2 落
最初に落下が伝えられたのは人工衛星であり、それはアメリカ製であり、既に役目を終えて廃棄されたものであり、軌道修正用の燃料を使い果たして自然落下となったものであり、大雑把に言って日本国とアメリカ合衆国五十番目の州=ハワイ州とを結ぶ太平洋上の中間地点に落下する予定だと、当時発信された公式メッセージは伝えている。宇宙はゴミで溢れている。少なくとも地球周辺領域においては……
その人工衛星に既にあれが宿っていたのか、それとも落下の過程であれがこの世界に巻き込まれたのかはわからない。ただひとつわかっているのは人工衛星の落下コースが落下終了予想時刻の十数時間前に急激に変動したという事実だけだ。軌道のずれの原因は不明だが、給料分の仕事をこなす軌道計算のプロたちは、すぐさま新しい落下地点を予想して、それを上層部に報告する。報告を受けたアメリカ合衆国関連機関の担当者は衝撃を受ける。その余りの精度に衝撃を受ける。落下地点は日本国だ。人口密集地域ではないとはいえ、日本国の国土内だ。人工密集地帯ではないとはいえ、神奈川県内だ。宮ケ瀬湖と丹沢山頂と権現山頂を結ぶ三角地帯を中心に周囲約三十キロメートル圏内に落下する確率が高いという余りにも精度が詳細な予想結果が発表される。実際にその時点で計算された人工衛星落下の最大域はそれの五倍ほど広かったが、その情報は公表されない。落下地点の計算には気象など種々の要素が影響するので正確な特定は十数時間前ではなくせいぜい数時間前でなくては出来ないが、とにかく専門家によって落下予想地点が報告される。落下時刻は日本時間で午後二時十五分頃と予想される。人工衛星落下の最大および最小域においてはその時刻も著しく相前後するが、その情報は公表されない。そういった形で行われた落下報告がアメリカ政府高官の元に届き、さらに外務省を通じて日本の政府高官に報される。最初にそれを知った日本の政府高官は蒼白となる。たかが人工衛星の落下ごときに……
「何も心配することはありません」とアメリカ外務省のメッセンジャーは日本の政府高官に向かって言う。「かつては人工衛星の落下は年間約五百件、多い年では千件以上もありましたが、最近では年間約二百件程度です。そして最近に限らずこれまでそれが大きな事故を引き起こしたという事実をご存知ですか? ご存じないでしょう。もちろん注意と万全たる対策は必要ですが、何も心配することはないのです。時間はまだ十分にありますし、近隣の住民の避難にも十分な時間があります。それに多くの場合、人工衛星の大半または全部は地上や海面に達する前にすべて燃え尽きてしまうのです。これまでに死亡者が出た例はありません」
一九九七年一月二十二日の日本時間十八時三十七分にテキサス州に落下した重さ約二百五十キログラムのステンレス製燃料タンクはどうなる?
一九九六年四月二十四日にアメリカ合州国打上げの人工衛星MSXを軌道に乗せたロケットの一部はどうなる?
二〇〇〇年四月二十七日に南アフリカに落下した一九九六年の人工衛星打ち上げ時に用いられたデルタ・ロケットの破片はどうなる?
あるいはNASDA追跡管制部の参考資料に記載された一九五八年以降に地上にまで達した六十二件以上の落下物についてはどうなる?
世はすべてこともなく平穏に過ぎ去っている。
「何も心配することはありません」とメッセンジャーは日本の政府高官に言っている。「ひとりの人間が人工衛星の破片の落下で怪我をする確率は一兆分の一にも満たないのです。例えばひとりの人間が落雷に遭う確率は大雑把にいって約百万分の一と見積もられていますが、それと比較しても桁が六桁も安全ということになるのです。実際に過去四十年間に約二千トンの人工衛星の破片が地球の表面に達しましたが、被害があったという報告はただの一件もありません。さらにいえば大気圏に突入する物体が年間約二百トンあったとして、その約一〇パーセントから三〇パーセントが地表まで到達すると見積もられていますが、地球上の陸地は地表の約四分の一なので、陸地に達する落下物は最大で年間約十五トンと計算されます。しかし実際に人工衛星の落下によって人間が被害に合ったというレポートやニュースはただの一件もないのです」
自然落下状態ではなく制御不能状態に陥ったアメリカ合衆国の偵察衛星の燃料には毒性および発がん性が指摘されるヒドラジンが積まれている。
放射性物質を積載した旧ソビエト連邦の海洋偵察衛星が自然落下したのは幸いなことに住人がほとんどいないカナダの原野だったが、放射能を帯びた破片類はばら撒かれ、さらに落下場所が何故か特定されていない。
前述の一九九七年一月二十二日の落下事件においては、アメリカのオクラホマ州で女性が公園の近くを歩いているとき焼け焦げた約十五センチメートルの金属網がその肩に当たったという報告がある。無論それが人工衛星の破片であったという証拠はない。証拠などクソ喰らえだ。時刻や場所が一致していたからといって、それが本当にデルタ・ロケット二段目の一部であったかどうかはわからない。
「何も心配することはありません」とメッセンジャーは日本の政府高官に言っている。「お国に控えた我が合衆国の精鋭たちがあなたがたに協力します。あなた方に協力して迅速正確に衛星回収計画を実行します。無論われわれの予想では今回の衛星は百パーセント大気圏内で燃え尽きます。ですが何時如何なるときでも予期せぬ結果に備えるのは我が国の基本方針と申せましょう。近隣住民の避難と誘導ミッションはあなたがたにお任せします。それでは早速協議の場に移りましょう」
日本の国土の大きさを考えてみよう。日本の国土の大きさは人工衛星が上空を通過する天空面積の約〇・一パーセントに過ぎない。だから日本に人工衛星が落下すること自体があまりにも稀だ。だが人災には――その結果がどうあれ――対応することが出来る。隣国の北朝鮮のことは一次棚上げにしよう。その隣国の中華人共和国のことは一次棚上げにしよう。しかし論理が違うあれにヒトは大地は地球は為す術を知らない。
初動が遅くていつも盆暗だと自国民やさらには世界中の政党や民衆に揶揄される日本政府もアメリカ合衆国に強く安全を保障され今回は迅速に行動する。付近住民は速やかに退去され、報道機関がカメラのレンズを構えて時を待つ。新聞読者とテレビ視聴者とネット住民がそれぞれに状況をコメントし、アメリカ・スパイ衛星の落下が一大天空ショーに摩り替わっていく。時刻が午後で、また天候も晴れていたので夜間でのようにくっきりと見えるはずがないとも推測されたが、「それだったらチャレンジャー号の爆発はどうなるんだ!」という質問が質問を煽っていく。そして時刻がやって来る。
ぼくはそれを現場近くで実際の目で目撃する。軌道計算のプロたちの腕は確かだ。一般に軌道の低い人工衛星ほど大気との摩擦による制動が利いて衛星の軌道が下がってくる。高度約九十キロメートルに達すると人工衛星は流星のようになってくる。そのときには十G以上の加速度や摂氏千五百度以上の高温に曝されて人工衛星は分解していく。 高度約三〇キロメートルのところで火の玉となって大気との摩擦で速度を失い、そしてまだ残りがあれば人工衛星の残り滓は急角度で落下する。その人工衛星フレアKH‐12Fは教科書通りに落下する。だが、それを捕らえたぼくの目は何処かに違和を感じている。
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