第9話 安らぎの一時

 今日の学校はとても楽しかった。昨日の一件から、また同じような目に合うのではないかと思うと、黒原は心配で外に出ることも億劫であった。布団の中に塞ぎ込み、甲羅の中で危険から身を守る亀のようにうずくまっていた。

 しかし、そんな黒原の手を引いて晴れ渡る空の下に出してくれたのは、紛れもない親友の花撫だった。

 何度か彼女を家に入れたことがあるから、家の場所は知られている。だが、わざわざ彼女の家の反対側にある自分の家まで迎えに来るとは、予想もしなかった。


 朝早くから呼び鈴を鳴らして、祖母が部屋にやって来て、乙葉ちゃんが迎えに来てるよ、と言った時は正直驚いた。

 今日は学校を休もうと思っていたし、行くとしても好きな曲をイヤホンで外からの音を遮断して、大音量で聞きながら登校しようと思っていたから、元々の予定とは全く違って少し嬉しかった。


 いつもは一人で通う道も、親友と二人ならまた違った景色に見える。俯いて歩いていた毎日も、周りを見渡して普段あまり見ることのない景色を目にすることも出来た。

 飛行機雲が天に線を描いている爽やかな青空に、天気が良いからと洗濯物を干している近所のおばさん、元気に短い脚で飼い主を引っ張って歩くダックスフンド。

 大袈裟ではあるけれど、朝の景色にはこんなにも色々な始まりがあるのかと感動した。


「ねえねえ、どうしたの? みおりん。まだ体調悪い? さっきからボーッとしてるけど」


 背筋を伸ばし、ひたすら無言で歩く黒原を心配して花撫が肩を叩く。


「ん、ああ、違う違う。こうして、乙葉と登校する事って今まで無かったし、一人で登校するのとまた違うなって思ってさ」


「そっか、確かにそうだよね。私もあまり誰かと登校しないから、言われてみれば新鮮かも。色んな人の動きが見えるというか、何というか、見てて飽きないって言うのかな」


 彼女の言う通り、様々な人や物が動き移り変わる周りの景色を見ていても飽きる感じがしなかった。

 自分以外にも、同じ高校の制服を着た生徒が同じ道を歩いている人数もこんなにいるのかと、驚いたほどだった。その中に同じクラスメイトの姿も見えた。


「あれ、姫鞠姉妹もこの道なんだね。二人仲良く手を繋いで歩いてるよ、本当に仲が良いよねえ、あの二人」


 姫鞠姉妹とは言うものの、どっちが姉で妹なのかはハッキリしていない。当の本人達も、どちらが上かで争うような素振りを学校で見せることはない。

 日向と月詠はお互いに信頼し合い、尊敬し、頼りにしているということが目に見えてわかる。


「そうだね、学校の間もいつも一緒にいるもんね。何というか性格は違えど、名前の通り太陽と月みたいな関係性って感じ」


「ん、どういう意味?」


 花撫は頭上にハテナを浮かべる。

 上手く伝わるようにと、黒原は身振り手振りで説明する。


「日向さんは太陽、月詠さんは月、二人はいつも空にいる。まるで一年中追いかけっこしてるみたいに仲が良い。だけど性格に関しては、太陽のようにみんなを明るくする元気っ子なのが日向さんで、物静かなんだけど周りに優しいから尊敬されてるって感じが月詠さんかな」


「へえーよく見てるんだね」


 彼女は黒原の人を見る目に関心した。


「まあね、普段から周りの視線気にしてるから」


 黛澄が隣にいる以上、黒原への視線は自動的に集まってくる。またいつ嫌な目にあうか分からない。

 笑顔で話す黒原に向けて、花撫はそれを察して、ごめん、と一言謝った。


 学校に着くと、さっきまでゆったりとした時間は無くなり、張り詰めた空気が教室の中に漂っていた。昨日の一件もあり、黒原の周りには誰一人近付かない。理由は何となくわかっていた。

 近付いたら狙われる、仲間だと思われてとんでもない事をされる、などと自分達への飛び火を避ける為だった。

 でも、ちゃんと支えてくれる人がいる。親友の乙葉もいるし、笹岼さんも休み時間に大丈夫、と心配そうに声をかけてくれた。まさか学園のマドンナの白綺さんも心配して声をかけてくれたのは驚いたけど、それはそれで嬉しい。


「あなた、大丈夫だったの? 昨日、トイレで水をかけられたって聞いたけど」


「あ、うん、大丈夫。心配してくれてありがとう、白綺さん」


「噂では落合絵梨にやられたって聞いたけど、一応私も彼女に喧嘩を売られた身なの。これから仲良くしましょう、えっと・・・・・・」


 白綺は手を差し出し、黒原の顔をじっと見つめる。

 ​───────ん、なんだろう、あ、名前か。


「あ、黒原美織です。よろしくです、白綺眞樹さん」


 差し伸べられた手を握ろうとするが、外国の映画のようにがっしりと握り友好を築くことは出来ず、ふんわりと彼女と握手をする。

 こんな細く白い綺麗な手を、私が握るなんて恐れ多い。

 白綺はそれが嫌だったのか、黒原の手をしっかり握り返し、申し訳なさそうにする。


「ええ、ごめんなさい、私は他人の名前を覚えるのが苦手なの」


 白綺は名前を忘れてしまった事を謝った。無理もない、今まで一度も話していないのだから覚えていたら奇跡だ。

 黒原は、別にいいよ、と笑顔を見せた。


「正直、クラスの大半の名前は覚えていないわ。悪く言えば、興味を持てないのよ。そこまで魅力を感じないから。でも、あなたは違うわ」


「違わないと思いますよ、私には魅力がない、だからこそ落合さんに水をかけられたり、下駄箱に紙を敷き詰められたりするんですよ」


 謙遜して話すが、白綺はそれを嘲笑ったりせずに真剣な表情で黒原を見つめ、謙遜を否定する。


「いえ、魅力があるからイジメを受けるものよ。自分とは違う何かが備わっている、それを人は毛嫌いし恐れ、あらゆる方法で否定するもの。その手段の一つが"イジメ"という卑怯なやり方よ」


 説得力のある言い分で、黒原は言葉を失った。言い返せる言葉は見つからない。

 白綺さんは視野の広い、だからこそ考える事が出来たんだ。普通の、ましてや心に余裕のない人間が考えつく事じゃない。

 黒原は彼女の言葉に、少し救われた気がした。


「ありがとう、ちょっと嬉しいかも。そう考えたこと無かったから」


「当たり前よ、苦痛を与えられたら最悪な方向にしか考えはいかないもの。じゃあ私はこれで失礼するわ」


「うん、ありがとう、白綺さん」


 高貴でかつ冷たい部分があるけど、あんな優しい一面もあるんだ。

 白綺の新たな一面を知れた黒原は、白綺は尊敬に値する人なのだと実感した。


 今日は特別な日、意外な人と話す事も出来たし、私だけ知らない新たな一面も知る事が出来た。

 黒原の今日一日は、喜びの連続だった。白綺もそうだが、昼休みの間が一番印象に残る思い出となった。


 黒原は昼ご飯を食べ終わると、担任の朽城から次の授業に使うプリントを貰いに、職員室まで向かった。


 量は対して多くはないが、病み上がりの彼女にとっては少し重く感じた。朽城の担当教科である数学のプリント、内容を見る限り小テストのようなものだろうか。数字の羅列がずらりと並んでいるのを見ていると、目が回って来る感じした。

 転んでしまい、プリントが風に運ばれて全部窓から飛んでいきました。

 廊下で水筒の中身を飲んでいる人がつい落としてしまい、プリントが全部濡れてしまいました。

 などと言い訳をして小テストを無かったことにしようと考えた。


 だがそんなことをした所で、また人数分を印刷されて配られて問題を解く時間を少なくしてしまい、余計に頭を使うことになるかもしれない。そう思うと、素直に小テストを受け入れざるを得なかった。


 小テストを両腕で支えながら教室まで歩いていると、黒原さん、と誰かに後ろから声をかけられた。振り向いてみると、こちらに微笑む黛澄の姿があった。


「ねえ、この後少し空いてる?」


「まあ特に用事は無いけど」


「じゃあさ、それ手伝うから、早く行こ」


 そう言うと、黛澄はプリントを黒原から全て取り上げると、「うえ、小テストか」と愚痴をこぼし、そそくさと教室へ持っていく。その後を黒原は早歩きで追って向かう。


 小テストを教室まで届けると、こっち来て、と黛澄が手招きをして黒原はその後を追う。

 一体どこに向かうのだろうか。長い廊下を突き当たりで曲がって、渡り廊下を通って南校舎に入る。入ってすぐにある階段を上がって四階に、反対側に向かってまた長い廊下を歩く。

 昼休みはあと三十分しかないというのに、なんて無駄な時間なのだろう。これだったら、安易についてこなきゃよかった。

 そうして、黛澄が後悔する黒原を連れて行った先はというと。


「音楽室・・・・・・?」


「うん、僕は吹奏楽部の部員だって言わなかったっけ」


「たぶん聞いてないと思う」


「そうだったっけ。じゃあ改めて、黛澄翔は吹奏楽部員で担当楽器がギターとピアノなんだ」


 ​───────いや、そんな自信満々に言われても。


「それで、ギターとピアノの担当の黛澄さんは、どうして私を第一音楽室に連れて来たの? しかも南校舎まで連れてくるなんて。北校舎にも第二音楽室があるでしょう」


「こっちの方が都合がいいんだ、こっちの校舎まで来る人は用事がない限り来ないし」


 彼らの高校には、北校舎と南校舎と二つある。北校舎では生徒が学ぶ教室を、四階建ての校舎にほとんど敷き詰めている。南校舎には北校舎に敷き詰められず、溢れ出た教室が備えられている。

 長く続いているこの高校は、元々は南校舎しか存在してなかったらしく、生徒も増え校舎自体の老朽化もあったため、新しく北校舎を建てたのだと学校のホームページに書かれていた。


 彼女達は、その南校舎にある今は授業で使われていない第一音楽室にいる。


「あれ? ピアノとか他の楽器も綺麗にされてるんだ。第一音楽室って使っていないんじゃないの?」


「んーと、使ってるよ。だから綺麗にしてあるんだ。壁とかは古くてちょっと汚れているけど、僕達、吹奏楽部の部室として使っているんだよ」


「へえー、そうだったんだ。全く知らなかったよ」


「黒原さんって、本当に高校二年生なの? 誰でも知ってる事だと思うけど」


「失礼しました、私、帰宅部なんでよく知らないんです」


 頬を膨らませてぷりぷりする彼女を見て、黛澄は呆れつつも笑っていた。


「というか本題は何ですか。これを見せに来ただけなら早く戻って勉強したいんですけど、保健室で寝てた分を取り返さないといけないんですけど」


「わかったわかった、それじゃあここに座って」


 そう言って黛澄は丸椅子を彼女に用意した。


「ちょっと待ってて、本題に入る前に窓を開けるね。ここの部屋、いくら掃除しても少し埃っぽいんだ」


 黛澄は窓を開けて、部室に溜まっていた埃を外へ解放をする。気持ちの良い風が入ってきて、ふわりとカーテンを揺らし外の暖かな陽気が、重たくどんよりとした部室を軽く和らげる。


「ここ風通しがいいね。すごく気持ちいい風」


「でしょ? 僕はこの教室、結構気に入ってるんだ。こういう晴れた日に音楽を聴いたり、奏でたりすると、とても落ち着くんだよね」


 気持ちの良い風を堪能していると、彼はいつの間にかギターを手に持ち、目の前に腰をかけていた。


「えっと、もしかして弾いてくれるの?」


「うん、その為に連れて来たからね。じゃあ目を閉じて、耳を澄ませて聴いててね」


「わかった、お願いします」


 それから、彼はゆったりと落ち着いた音楽を弾いてくれた。まるで広大な草原の真ん中で木陰で横になりながら聴いているような、今まで起きた事を忘れさせてくれるような優しい音色。

 胸にぽっかりと空いた穴を塞いでくれるような、暖かささえ感じた。

 誰もいない教室で二人きり、特別な時間を黛澄さんは私にくれた。でも、どうしてだろう。


「ねえ、どうして私にこんな事してくれるの?」


 素敵な音色を奏でながら、黛澄は答える。


「黒原さんが、色々と大変な目に合っているのに何も出来ないからだよ。僕にはそれを止められるような勇気も何も持ち合わせていないから、せめてもの償いというか・・・・・・少しでも力になりたいと思って」


 と途中で弾くの止めて、暗い顔をして俯く。


「ごめん、これじゃあただの自己満足だよね。でも僕なりに考えた結果なんだ」


 ​───────ああ、この人は本当に優しいんだ。不器用だけど、困っている人を放っておけない人なんだ。

 黛澄さんの優しさが身に染みる。あまり接点のない私の為に、一生懸命に考えてくれたんだ。こんなに思ってくれるなんて。


「黛澄さん、わがまま言っていい?」


「何? 僕が出来ることなら何でもやるよ」


「また最初からお願いしてもいい?」


「・・・・・・うん、わかった」


 この時、彼女は彼の事を好きになった。友達としてではなく、異性として恋愛感情が生まれた。胸の高まりはそれを意味しているのだと思う。

 その後、二人の時間は続き、気付いた時には五時間目の授業が始まっていた。急いで教室に戻る二人の間には、お互いの手がしっかりと握られていた。

 遅れてすみません、とじわりと汗をかきながら教室に入るが、五時間目は数学の小テスト中、朽城が笑顔で廊下にいてね、と締め出される。

 ごめんね、とお互いに廊下で笑い合う中、黒原は一つ気になった事があった。

 教室の中に、花撫の姿が見えなかった。

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