……変容、

り(PN)

1 始

 変容した世界に佇んでいるのはぼくひとり。ヒトは変わり、街は変わり、眺めは変わる。もうこの街には普通の人間のスピードで歩いている人間はいないかもしれない。もうこの街には普通の人間の思考回路で考える人間はいないかもしれない。もうこの街には普通の人間の心で何かを感じる人間はいないかもしれない。

 他の街のことはわからない。

 その昔、ぼくが良く見上げた駅前の廃ビルの外階段に近づくと、階段を外部の侵入者から守っていたはずの木製の扉が壊されている。何らかのパニックか暴動が当時起こって壊されたようにも見受けられたが、詳しいことはわからない。その壊れた扉を乗り越えて、ぼくは外階段を昇りはじめる。外階段を昇って踊り場に行き着く度にその外に拡がる景色を眺め下ろせば、タンジェント・シータの割合で増えていくこの街とさらにその先に連綿と繋がる別の街の姿に違ったところは観察されない。変容は一様だ。それが未だ進行中なのか、それとも既に終了してしまっているのか、ぼくは知らない。まだ人間だった頃のぼくの上司の村上卓や同僚の長内武尚あるいは後輩でかつ淡い恋人関係でもあった山下理緒菜なら知っていたのかもしれないが、いまとなっては、もうそれもわからない。わからないことが多過ぎる。そしてここでは、ぼくは無力だ。もしかしたら村上卓や長内武尚は何処か別の街で生きているかもしれない。人間として…… もしかしたら――いまでもありありとその存在を想起出来る――山下理緒菜は何処か別の街で生きているかもしれない。人間として…… あるいは変わってしまったナニモノとしてか?

 ぼくは階段を昇っている。ぼくは廃ビルの階段を昇っている。ぼくは廃ビルの階段をゆっくりと昇っている。昇る度にぼくの目に入る景色が増えてゆく。街が増えていく。道が増えていく。川が増えていく。公園が増えていく。やがて遠くに電波搭が見えてくる。ぼくの居るこの街の、ターミナル駅から下り一駅の駅前に建てられた廃ビルの外付けの非常階段から見える電波搭は、いまは電波を発信していない。あれが落ちてきたとき、すでにその電波搭としての役割は終焉していて、若くて倍も背が高い別の電波搭にその役割を移譲している。旧式の元電波搭の生き残る術は観光名所となることだったが、その試みは特に挫折もなく成功する。観光名所への転進が特に挫折を知らずに成功しているときにあれが落ちてきて世界がゆっくりと変容をはじめたので、観光名所となった元電波搭は解体されずに生き残り、いまでもぼくの目に変容した元電波搭として映ることが出来る。十年後、百年後のことはわからない。十年後、百年後のことなどクソ喰らえだ。酸化が進めば朽ち果てるだろう。それに拮抗する作用が働きかければ生き延びるだろう。化学変化自体は変わっていないのだとぼくは思う。物理法則自体は変わっていないのだとぼくは思う。変わってしまったのは意識の方なのだとぼくは思う。だから意識を持つものすべてがあれに徐々に影響されて変わってしまったのだとぼくは思う。ぼくはそう思う。でも、そうだとすると街の変容が説明できない。川そのものの変容が説明できない。丘そのものの変容が説明できない。端的に言って、無生物に生じた変容が説明できない。説明できないことが多過ぎる。わからないことが多過ぎる。そしてぼくという存在はこの街ではどこまでも無力だ、そしてぼくという存在は変容したこの世界の中でどこまでも無力だ。

 屋上には辿り着けない。それは外階段がそこまで達していないからでもあり、さらにまた重い鉄の仕切扉を開けて廃ビル十六階の渡り廊下を抜けてようやく辿り着く建物内部に設置された非常階段の屋上に至る鉄格子に鍵が掛かっているからでもある。鉄の酸化は進んでいない。まだ鍵が朽ち果てるほどの時間が経っていない。あれが降って来て世界が変容をはじめてから、まだ鉄が朽ちるほどの時間は経っていない。

 元電波搭は廃ビルから見て南東の方角に立っている。廃ビルから程近いターミナル駅周辺の摩天楼はほぼ東向きだ。今日は比較的晴れているので摩天楼がくっきりと見渡せる。その摩天楼が何本も群生しているために、いまは電波を発信していないがその役割を旧電波搭から引き継いだ新電波搭を見ることが出来ない。新電波搭が廃ビルから見て摩天楼の方角に立っていたからだ。理屈から言えば新電波搭の頭の先くらいは見えるはずだったが、そこまで天気が良くはなかったということだ。さらにぼくの視力がそこまで良くはなかったということだ。

 廃ビルの渡り廊下を移動して、ぼくはズボンの右前ポケットから鍵を出して西向きのひとつの部屋のドアに差し込んで半周まわす。ガチャリという音がして鍵が外れて、ぼくはドアを開けて部屋の中に入る。当時とは様変わりしているが、そこはぼくが何年も暮らしていた部屋だ。妻の早紀が居た部屋だ。幼い娘の真紀が居た部屋だ。早紀と真紀はあれが空から降って来たその日に飛行機事故で死んだ。あれの発した何らかの力場に飛行機の電子機器が狂わされた結果の墜落だろうと、いまではぼくは思っている。たまたま早紀と真紀の乗った飛行機があれの落下線上数キロのところを飛んでいたのは偶然だ。たまたま早紀と真紀の乗った飛行機が早紀の出身地である西日本の地方都市に向かっていたのは偶然だ。そこまで言えば、あれがこの世界に落下してきたのも偶然だ。この世界に起こるすべてのことは偶然だ。あるいはそれは宗教を信じるものたちが「神のご意思」と呼ぶところの必然だったのだろうか?

 廃ビルの部屋の中は変容した廃ビルの部屋の中だ。見た目の混乱振り以上に雰囲気が混乱している。もしかしたら気のせいなのかもしれないが脈動を感じる。もしかしたら気のせいなのかもしれないが呼吸を感じる。もしかしたら気のせいなのかもしれないが生命を感じる。だが、そんなことはありえない。ぼくはそんなふうにぼくに感じさせる部屋の中を移動して西向きのサッシ窓のところまで辿りついて、それを開ける。時刻がおそらく午後二時半くらいだったので、頭上の太陽はその季節=晩冬のその位置辺りに鎮座している。変容は太陽には及んでいないだろうとぼくは考える。変容は太陽系の他の惑星には及んでいないだろうとぼくは考える。変容はあれに直接影響を与えられた地球上でのことなのだろうとぼくは考える。さらに言えば、変容はあれに直接影響を受けた地球上のごく狭い範囲でのことなのだろうとぼくは考える。例えば海洋も含めて地殻と呼ばれる層でのみでしか進行していないのではないのだろうかとぼくは考える。ぼくはそう考えている。もちろん確証はない。確証などクソ喰らえだ。

 ぼくは廃ビルのかつてぼくの部屋だったところの西向きのサッシ窓を開けて外を見る。目前の借景を部分的に遮る駅ビルの横にこの国を象徴する名山が見える。ここから見る限りでは何も変わっていないように思える美しい山が見える。だが、おそらくあの山も変容しているのだろうとぼくは考える。そう考えていけない理由がぼくには思いつけない。だから、ぼくはそう考える。だから、ぼくはそう考えざるを得ない。そしてそのぼくの想いがぼくをぼくの過去に向けて引っ張ってゆく。ぼくをぼくの過去に向けて強引に引っ張っていく。

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