第一章

今度は助けてみせる

 六月の最終週だったか。空模様がかなり薄暗い日だった。

「これ、うちの新作だよ」

 町外れの古い寺。そこに併設された、閑散とした墓地。

 あたしはひとつの墓石を一瞥すると、手にした箱の中からドーナッツを取り出してそっと供えた。

 それからもう一個、同じドーナッツを取り出した。ごくり、と唾を飲み込み、それを口に頬張る。流石、小麦粉にこだわっていると評判のウチのパン屋だ。カリッとした食感とふわりとした柔らかさ、それに香ばしさが口一杯に広がる。やがて、じわじわと甘い味わいが舌先に広がってくる。

「前からウチにドーナッツ置いてくれたら、って言ってたもんね。今更になっちゃったけど、実現したよ」

 元々ウチの実家のパン屋ではドーナッツは置いていなかった。けど、あたしの我儘で……。正確には、あたしと”この子”の我儘で、親が作ってくれることになった。

 昔からあたしの後ろをついてきて、あたしが馬鹿なことを言っても笑ってくれて、喧嘩した後も一緒に近所のお店で買ってきたドーナッツを食べて笑いあったらなんてこともなくなって、そんな日々を過ごしていた。

 そんな彼女が半年前に自殺してしまうなんて、思いもよらなかった。

 高校は別々だったが、しばらくはちょくちょく遊びに行くこともあった。けど、所属しているバレーボール部が忙しくなったとのことで、あまり顔を合わせる機会もなくなっていた。


 ――まさか、そこでいじめがあったなんて。

 今思えば、もっとあたしが話を聞いてあげるべきだったのかも知れない。ちょっとでも昔みたいにふざけて、彼女のストレスをケアしてあげるべきだったかも知れない。何なら、学校に乗り込んで、いじめていたというバレーボール部の先輩たちをボコボコにぶん殴ってやるべきだったのかも知れない。

 後悔をしてしまえばキリがなかった。けど、当然それらは既に手遅れだ。当のいじめをしていた連中は、責任逃れの言い訳と被害者面をかましながら、とっくにどこか遠い地へ引っ越してしまったわけで。謝罪はおろか、通夜に線香の一本もあげずにとんずらしてしまった。

 あたしは失意でしばらく勉強にも手が付かなかった。まぁ、元々勉強に手は付けていなかったけど、メンタル的にはそれぐらいヤバかった。ウチの親もそんなあたしを見かねたのと、彼女の弔いも兼ねて大好きだったドーナッツをお店で出してくれることを決めてくれたのだった。

「これ、一緒に食べたかったなぁ」

 苦笑いをこぼしながら、あたしはぺろり、とドーナッツを平らげた。指先についた粉砂糖を舐めて、もう一度墓石に手を合わせる。

 ふと、あたしは墓石に供えられたほうのドーナッツに目がいく。お供え物って、どうなるんだっけ? 管理の人が持って帰って食べるんだっけ? このまま放置していたら腐るか、蟻か鳥のエサにでもなるに決まっている。確か、持って帰ってもいいみたいな話は聞いたことがある気はする。

「うん、持って帰ろう」

 当たり前の話だが、墓石が物を食べるはずはない。この場であたしが食べてもいいのだが、今食べただけでもうお腹が一杯になってしまった。あたしは供えたドーナッツを箱の中に仕舞い、ゆっくりと立ち上がる。

 ポツ、と手の甲に何か当たった感触があった。雨、だ。

 そういえば、今朝の天気予報で夕方から天気が崩れるとか言っていたっけ。何でも、ここ数年に一度レベルの強大な台風だとかなんとか。あたしは急いで帰ろうと鞄を手に持って、傘を広げた。


 帰り道。あっという間に、天気は崩れてしまった。風もかなり強くなってきて、傘が何度もおちょこになってしまう。

「ちょっとぉ、台風来るの早すぎでしょ! あぁ、もう! ドーナッツの箱がびしょ濡れになっちゃうじゃん!」

 箱が崩れて中身に影響してしまうのはなんとか避けたい。あたしは必死の思いで、手に持ったドーナッツを死守しながら歩いていた。

 途中、川を跨ぐ橋に差し掛かる。既に川の水は勢いを増し、轟々とうねるような音が聞こえてきた。

 ——もうすぐ、家だ。

 あたしは歯を食いしばりながら、一歩一歩、着実に橋を渡ろうとしていた。ここを抜けて家に着いたら、まずシャワーを浴びて、ゆっくりとテレビでも観ながらドーナッツと紅茶で一息つこう。それだけを考えながら——。


 そのときだった——。


「うわああああああああああんッ! 助けてええええええええええええッ!」

 どこからか、必死な声が聞こえてきた。

 川のほうからだ!

 あたしは足を止め、橋の上から川の方を見下ろした。

「あれは……」

 声の主はすぐ分かった。まだ小学校にも通っていないような女の子が、川で流されそうになっていた。なんとか、川岸から生えている細い枝を掴んでいるが、あれじゃ折れるのも時間の問題だろう。

 誰か助けを呼ぶか、と思ったけど——。


 ——助けて、助けて。


 脳内に響き渡る、助けを呼ぶ声。それは次第に、あたしが救えなかった彼女の声へと変わっていく。


 ——また、見殺しにするの?


 そう問いかける、あたし自身の声。

 彼女が亡くなってから、何度も聞こえるような気がしていた。多分、気のせいなのかも知れない。けど、そのおかげであたしは人の生命というものに対して、非常に敏感になったと思っている。

 うん。心は決まった!

「待ってて! 今あたしが行くから!」

 あたしは橋の袂にドーナッツを置いて、せめて濡れないように傘を被せておく。風で飛んでしまうか、と思ったけど、すぐに戻ってこれば問題はない。

 急いで橋の下にやってきた。地面は非常にぬかるんでいて滑りやすくなっている。

「たすけてえええええええええ!」

 泣きじゃくる女の子はもう限界が近付いているようだった。

「もう大丈夫だよ! さぁ、手を掴んで!」

 あたしは手を差し出した。なんとか、身体を目一杯前に出して、なるべく女の子が手を取りやすいようにする。

 ——もう少し。

 女の子の短い腕じゃ、そう簡単には届かない。けど、諦めるわけにはいかない。あたしはなんとか、思いっきり、手を前に出した。


「お姉ちゃん……」

 ごめんね。もう少しだから、我慢していて。

 そう言いたかったが、今は声を出すのも辛かった。

 ——もう少し。


 ——もう、少し。


 そして——。

 女の子の手を、あたしは掴むことができた。

「やったッ!」

 そのまま一気に身体を起こし、女の子を川岸まで引っ張り上げる。

「う、うわああああああああああん!」

 女の子は思わず泣きじゃくった。

「よしよし、もう大丈夫、だよ」

 あたしはほっと安堵する。今度は助けられた。ただ一人の、物凄く小さな命。あたしは女の子を見据えながら、ゆっくり立ち上がった。

 本当に、良かった——。


 そう思ったのも束の間だった。


 ぶわああああああああああッ!

 と、突然強烈な風があたしの身体に吹き付けた。


 ——あ、れ?

 あたしは身体を煽られて、そして背後にのけ反ってしまう。

 そして——。


 つるっ、と川岸のぬかるみに足を滑らせてしまい、


 今度は、あたしが川に落ちてしまった。


「ああああああああああああああああああッ!」

「お、お、お、お、おねええええちゃああああああああああんッ!」

 女の子の悲痛な叫び声が聞こえてくる。けど、それは台風と水の音に搔き消されてしまう。あたしの身体は冷たい川の水に揉まれて身動きが取れない。川岸まで戻ろうとしても、もう遅い。

 次第に視界が薄暗くなっていく。身体の冷たい感覚が、もうない。


 ——あぁ、そうか。

 あたし、もうダメなのか。

 もう身体をただ水に任せるしかなかった。

 これは罰なのかも知れない。いじめから彼女を救えなかった、あたしへの罰。

 だったら仕方ない、か。甘んじて受け入れよう。墓参りの帰りに死んでしまうなんて、いいお笑い種だけどさ。

 ——もしかしたら、あの子の元へ行けるのかな?

 なんて悠長なことも脳裏に過ってしまう。けど、あたしが行けるわけがない。

 気掛かりなのは、さっきの女の子と、橋の袂に置きっぱなしにしていたドーナッツのことだ。女の子は無事に安全な場所に戻れたかな? あたしのことを助けようとか、くれぐれも思っちゃダメだよ。

 あと……。


 あのドーナッツ、だけどさ。

 もう風に飛ばされているかも知れないし、雨でびちょびちょに濡れてしまっているかも知れないけど。

 良かったら、さ。


 ——あたしの代わりに、食べちゃって、いいからね。

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