第8話 赤く濡れる
雨が降っている。せっかくあまり濡れずに来れたというのに、帰りはびしょびしょじゃないか。いや、その前にもう、制服はびしょ濡れだった。
視線を斜め下にやり、壁にかけてある時計を見ると十二時半を回っていた。
少しの間、眠っていたんだ。もしさっきの夢であったのなら、パジャマを着てベッドに横になっていて、目を開けたらムンクの叫びがこちらをじっと見ているはず。
だが黒原は、ジャージを着ていて、真っ白な天井に、家のとは違うふかふかのベッドに横になっていることに、ああ現実だったんだなと残念そうにする。
「あ、目が覚めたんだね。良かったあ」
安堵を漏らすのは花撫だった。安心しきって顔全体が緩み、ほっと一息する。
「ここ、保健室? 乙葉が助けてくれたの? 私の事」
「そうだよ、保健室。まあ親友がびちょ濡れで倒れてたら、助けるに決まってるでしょ。親友が困っていたら助ける。普通でしょ? まあ運んだ時に私も制服が濡れちゃってジャージに着替えたんだけどね」
「ごめん、ありがとう」
すかさず謝りと感謝を伝えると、花撫は気にしないで、と優しく微笑んでくれた。
「いいのいいの。それより誰にやられたの? やっぱり落合さんでしょ」
ずばりと当ててくる彼女に、黒原は何も言うことが出来なかった。それに否定することもせず、こくりと頷く。
今回はれっきとした証拠がある、物的証拠ではないけど、この耳で彼女の意地悪な声を記憶している。
「落合さん、明るくて誰とでも仲良くなれる良い人だと思ったのに。勝手なイメージだったのかな、みおりんにこんな酷いことをするなんて許せない」
花撫は両頬を膨らませて腕を組み、プリプリとしている。それもそう、親友がやられたとあらば誰しも怒りに満ち溢れるものだ。
普段の彼女は、多少の事なら片頬だけ膨らませて「もうっ」と一言口にして笑顔になる。だが今回の彼女は、相当怒っているように見える。
それに最悪だ、授業を二時間分も出席することが出来なかった。これで遅れが出て、テストも悲惨な結果になって平凡に青春を送る計画が破綻してしまう。いや、もうとっくに破綻しているか。
黒原は自身に置かれている状況を再確認して、悲しげにうつむく。
そして、自然に喉奥から流れ出た今までにやられたイタズラの事を花撫に告げた。下駄箱に敷き詰められた紙くず、机の上にばら撒かれた消しゴムのカス、そして、赤く塗られたくしゃくしゃの紙で埋め尽くされた下駄箱。
全てを話すと、花撫は黒原をぎゅっと抱き締め、大丈夫、大丈夫と背中を優しく数回さすってあげた。
「みおりん、私がついてるから心配しないで。私はいつだってみおりんの味方だよ」
優しい言葉に、つい涙が止まらなかった。「ありがとう」と感謝を心を込めて伝えた。「いいんだよ」と言ってくれる優しい彼女と一生仲良くしていたいと、心からそう思えた。
黒原にとって、これほどに寄り添ってくれる友達は今までにいなかった。仲良くなってもたった一言で、たった一つの行動で周りは一歩身を引いて去っていく。
「本当にありがとう、乙葉。何かあった時に、こうして味方だって行ってくれる人は乙葉だけだよ。私、中学の頃はいじめられててさ、私が的になると仲良くしてた子もどんどん居なくなっちゃって、それに───────」
と言いかけた時、激しい頭痛に襲われる。先程と同じくらい酷い頭痛、呼吸もしずらい。
「ちょっと、大丈夫! みおりん!」
「う、ううううっ」
今すぐこの頭を取り外して痛みから開放されたいと思っても、そんな事が出来る訳でもない。今は治まるまで耐えるしかなかった。
強く目を瞑り痛みに耐えていると、何か情景が見えてきた。ただそれははっきりとはせず、画面にノイズが走っている。
───────何なの、これ、よく分からない。私には今、何が見えてるっていうの?
黒原は、ノイズと頭痛のせいで強い吐き気に襲われる。薬が手元にあればいいのだが、教室の鞄の中にある。
花撫に取りに行って貰おうかと考えたが、待っている間の孤独を考えたら、一緒にいて欲しいという欲があって口に出せなかった。
「ごめん、ちょっと寝るね。寝れば治るから心配しないで。午後の授業は動けそうだったら行くね」
「あ、うん、わかった・・・・・・じゃあまたね。無理は禁物だよ」
「ありがとう、乙葉」
バイバイと手を振って、保健室を出ていく花撫の後ろ姿を見送り、自分は横になって目を閉じる。
さっき寝ていたからか、頭痛が酷いのに中々寝付けない。枕の位置を変えたり仰向けから横向きになったりと、自分が落ち着く位置も定まらない。
結局、黒原は諦めて仰向けのまま自然に眠れるのを待った。
それからどれくらい経ったか、視界は依然として真っ暗で光すらない。だけど、音は聞こえてくる。まるで深い海の底で聞いているような低く唸る音。
なんだろう、と耳をよく集中してみると、段々と音がはっきりしてきた。これは男性の少し高めの声だ。
「美織、ごめん。俺は、お前の事好きになれない。本当にごめん」
「え、なんで、どうして!」
この荒々しく必死な声、どこかで聞いたことある。ああ、この声は、私だ。しかし、黒原がどうして彼に向けてこんなに必死になっているのかが分からなかった。
段々と視界が明るくなってきた。見えてきたのは、見知らぬ教室と一人の男の子だった。
全く知らない人なのに、それなのに、向こうは私の名前を知っている。
「俺は、美織の事より────の事が好きなんだ」
黒原の肩を持って必死に本心を伝える彼は、短い髪をつんつんとさせた目鼻立ちがくっきりとした少年だった。恐らくサッカー部かバスケ部といったところか、それらしいユニフォームを着ている。
そんな彼は、少し苦しそうな顔をして口を動かす。
「だからもう、俺には関わらないでくれ。勉強も教えてもらわなくていいし、贈り物も要らない。それに、俺の事ストーカーするのも、やめてくれ!」
彼は黒原を軽く突き飛ばし、部活で使っている大きなバッグを肩に担いで教室を出ていった。
意味がわからない。
彼の事を好いていて、勉強を教えてあげたり、贈り物をしていた事はいいとして、まさかストーカーなんて事をするなんてどうかしている。
黒原は自分の行動に納得がいかず、更にはよく知らない人物にフラれて気が動転する。腹の底から怒りが湧いてきて、全身の血が頭に上っていくような感覚に襲われる。
いや、これは単なる夢だ。そう思った黒原は、必死に湧き上がった怒りを抑えようと、グッと目を閉じて大きく深呼吸をする。
黒原はこんなに怒りを覚えたことは一度もなかった。
いたずらを仕掛けられた件や水をかけられた件については、そこまで怒りを覚えていない。ただ今回に関しては、酷く心が熱された水のように沸騰して溢れ出しそうだった。
吸って、吐いてを数回繰り返し、ある程度怒りが収まった所でもう一度目を開ける。
すると、場面は変わり次に目にしたものは誰もいない教室、先程と同じ場所かと思いきや、また別の教室だ。
この教室は物置部屋のようになっており、使わない机や椅子、ホワイトボードや錆ついたロッカーが乱雑に放置されている。
そして、黒原の向かいには、机の上に座る制服の女子がいた。彼女はどこか態度がでかく、足を組んでこちらを見下している。彼女の事もまた記憶にない。
「ねえ、何なの、こんな所に呼び出して。私に言いたいことでもあるわけ? 秦野美織」
───────
茶髪をかきあげる彼女が言う名前についても、黒原は全く記憶にない。違う苗字で同じ名前、もしかすると、この記憶は他の子の記憶で、それが同じ名前だからという理由だけで自分の夢として現れたのかもしれない。
そう考えると、この状況に納得がいく。むしろそう考えないと収拾がつかない。
茶髪の女子は、短く折り曲げたスカートから伸びる足を組み替えて、黙り込む秦野に向けてため息をつく。
「ねえ、黙ってないで早く用件を話してくれる? 私これでも忙しいの」
急かされた秦野は視線を下にずらし、ようやく口を開く。
「あの、────くんには近付かないで。向こうも困ってるから」
眉毛をぴくりと動かして、何それ、と茶髪の女子は威圧をかける。
「意味わからないんですけど。あんたに注意される筋合いがないし、別に付き合ってるわけでもないのに、何でそんな彼女面出来るわけ? 気持ち悪」
「でも───────」
「いや、もう話にならないんですけど。第一、あんたみたいなブスが彼女になれると思う? 無理でしょ」
秦野を軽々と侮辱し、大笑いする彼女に対し、何も反論することが出来なかった。
ああ、このままだと彼に迷惑がかかってしまう。彼女が私達の生活を邪魔して、二人の関係が彼女のせいで壊されてしまう。一体、どうすれば。
その時、秦野の彼への思いが限界まで強まり、まるで何重にも鍵をかけられた扉が一瞬で開放された気がした。
「ああ、そうですか。人がせっかく下手に出てるというのに、あなたはそういう態度を取るのですね」
秦野に取り巻いていた空気が、一瞬で冷たくなったことに茶髪の女子と黒原は全身で感じとった。
「な、何よ、急に。あんただって彼の事が好きなんでしょ? 本人から聞いたわ、あんたにストーカーされてるってね。私はあんたよりマシな行動してると思うけど?」
「急に腕を組んだりすること、ですか?」
「そう、ボディタッチって男子からしたら嬉しいもんなのよ。私の胸とか生脚が当たるだけで鼻の下伸ばして、大事な所大きくしてさ。大抵の男子はそんなもんなの。魅力ある女なら、それだけで男子はイチコロよ」
彼女は、男子を虜にするいろはを自慢げに話す。まるで自分はモテてしょうがないと言わんばかりの口調の彼女に、秦野は可笑しさを抑えきれなかった。
「ふふっ、あなたって本当にただのビッチなんですね。だったら余計に彼には近付かないで貰いたい」
「ビ、ビッ・・・・・・!」
秦野の敬語で、それも笑顔を含めた冷静な一言に、彼女は苛立ちを覚える。
「何、あんた私に文句でもあるってわけ?」
ここで映像は途切れ、またノイズが走る。何ともったいない、最後まで見たかった、などと物語の歯切れの悪さに少し残念に感じた。
好きだったバンドの曲が盛り上がる所で、あえて抑え目に歌ってくれるような、絶妙に物足りない感じが黒原の中に残った。
しかし、秦野の記憶はすぐにそれを満たしてくれた。
また強い頭痛に襲われて視界も変わる。ストロボのようにチカチカとする情景は、正直何が起きているのかよく分からなかった。
ただ一瞬ではあるが、誰かがいるのはわかる。
カメラの揺れが激しくて、目の前にいるのが誰かはっきりしない。どこかに固定カメラなんてものはないのか、周りを見渡そうとするも秦野の記憶である以上、首を曲げることすら出来ない。
揺さぶられて。───────
床に押し倒されて。───────
真っ赤なペンキが飛び散って。───────
え、そんなもの教室にあったっけ。
気付いた時には、茶髪の女子は床に倒れ、全身を包み込むほどの真っ赤なペンキが広がっていた。
黒原が周りを確認する間もないまま、流れていた秦野の記憶はぷつりと途切れてしまった。
次に目を開いた時には、夕焼けが保健室を赤く照らしていた。
呼吸は荒く、汗もびっしょりかいていた。汗のせいで、服がくっついて気持ちが悪い。
隣を見ると、黒原の祖母が座りながら眠っている。おばあちゃん、と声をかけると垂らしかけていたよだれを啜り、起きたのかい、と柔らかな笑顔を作ってくれた。
「おばあちゃん、ごめんなさい。また頭痛が酷くなっちゃって」
「平気だよ、学校から連絡がきた時は驚きはしたけど、顔色も良いみたいだし、病院は行かなくて良さそうだね」
「うん、心配かけてごめんなさい」
「あら、いつの間にこんなに汗をかいちゃって、今、タオル貰ってくるからね」
祖母は、ゴソゴソと勝手に保健室の棚を漁りタオルを探す。保健室の先生に許可を貰った上で行なっていると願いたいものだ。
「あ、そういえば」
「何、おばあちゃん」
「乙葉ちゃん? だったかね。また明日学校でって言ってたよ、あと笹岼って子も、来てくれてたかな」
笹岼さんは、落合さんに怒鳴られたり、今朝のイタズラも見られたりした時、声をかけてくれた。優しく真面目な人、私の事を心配してくれているんだ。
そう思うと、黒原は身近にいる人の優しさが身に染みた。彼女も、秦野も同じように自分の事を心配してくれる人はいたのだろうか。
夢で見た景色を思い出しながら、彼女の事を想って涙を流した。
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