沼矛

ぱぱぱぱぱぱぱぽぱぱぽぱぱにぱぱぱぱぱぱ

開闢


 娘が、妊娠した。


 ちょうど大学に進学する手前のことだった。

 春風が背中を押す季節だった。

 体調が芳しくなく、病院に連れていって判明したことだった。


 …僕は困惑した。

 そんな気配は一切感じられなかったからだ。

 

 何か良くないことに巻き込まれたのかとも思っていたが、病院帰りの車の中で娘は嬉しそうにお腹をさすっていたから、それは違うのだということには勘付いていた。


 ただ、困惑した。


 けれども、そこに娘を咎めるという感情は持ち合わせてはいなかった。僕の生まれが複雑で、どこか共感してしまったからだ。


 幼い頃、母に父は一体どんな人だったのかを聞いたことがある。ちょっと考えてから「素敵な人」だと一言答えたキリだった。

 でも、好きだったから産んだ、そう言って僕の頭を撫でた。

 僕は子供だったので、その発言に意味を見出せなかったが、今思えば、おそらく母は愛人か何かだったのだろう。


 そして僕は大人になり、普通の家庭を築いた。

 その途中で母や妻を病気で失ったりと色々な目に遭っていたが、どうにか娘と二人三脚で頑張ってきた。


 だからこそ、この状況に対して理解は難くないものの、酷く困惑しているのである。どう声をかければいいかもわからない。

 自分が取るべき行動がわからないのである。


 とにかく、娘と対話するべきだと感じた。

 一番、可能な方法で———食卓を囲んで会話しようと思った。


 今日は僕が家事当番だったので、娘が好きなものの中で刺激が強過ぎないものを作った。

 偶然にも母がよく作ってくれたハヤシライスだった。それに気がついた時、偶然の重なりに具をかき混ぜる手が動揺した。

 娘の分はいつもぐらいの量だが、自分の分を多めに盛ってしまった。今日は調子が狂う。

 そして、いつもの“いただきます”を二人でいう。特に変わらない。が、僕だけが落ち着かない。

 そのまま、流れるようにスプーンでハヤシライスを掬って口に運んでいく。


「っっっっっ!」


 口いっぱいに頬張ったせいで火傷した…やっぱ今日はダメだ。急いで水を飲み干す。

 娘はその様子がおかしかったのか、クスクス笑っている。娘はいつもと変わらない。


 僕はいつ切り出せばいいか判らずにハラハラしているとそんな娘と目が合った。気まずくなって、ひとりでに冷や汗をかく。


「ねえ、お父さん結構気にしてるでしょ」


「……もちろん」


 否定はできない。

 というかこんなことになっていたら大抵の父親は誰だってそうだろう。

 それを聞いて安心したのか、いつもはしない不適な笑みをこぼす娘は、女の顔をしていた。


「今度会ってみる?この子の父親に」


 お腹をさすって今度は母親の顔をする。


「いい…けど、まず、その人がどんな人か教えてくれるか?」


「いいよ。でもちょっとびっくりするかも」


 娘は出会いから今に至るまで詳らかに話し出した。相手は高校の先生で、元々惹かれあってはいたが卒業直後から頻繁に会うようになったこと。その中で肉体関係になっていったこと。


 そして———

 

 最後の一言はギョッとしてしまったが、まずは会ってみなければ。と終始黙って聞いていた。

 ただ、それを聞いた上で、どうしても真剣に問うべきことがある。


「産むのか。本当に」


 母は僕と幸せそうに暮らしてはいたが、シングルマザーなりに大変なことがあったと思う。だからこそ、必要最低限のサポートはしたいけども、その覚悟があるのか。それを見極めたかった。


 娘は黙って頷いた。

 至極しごく真剣な目をして。確固たる信念を灯して。

 目元が僕の母にそっくりだった。



 そうして春も揚々な休日、カフェで邂逅することとなる。娘のちょっとびっくりするかもという発言は、既婚者であるというより風貌の方が正しかったのかもしれない。

 明らかに僕より年上だ。荘厳な雰囲気を纏い、がっしりとした初老。白髪に口髭を蓄えたロマンスグレーの男だった。

 だが、一番驚いていたのは彼の方だった。

 当然だろう。普通に娘とおうとしたら父親までついてきたのだから。


「まー立ったままじゃどうにもなりませんから、とにかく座ってください」


 コーヒーが3人分やってきてから事のさまざまを話した。

 男は私の目線を逸さずに静かにしていたが、どこか疲れや緊張が見えた。おそらく、自分の身の上のことや、未成年に手を出した罪悪感、そして極端なことを考えれば私に殺されるとでも思っていたのだろう。

 荘厳な雰囲気はいつのまにか緊張に変わっているのがハッキリとわかった。コーヒーを一口も手につけてはいない。

 

「僕は、娘の気持ちを尊重しようと思います。だから貴方の気持ちをしっかりと聞きたい」


 男は狼狽えていた。おそらくどうすればいいか判らなくなっていたのだろう。

 娘はその様子を見て小さく震える彼の手をぎゅっと握ってあげた。

 

「私は貴方を愛してる。だから産みたいの。貴方と私の愛の証。たとえ結ばれなくてもそれで十分だから。繋がりがほしいの」


 言い方は悪いかもしれないが、この時、娘が本気で恋して、本気で彼を誘惑していったのだということを、僕は確信した。


 そして男の手のしわを見た時、すでに娘には既婚者であると知られているのにも関わらず、マリッジリングを外してきているというのがなんとなくわかった。

 やはり、コーヒーには手をつけていない。

 彼はこの前の僕なんかよりもずっと迷いの淵に立たされているに違いない。

 

 ようやく開いた言葉は戸惑いの中でどうにか頭から慎重に選んできているようだった。彼の緊張は爆発した。もはや衰弱の気配さえ感じられる。


「私も、きみの事を愛してる。本当だ。だけど、わからないんだ。私は本当に最低なことに家庭を持っているのにもかかわらず、君に恋してしまった。許してくれなくてもいい…どうすれば…」


「大丈夫。私が責任を持って育てるから、私と貴方の子供」


 優しく微笑んだ。娘は内心辛かったに違いない。好きな人と一緒にいられないというのは。


 僕はここで初めて男に少しばかり…いや、沸々と湧き上がる怒りを抱いた。理解わかってはいた。理解ってはいたけれども…やっぱりこんなにひどいことはないんじゃないか。今、ありし日の母が重なっていく。


 せめて大人として責任はとってほしい、綺麗事などないとはわかってはいても、彼なりに誠意は見せてほしい。そんなふうに感情を荒立ててしまいそうになるのだ。一回、渾身の力を込めて立てなくなるまでぶん殴りたくなるのだ。

 でも僕は娘の親として怒りを極限まで抑えつつ、二人の愛を尊重して、できる限り冷静に、怒気を鎮めて提案する。


「…わかりました。娘の子の分まできちんと面倒見ます。けど、貴方は貴方なりに責任は持って欲しい。だから、せめて“認知”はしてほしい。これは僕の親としての精一杯のお願いです。どうかお願いします」


 僕は頭を下げて頼み込む。どうしてもそれは譲りたくなかった。頭を下げてでも押し通したかった。


「本当に、本当に…!」


 だみ声で男は僕と娘に向かって頭を擦り付けるように土下座した。

 カフェの他の客の視線がこっちに収束していく。


「やめてください。顔あげてください」


 僕は貴方のそんな情けない姿をさらすために来たんじゃないんだから。彼の肩を持ち上げて、椅子に座らせた。


 こうして、ことはどうにか事が運んでいくと思われた矢先。


 ———娘が、流産した。


 僕は衝撃で仕方なかった。特に検査では母子共に健康だったはずなのに。やっぱり、あの結末がこたえてしまったのか。


 一応、彼に連絡を入れると一目散に病院へ駆け込んで来た。

 彼はくしゃくしゃな顔をして娘のベットのところに寄って行き、娘の膝の上で大泣きしてしまった。厳しそうなのは見た目だけなのかもしれない。


 僕は二人で話す機会も大事だろうと考え、静かに病室を出る。

 何時間経っただろうか、ふと病室から男が出て行き、一礼して去っていった。覚悟を決めたような顔をして、廊下を歩いていった。


 その後、娘は大学生を始めた。それなりにバイトやサークルにも打ち込んでいるようだった。

 ただ、それで終わらないような予感もしていた。大学の前期が終了した頃、娘がまた妊娠したのだった。今度は彼が僕たちの家までやってきてちゃんと喋ってくれた。

 彼は前の家庭と区切りをつけて娘と一緒になること、娘は大学を暫く休学して万全な状態で出産する事。

 僕は二人に、責任を持って生きていけるのかを確認させた。娘に二度とあんな思いはさせたくないからだ。


 僕はそこまで立派な為人ひととなりをしているわけではないし、綺麗事ばっかりを望むふざけた脳内回路ではあるのだが、一人の親として彼と娘が思い描く幸せを掴んでほしいと切に願うばかりである…


 彼らは小さなアパートに引っ越した。

 また春が、新しい命が胎動する季節が、風雲と共にやってくる。僕も責任を持って新しい扉を開ける。

 僕にはやらなければならないことがあるのだ。彼らの幸せを保証するためにやらねばならない事が。そう決心して一人になった家の重い玄関のドアを押し除けるのだ。

 

 僕は地獄へ自ら行く覚悟で、スーツを着て彼の元々の住所…閑静な住宅街の一角の前で突っ立っていた。思い切ってインターホンを押すと、女性の声がした。


「はい、どちら様でしょうか」


 出てきたのは50代半ばくらいの上品そうな女性で、居間に通された。申し訳ないことにお茶も入れてもらった。

 

「———そう、あの人から聞いてはいたけど、やっぱりそうなのね。ちょっと彼にしてはちょっと意外だったから」


 落ち着いた雰囲気を身に纏いながら、上品さが全く崩れないまま話が進む。対して僕は今度こそ生きた心地がしなくて魂が肉体と離れている気さえした。


「あの人ね、ほんとに堅物で変なのよ。別れて清正したの。今でも時々、『ワスレモノシタカラ、スコシカエッテキタ』なんて素っ頓狂なこと言い出して、ここに帰ってくる時があるんですもの。ほんとにどうかしてるわ。そこがいいところなのかもしれないけど」


 そう笑いながら楽しそうに喋るもんだから、ペースが崩れてしまう。


「どう?彼、しあわせそう?」


「ええ、おそらく…」

 

 戦々恐々と答える。女性は、気を使わなくてもいいのに。堅いのはこりごり!なんていう気丈に溢れるセリフで僕を和まそうとしてくれる。

 だけれど。

 この大人同士の会話だからこそ、遠慮なく聞きたいことがある。今は娘に配慮する必要もない。


「本当に———後悔してませんか?ハッキリ言いますけれど、私の娘は貴方から大事な人を略奪したようなものなんですよ?」


 それを聞いて、女性は少し口を緩めて諦念的な、諦めのある微笑をこぼし、お茶に目線を下ろした。


「実はね、ずっと別れようって言ってたのは、私の方だったの。

 知り合いの紹介で出会ってなんとなくで結婚して、子供も欲しかったけど私の不妊治療が上手くいかなくてって…それでも彼は頑なに私と別れてくれなかった。

 それで30年くらい経って。ある日なんとなく気づいたの。長年夫婦やってるからね。あ、この人もうすぐ私の前から居なくなるって。だから安心したの。ちょっと寂しかったけどね。こんな私を長年連れ添ってくれたんだから、私にとってはそれで十分」


 あーあ、しんみりしちゃった…ごめんね。

 そんな付け足しをして女性はお茶を啜った。僕もつられてお茶で喉を潤す。そして彼女の薬指にはめられたままの指輪を見つけてしまった。

 僕はどうもいたたまれない気持ちになってしまって本当に気まずくて申し訳ない気持ちでいっぱいだった。


「…します…」


「うん?」


「彼を絶対しあわせにします!」


 変なことも口走ってしまった。


「うっ…っぷ…はははははははは!!」


 突然腹を抱えて女性は笑い出した。笑いすぎてちょっと涙も出ていた。


「…はぁはぁ…貴方、面白いこと言うわね!いいわ、うちの堅物おバカさんのこと、こちらこそよろしく!」


 丁寧に向こうからお辞儀されてしまった。

 そのあともいろいろ談話していると、あたりはすっかり夕方になっていた。

 長居しすぎても申し訳ないないので女性においとまさせていただく旨を伝える。


「また遊びにいらしてね、彼と娘さんの話もっと聞きたいから!」


 上品でハツラツとしたその女性はすごくいい人で、彼はとてつもなく恵まれているように思えた。

 玄関で深くお辞儀をしてその家を出る。


 …これで本当に良かったのかはわからない。

 誰かの幸せを祝福するのはこんなにも難しくて残酷だということを知ってしまったから。

 そうして、何気なく空を見ると、静かに昼と夜の間が微睡まどろんでいた。

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