第7話 毒牙

 一度始まってしまえば終わりを迎えるまで、それは永遠と続いていく。ただ、終わりというのは自分で決められるものじゃない。始めた者が決める権利を持っている。


 晴れそうにもない分厚い灰色の雲は、青空を見せることを未だに邪魔している。雨が降るでもない、そこに常駐している。

 最近は傘を手に持ち登校する生徒の姿が多く、いつ雨が降ってきてもいいように準備をしていた。

 黒原もビニール傘を杖代わりに、地面をつきながら登校する。荷物になって邪魔でしょうがない傘に多少の腹を立てる。

 靴を履き替えようと、上靴を出そうとロッカーを開くと。


「えっ、なにこれ」


 前回と同様、くしゃくしゃになった紙がだらだらと靴箱から雪崩のように落ちてきた。いや、雪崩の色ではない。それは深紅に染められた紙くずだった。


「な、なに、何なの。私が落合さんに何をしたっていうのよ」


「おはよう、黒原さん」


 寝起きで水分を取れていないようなガラガラ声で声をかけてきたのは、笹岼だった。

 彼女はメガネをかけ直し、黒原の足下を見るなり閉じかけていた瞼が大きく広がり、思わず「なにこれ」と声を漏らした。


「黒原さん、これは誰にやられたの? これはハッキリとした、いじめよね」


 と言われたところで、さっき来たばかりの黒原には犯人なんて分かりっこない。


「誰にやられたかはさっぱり分からない・・・・・・けど」


 ​───────けど、落合さんかも。


 なんて、証拠も不十分のまま可能性のある人物の名前を上げたところで、無意味だと気付いた黒原はそこで言い留まる。

 だが笹岼は聞き逃さない。


「けど、なに? 思い当たる人物がいるということよね。まあだいたい分かってるけど。あまり印象に残らないあなたの周りで事が起きるとしたら、それは黛澄くんが原因と考えるのが普通よね。ということは、関連付けていくと思い当たる人物は複数人いるわ」


 笹岼の推理をする姿は、まるで現代のシャーロックホームズ、ハンチング帽にベージュのコートを合わせたらまさしくだ。


「複数人? そんなにいたっけ」


「ええ、黛澄くんの事が好きなのは同じ教室に四人、白綺眞樹さんと落合絵梨さん、そして姫鞠月詠さんと花撫乙葉さん。この四人は私が見た限り、黛澄くんの事が好きよ」


 と探偵気取りの笹岼は断言した。

 それよりも、黒原が気になったのは花撫の名前が上がったことだった。本人からは聞いた事のない事である。


「乙葉も黛澄さんのこと好きだったって、私は何も聞いてない」


「それは言えるわけないじゃない。黒原さんが彼の隣にいて、しかも仲良く話している姿を見せられたら、もしかすると、あなたも黛澄くんの事が好きかもしれない。そう考えたら、言い出すにも勇気が必要だと思うけど?」


「そ、そうだね。言われてみればそうかも。でも証拠はあるの?」


 その一言に笹岼は呆れ顔で腕組みをする。


「証拠、証拠って、証拠がないと納得しないわけなの? それとも納得したくない理由があるとか。もしあなたが納得したくない理由があるとしたら、あなたも黛澄くんの事が好きということになるけど」


 ずばりと真髄を軽くつくような言い分に、少し黒原は鼓動が一瞬早くなる。

 いやいや、そんなに緊張することでは無いのにどうして手に汗をかいているのだろう。

 黒原は自分の様子に動揺していた。


「好きとかって気持ちは私は分からないけど、とにかく今は、元の生活に戻るにはどうしていくべきかってこと。笹岼さん、なんかいい案ない?」


 藁にもすがる思いで笹岼に聞いてみるが、頭の良い彼女でも頭を抱えてしまい、ただ唸るだけだった。ズレたメガネを戻すことも忘れるほど深く悩ませてしまう。

 結果、出てきた答えは、とにかく授業が始まっちゃうから昼休みに作戦会議をしようとのことだった。

 それまでに何があるか分からないというのに、落ち着いて授業なんて受けられるわけないでしょ。

 黒原は昼休みまでの時間に、何とか何事もなく平和に過ごせればと、強く願った。


 だが、その願いは届かなかった。


 二時間目と三時間目の間の何故か少し長めの休み時間、教室にいると勉強のために机に向かっていても黛澄は話しかけてくる。それでまたいざこざが起きることを嫌がった黒原は、女子トイレに逃げ込んでいた。

 誰もいないトイレの中、三つある個室の一番奥の一つを占領して、座り心地の悪いトイレの蓋の上で鍵を閉め静かに携帯をいじりながら、雨音が響くジメジメとした陰気な空間にぽつりといる。


 あとは、始業のチャイム五分前になったら教室に戻るだけ。言い訳は何にしよう、お腹痛くてでいいかな。

 今までこんな経験をした事の無い黒原にとって、これは初体験であり、緊張するものでもあった。

 手に汗が滲み出てきて、鼓動が少しづつ早くなってきたその時、トイレに入ってくる三人の女子の声がしてきた。


「ねえ黒原ってさ、ちょっと可愛いからって黛澄と話してさ。まじウザくない?」


 まじウザいよね〜、わかりみ〜。調子にに乗ってるよねえ、まじうざいんですけど、などと頭の悪い会話が聞こえてきて、思わず黒原は息を殺す。

 三人のうちの一人は聞いたことのある声、女性にしては低めで気だるそうな喋り方、これは落合だ。


「ウザさの塊ってやつ? 話しかけたらかけたで泣き始めて、まるでウチが悪人みたいになっちゃってさ」


「悪人顔だったんでしょ。絵梨って怒る怖いし」


 リップを塗り直しながら取り巻きの茶髪が言う。


「そうそう、急に牙向いて毒吐くから蛇みたいで怖いんだよね」


 もう一人の金髪がアイシャドウを描き直しながら口にする。


「あんた達、ウチのことそう思ってたの? じゃあちょっと気をつけないとなあ。黛澄くんに嫌われちゃう」


 鏡にうつる自分を見つめながら落合は反省する。

 今更何を言っているのか、自分にあれだけ怖い思いをさせておいて、それに黛澄さんの前でもあの態度を見られてしまってからじゃ、惚れ直させるなんて不可能に決まってるでしょ。

 と思わず強めのツッコミを入れようとするが、怖くてトイレから出れない黒原はひたすら声を殺して、彼女達が出るのを待っている。


「絵梨さ、黛澄を狙ってるとか言うけどちょっと厳しくない? 絵梨のクラスって白綺と姫鞠姉妹、笹岼っていうレベチな奴らしかいないじゃん。勝算あんの?」


 金髪に問われた落合は、少し悩んでからその問いに答えた。それは自信半ばの曖昧な返答だった。「たぶん」と答えた彼女は、己の立ち位置を理解しているようにも思える。


「たぶんって、絵梨が自信なさそうにするなんて珍しいじゃん。いつもはウチが一番! みたいなこと言うくせに」


 髪の毛をクルクルさせながら、金髪女子は言う。


「そうだよ。他の女子なんて見下して当然、ウチが一番可愛いって思ってる絵梨がそんな不安げな顔するなんて、珍しいこともあるんだね」


 二人が言うように、基本的に落合はどんな時でも自信満々に自分が一番と豪語する自信家でもある。なのに今回は少し奥手のようだ。

 当たり前だ、白綺に姫鞠姉妹、笹岼という綺麗で可愛い女子が集まっているクラス、自分がその上をいって黛澄くんを振り向かせるなんてどれだけ磨かないといけないんだろう。

 なんて頭の中は不安だらけだった。

 男性人気の高い女子が集まっているクラスでは、容姿が良くコミュニケーション力も高いという好印象を持つ落合だとしても、どうしても周りと比べてしまう。

 それに今では、黒原を泣かせたという負のレッテルを貼られている。


「くっそ、なんかむしゃくしゃしてきたわ」


 段々と腹が立ってきた落合は、「あっ」と言って閃く。


「ねえねえ、もしさ、このトイレの個室に誰かいたらどうする? 今話してたこと聞かれてるよね」


 茶髪女子がこくりと頷く。


「ああ、そうだね。ねえ、もしかしてその顔ってなんか思いついたんでしょ」


 高校一年の頃からつるんでいるからこそ気づく事ができる、落合が何かを企んでいる顔。妙にニヤニヤしていて、嫌な予感しかしない表情。汚くも最低なことを思いついたようだ。

 彼女は、むしゃくしゃするとそういうところがある。


「もしさ、この個室に誰かが入ってて、今の会話を全部先生にチクられたらどうする?」


「いないでしょ。さっきから物音ひとつもしないし」


 当たり前だ。息を殺して潜んでいるのだから、物音を立てた瞬間、何が起こるかわかったもんじゃないのだから。

 脚もあげて下から覗かれても見えないようにしているし、ただ上から覗かれたらバレてしまう。覗ける隙間があるとしても、高校女子の身長じゃ基本的には覗けない。

 バレーボール部や、バスケットボール部のような身長や跳躍力があるなら別だが。


「いや、分からないよ。息を潜めて聞いてるかもしれない」


 落合はそう言って、黒原が入っている個室の隣にある用具入れのロッカーを開けて、水が一リットル入るバケツを三つ取り出した。


「ちょっと待ってよ、何するつもりなの?」


「まっ、見ててよ」


 蛇口を捻って一つずつ水を注いでいく。満杯まで入れると、自分の筋力では持つのが大変だからと半分ほどで止める。それらを個室の前に置く。この時、落合のやる気は最高潮まで上がっていた。


「じゃあこれ、上から流し込むよ」


 平然と口にした言葉は、連れていた女子二人には理解されなかった。


「な、流し込むって、トイレットペーパーとか濡れちゃうじゃん。それに、ウチらの身長じゃ届かないし」


 茶髪女子の言う通り、腕を伸ばしても届かない場所にどうやって水を流し込めばいいというのか。しかし、用意周到な落合は脚立をロッカーから引き出した。


「これ、これ使えば届くでしょ?」


 三段ある脚立は、彼女達が乗れば、どうにか個室の隙間にまでの高さなら手が届くようになる。だがそれも、ギリギリ届くかどうかといったところだ。

 一九十センチほどある男子なら、脚立に乗って腕を伸ばせば天井に届く。学校の天井はそれくらい高い。


「これ、絶対やらないといけないの?」


「やっていなかったら、ウチらにメリット無いと思うんだけど」


「いいから、やって」


 行動に嫌悪を持った二人の言い分を殺すように、ドスの効いた声で圧をかける。

 落合は前から自分の思い通りにならないと怒り、恐ろしく非道になることを連れの二人は知っていた。

 言うことを聞かないと自分達が狙われる、そう思った二人は、落合からの命令に渋々従うしかなかった。

 入口の方から順に、用意されたバケツの中の水を個室の中に流し込む。便座や紙、全てがびしょ濡れ、床の隙間から流し込んだ水が広がって伸びていく。


 ​───────ひとつ、ふたつ、そして。


 最後の個室、そこには黒原が声を押し殺して隠れている。

 今のところ、個室の中からひとつも反応がない上に、やはり罪悪感に押し潰されそうになった二人は、「もう無理、ごめん」と残してトイレから走って出ていった。


 彼女達の後ろ姿に意気地無しと言葉を投げつけ、脚立に上がり最後のバケツを個室の上でひっくり返した。​───────


「なーんだ、本当に誰もいなかったんだ。ま、清掃のおっさんがどうにかしてくれるでしょ」


 中からは物音一つしない、誰にも聞かれていなかったんだ。良かった。

 安堵した落合は、空のバケツを床に投げつけてトイレからスタスタと出ていった。


 水は冷たく、痛い、この痛みは体の事を示しているのか、それとも心の事を示しているのかいまいち分からなかった。

 ただその答えを導くまでに、そう時間はかからなかった。

 黒原はびしょ濡れの制服の胸ぐらを掴んで、声にならない声で「ぐっ」と漏らす。悔しさ、悲しさ、その二つが重なり合って苦しみへと変わり、涙として溢れ出た。

 この時はっきりと理解した。


 ​───────胸が痛い。


 平凡を求めて学生をしてきた。何事にも首を突っ込まずに他人の意見を尊重し、自分の気持ちを押し殺して生きてきた。それなのに、こうして偶然かもしれないが罰を受けるはめになった。

 因果応報という四字熟語があるが、この状況にぴったりはまっているのだろうか。

 黒原の頭の中はぐちゃぐちゃで、細かな無数の糸が絡み合って乱雑なモザイクが膨れ上がっていくような感覚だった。

 頭痛も始まって息が苦しくなってきた。呼吸が荒くなって、視界も暗くなっていくのが分かる。


 とにかく、このままここにいても、ここで倒れていても誰かに見つけてもらうまで、ずっとびしょ濡れのままで、鞄に入っている薬を服用することも出来ないし、ただえさえ頭痛が酷いのに体が冷えて風邪を引いてしまったら余計辛くなる。

 黒原はフラフラと安定しない足取りで、薄く水溜まりの出来た床の上をびちゃびちゃと音を立てながら廊下に出ていく。


 必死に教室へ向かっていく彼女を横目に、すれ違う生徒達はひそひそと、やばっ、と口にするだけで誰も助けようという素振りすら見せない。やっとの思いで、自分の教室のプレートが見えてきた。


「みおりーん! どこー!」


 ちょうどよく教室から飛び出してきたのは、周りを見渡す花撫だった。


「お、とは・・・・・・」


 振り絞った声は、どうにもか細く彼女に届きそうもない。それより、もう立っているのも苦痛なほどに限界を迎えていた。足の力が抜けて倒れる。

 水の上に叩きつけられたような音が廊下に響き渡り、花撫の耳にも届いた。

 振り向くと黒原がぴくりとも動かず倒れている。


「みおりんっ!」


 駆け寄って抱き起こすが声をかけても反応がない。黒原の意識は、その時すでに途絶えていた。

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