですよ。早く座った方が良いですよ」という乗客の声がぼくの耳に聞こえてくる。そんな親切な女性乗客の声がぼくの耳に聞こえてきて、それでぼくは自分の正気を取り戻す。わずかに声を震わせながら、「ご親切、ありがたく賜ります」とその年配の乗客に答えて席を譲って貰う。だが座席に腰掛けても頭の中は真っ白だ。症状としては脳貧血と同じようなものだったが、質の違いをぼくはぼんやりと感じている。ぼくに残された結果としての症状は脳貧血とほとんど同じだったが、原因の違いをぼくはぼんやりと感じている。そしてその感じを引き摺ったまま十数分が経過して、地下鉄がぼくの自宅の最寄り駅のホームに近づく。そこでぼくは両目を見開いて、「ああ、いままで目を瞑っていたんだ」とはじめて気がつきながら、我ながら危なっかしい足取りで座席から立ち上がると降車側のドアに向かう。そのとき辺りを見まわしたが、ぼくに席を譲ってくれたあの親切な年配女性の姿はない。ほどなくドアが開いてぼくは駅から数分のぼくの自宅に向かうために階段を降りて改札を抜ける。気分はかなり元に戻っていたが、原因のわからないモヤモヤした不安感は未だ濃厚に付き纏っている。だが、あえてその感覚を振り払おうとはせずに、ぼくは自宅のある集合住宅に向かう。地下鉄の中でぼくを襲った強烈なイメージの塊の意味を問いながら集合住宅に向かう。
集合住宅のエントランスに至る自転車置き場のある通路を歩いていると、その先の分別ゴミ置き場の近くに山下理緒菜が立っている。他人の空似かと思いながらその人影に近づくと間違いなくそれは山下理緒菜で、ぼくは何故だがびくっとしてしまう。彼女の姿に驚いているぼくがいる。驚きと同時に彼女の姿に安堵しているぼくがいる。
「どうかされたんですか? まるでお化けにでも出遭ったような顔をして……」
「さっき電車に乗っていたとき、誰かにお墓の上を歩かれたような気分がしてね」
「上原先輩のお墓はイギリスに建てるんですか? でも冗談はともかくとして確かに顔色は良くないですね」
「今日は何? 仕事は? ぼくと違って、休みだからって、山下くんには暇はないだろう? それとも村上編集長の差し金かい?」
「あらあら、疑問符ばかりのご質問ですね。それに編集長に命令されなければ、わたしは上原先輩のところを尋ねてはいけないんですか?」
「おやまあ、疑問符には疑問符での返答かい? いや、そんなことはないよ。だが、ここは寒いからね、ウチでお茶でもご馳走しよう」
そういってぼくは山下理緒菜がぼくの後に付いてくるのを背中越しに感じながら集合住宅のエントランスに向かい、電子キーでスライド式の入り口ドアを解錠する。電子キーで開錠された集合住宅のドアがスライドしてぼくたち二人がエントランス内に入って行く。ぼくたち二人がエントランス内に入って行って、ぼくがエレベーターのボタンを押す。ついで郵便箱を覗いて、中に入っていたチラシ類を共用の資源ゴミ入れに投げ込んでいるとエレベーターが到着する。ぼくと山下理緒菜がエレベーターに乗り込んでドアを閉める。他に乗客はいない。ぼくたちは話をしない。ぼくたちは口を噤んでいる。もしかしたら互いに居心地の悪さを感じながら…… もしかしたら互いに心の切なさを感じながら……
やがて偶数階用のエレベーターが最上階に到着して、ぼくと山下理緒菜はエレベーターから降りる。ついで通路を歩いてぼくの自宅の部屋の前までやってくる。ぼくは鍵を開けてドアを開けて先に中に入って靴を脱いで、それから振り返って山下理緒菜に部屋に入るように手で促す。「お邪魔します」と誰もいない部屋の奥に向かって彼女が声を掛け、頑丈そうなブーツを脱いで部屋に上がる。ぼくはリビングを抜けてキッチンに彼女を案内する。電気ポットを軽く水洗いして、ついで浄水器を通した水を入れて、それを元の場所に戻してスイッチを入れる。しばらくするとお湯が沸くボコボコという音が聞こえて辺りが騒々しくなるはずだが、そうなるまでにはまだ暫くの間がある。
「お線香を上げさせてください」と彼女が言って、「ああ、奥の和室だ」とぼくが答える。
ぼくに導かれて山下理緒菜が和室に入る。和室に入って簡易仏壇に飾られた骨がまったく納められていない空虚な骨壷の前の線香立ての前に正座する。ぼくは既に封を切ってある生前妻の早紀が好きだった香りを放つインドの色鮮やかな線香を山下理緒菜に数本手渡す。
「ライターは?」と訊くと「持っています」と彼女が答える。
山下理緒菜が線香に火をつけて六畳の狭い和室に線香の香りが漂いはじめる。妻の早紀が好きだった質素な線香の香りが部屋の中に広がっていく。山下理緒菜は空虚な骨壷の上に飾られた早紀と真紀が二人して移った遺影の前で目を硬く閉ざしながら両手を合わせてひとり静かに合掌している。その横顔を哀れに感じているぼくがいる。その横顔を可憐に感じているぼくがいる。
やがて目を見開いて、山下理緒菜がぼくに言う。
「もう、お湯が沸いている頃じゃないですか?」
「ああ、そうだったな」
慌ててぼくはキッチンに戻り、山下理緒菜の指摘通りお湯の沸いていたポットから先に三角ティーパックを入れた二つのカップにお湯を注ぐ。辺りに紅茶の芳しい香りが広がっていく。
「お砂糖は? ミルクは牛乳しかないけど……」
「どちらもいりません」
山下理緒菜がそういったので、ぼくはカップをそのままキッチンテーブルの上に載せる。自分の分の紅茶にはわずかに牛乳を足す。
山下理緒菜がぼくに家に来るのは三回目だ。最初は他にも知り合いが集まった内輪のパーティーに呼んで、次にはそのパーティーのときに真紀が彼女のことを気に入ったらしくて、真紀にせがまれたぼくの願いを聞いて彼女が我が家を訪れた。それが二月くらい前のことだ。
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