りもちょこ
うたた寝
第1話
バレンタイン。それは何となく女子の一大イベントのように扱われる風習があるが、彼女は学生時代、一度もこの行事に深く関わったことは無かった。女子高だったから縁が無かったとかではない。純粋に興味が無かったのである。
どれぐらい興味が無かったかと言うと、ある日クラスメイトが言い出した、『みんなでお金出し合ってクラスの男子全員にチョコ配ろうよ』という提案を『嫌だ』と孤軍で突っぱねたくらいには興味が無かったのである。
彼女だって人並みの学生生活を過ごしてきた。好きな人くらいはできたし、告白をしたことだってあるし、交際経験程度もあるが、結局バレンタインに好きな人にチョコをあげる、という経験はしなかった。時期的に綺麗にバレンタインを通らなかった、というのもあったのかもしれないが、仮に通っていたとして渡していたかどうかは怪しいところである。
バレンタインをチョコレートの売り上げを上げるための製菓会社の陰謀だ、なんて言い出すつもりは彼女も無い。何故チョコなの? 相手チョコ好きなの? という疑問程度は持つが、それは年越しに蕎麦を食べる、年明けにおせちを食べる、というようなものだろうと納得している。そういうものなんだから、そこに文句を言っても仕方がないのである。
だからこの風習に乗っ取って、『好きな人にチョコをあげる』というのも彼女は否定しない。それが片想いだろうと、両想いだろうと、何かの想いを形に乗せて伝える、というのは素晴らしいものだろう。こういうイベントがあったからこそ、思い切って想いを伝えられた、という人も居るだろう。
彼女自身には興味が無いというだけで、『バレンタイン』というイベントを端から見ている分にはむしろ好きかもしれない。楽しんでいる人が居るのだから、そこにあえて水を差すような真似だって彼女はしない。押し付けられたらそれを突っぱねる程度のことはするが、それくらいである。
が、一つだけ、どうにも彼女が納得いかない文化は『義理』という文化。これ、果たして必要だろうか? これはそれこそチョコの売り上げを伸ばしたい製菓会社の陰謀だ、と言われても仕方がない文化だと彼女は思う。
世間体を気にしているのか、純粋な好意でかはよく分からないが、義理チョコを配る気持ちはよく分からない。『義理です』と言われているチョコを貰って嬉しい男子なんて居るのだろうか? チョコ好きであれば、タダチョコ貰えるので嬉しいかもしれないが、逆に言うと、チョコが苦手な男子は、苦手なチョコを押し付けられた挙句、ホワイトデーのお返しをせがまれるという、ちょっとした悪魔の取引のような気がしないでもない。
本命チョコは渡すタイミングが無かった、義理チョコは断固拒否った、ということで、彼女がチョコを渡した経験なんていうのは、日頃の感謝の意味合いも込めて、父親にデパートで買ったチョコを渡す程度のものだった。
そうやってバレンタインというイベントをさほど通らずに大人になった彼女であったが、社会人一年目、ひょんなことから納得のいかない義理チョコを配ることになる。彼女が入社した会社にそういう風習があったのである。
学生時代のように拒否ってやろうかとも彼女は思ったが、とりあえず一年目は大人しくしておこうと思った。渡す相手は基本的に先輩社員だし、出費はせいぜい500円程度。であればまぁ、日頃の感謝を込めて渡してもいいだろうと思ったのである。
新入社員は出す金額が一番少なくていい反面、みんなに配るのも新入社員の仕事である。役職、社歴を書き込んだ座席表を片手に彼女はチョコを配っていく。あんま気にする人は居ないとのことだが、一部居るとのことだったので、役職、社歴が上の順に配っていく。
最初こそ順調に配っていた彼女だが、数が減って来るにつれ、途中から嫌な予感がし始める。チョコの入った箱を片手に配っているのだが、その数がだんだん数えられる程度の数に減っていく。するともう片方の手に持っている座席表に居る人の数と正確に比べられるようになっていく。
フラッシュ暗算みたいな高度な計算を求められるわけではない。小学校低学年で習うような単純な計算である。それでも見間違い、数え間違いにわずかながら期待していた彼女だが、数が減っていくにつれ、その可能性も減っていく。
そして案の定、最後の一人を目の前にして、彼女の持っていたチョコの箱は空になった。
チョコを用意したのは彼女ではない。誰がやったのかは知らないが、こんなの完璧にそいつの発注ミスである。だが、実際に配っているのは彼女で、渡せないのも彼女なのである。この一人にだけ渡さないというイジメのような空間に居るのは彼女なのである。
気まずい。普段滅多に物怖じしない彼女だが、この時ばかりはそっと目を逸らした。なにせ相手はいっそ無邪気と言ってもいいような、貰えると信じ切っている顔で両手をこちらに差し出しているのに、そこに乗せられるチョコが無いのである。気まずいことこの上無い。
しばらくは健気に彼女の方に手を差し出していた先輩だが、彼女が露骨に目を合わせてくれないものだから、事情を察したのだろう。察しつつも希望だけは残しておきたいのか、両手は彼女の方へと差し出したまま、
「……え、えっ? な、無いの……?」
「……すみません」
何故私が謝らなくてはいけないのか、とは内心思いつつも、謝る人がここには彼女しか居ないのだから仕方がない。それに彼女が悪いわけではないとはいえ、罪悪感が無いわけではない。
役職が上の人から渡していく関係で、どうしても新入社員の一個上の先輩というのは最後に渡すような形となる。つまり、実質一番彼女の面倒を見てくれている、一番彼女が業務でお世話になっている社員に渡せない、ということになる。
先輩はあからさまにしょぼんとした顔になると、両手は彼女の方へと差し出したまま、椅子から落ちて両膝を床へと着いた。端から見ると完全に物乞いをする人みたいになっている。
「チョコ……、俺のチョコ……」
そんなにチョコ好きだったか? と思うほどに先輩は大袈裟に悲しみ始めた。まぁ確かに、チョコ好きでなくとも、みんなが貰っている物を一人だけ貰えないというのは悲しいだろうし、怒りさえも覚えるかもしれないが、そんな『全財産賭けた馬券をすった人』みたいな悲惨な顔を全力で作らなくてもいい気はする。
先輩が大袈裟に悲しみ出すものだから、周囲の人間も何事かとこちらに視線を向けてきている。何だ? これ私が何か慰めるようなことを言わなければいけないのか? というかおい女性陣。お前らの誰かが発注ミスしたんだからフォローに来いよ、と彼女は思いつつも誰も来やしやがらないので、
「あの……、」
何て言えばいいのかよく分からないので、とりあえず声だけ掛けてみると、聞こえているのか聞こえていないのか、先輩はズルズル~、と床に溶けて行った。両手の平だけ上に向けたまま床にうつ伏せになっている。物乞いの最上級みたいな恰好をする先輩と、その正面に立つ新入社員。まずい。よく分からないがこの図は明らかに彼女の世間体がヤバい気がする。先輩のプライドを捨てた超高度な社会的攻撃なんじゃないかと思えるほどだ。
彼女はそっと先輩のもとを離れると、自分の席の引き出しを開け、中から個別包装されているチョコを一個取り出す。元々は彼女の糖分補給用に用意してあるもののため、みんなに配っているものと比較すると大分値段は下がるが、無いよりマシだろう。彼女はそのチョコを先輩の両手へと置く。
手の重みに気付いたのか、先輩はパッと顔を上げ、自分の手の平に乗っているものを見つめると、ムクっと復活した。そして、
「うぉぉぉっ! チョコだぁぁぁっ!!」
大歓喜である。大喜びである。チョコ一個でそんな喜ぶかってくらい大はしゃぎである。義理チョコ文化にはあまり肯定的ではなかった彼女だが、これぐらい反応してくれるのであれば、義理チョコもありかもしれない、と初めて少しこの文化を理解した。
何か知らんが予想外に先輩のテンションが上がったため、これを逃さずにさっさと許してもらおうと彼女は、
「今年はこれで許してください」
「……『今年は』?」
そんな深い意味を持って言った言葉では無かったのだが、先輩が妙なところに引っかかった。そして彼女も気付いた。何となく言い回し的に来年埋め合わせします的なニュアンスになっていそうだ。そのせいか、
「『来年』もくれるの?」
何か先輩が変なことを言ってきた。まず初めにこのチョコは別に彼女が用意した物ではない。会社の女性陣で買った物である。だから来年もくれる、くれないの話であれば、風習が途絶えない限りはきっと貰えるだろう。渡すのはきっとその時の新人である。居なければワンチャン彼女が配る可能性もあるが。
そういう意味では回答は『はい』になるのだろうが、この会話の流れだと変な風に解釈されそうなので、
「おそらく」
やや曖昧さを残して彼女は答えた。すると、
「手作り?」
立て続けに先輩が変なことを言ってきた。何だこれは? 埋め合わせにチョコ作りを強要されているのか? パワハラで訴えてもいいか? と彼女は考えていたが、今社内の雰囲気がいつの間にか先輩に同情的なものになっていたので思うだけに留めておいた。こんな雰囲気で下手に先輩に対して攻撃的な発言をすれば批判を浴びかねない。
「考えておきます……」
YesともNoとも言わないこういう回答の仕方はあまり好きではないが、その場を切り抜けるための適当な返事は時に必要なのである。それを聞いて先輩は無邪気な笑みを浮かべると、
「楽しみにしてる」
作るとは言ってないぞ、と彼女は心の中だけでツッコんだ。
あれから1年。入社してから二度目のバレンタインを彼女は迎えようとしていた。
一年前の出来事を覚えているとか、いないとか。作るのか、作らないのかとか。渡すのか、渡さないのかとか。そういうのは一旦脇に置かなければいけないような、根底を覆す事態が起こった。
「何故このタイミングでリモートワーク……?」
そう。まさかのこのタイミングで会社が社員のリモートワーク化を進め始めたのである。働き方改革だか何だか知らないが、今年の1月中旬から移行作業が始まり、2月からは完全に移行となってしまった。
遠方から来ている人や介護や育児などを行っている人のために環境改善をした、などとうたってはいるが、察するに、リモートワークをするにあたって、ネット環境や全社員へのノートパソコン支給などの初期投資の方が、毎月毎月払う事務所の家賃よりも、長期的に考えて黒字になるのだろうと、彼女は読んでいる。
まぁリモートワーク化を進めた真相はともかく、彼女としてもリモートワーク化は好ましい。往復の通勤時間が丸々無くなるため、プライベートの時間が確保しやすくなった。人と会えないのが寂しい、という意見もあるみたいだが、彼女はあまり共感しない。そういう声が半数くらいあるので、あまり大声では言っていないが、一人の方が全然作業が捗る。
飲み会も最初の一回以降断り続けている彼女にとって、自然と飲み会が消滅するこの制度は大変ありがたい。直接顔が見えないとコミュニケーションが取れないなんて言う人も居るが、彼女としてはゆっくり読めて時間を掛けてから返せるチャットの方が助かっている。
リモートワーク化によるストレスなど微塵もなく、むしろストレスから解放されて元気になり始めたにも関わらず、今日の彼女の顔は珍しく、今一つ釈然としないものになっている。
「……どうしようかな」
彼女はパソコンの前で頬杖を着きながらキッチンの方を見る。そこには普段から自炊をする際に使っている調理器具とは別に、ここ最近買ったと思われる真新しい調理器具が置かれていた。真新しくはあるが、ここ最近の使用頻度で言えば恐らくトップの調理器具である。そして恐らく、今日を過ぎれば一気に使用頻度が下がるであろう調理器具。
流行りの便利グッズかと聞かれれば、そうではない。包丁でできるなら包丁でやる。時短になるのかもしれないが、作るのはどうせ一人分。わざわざ買うほどではない。
調理器具を新調したのか? いや、そうでもない。壊れたならいざ知らず、さほど道具に拘りも無い彼女がまだ使える道具を差し置いて新しい物など買うハズもない。あれは残念ながら今ある調理器具では代用できなかったのである。
ではそれは一体何のための道具なのか? その答えは同じくキッチンに置かれている、丁寧にラッピングされている物にある。
作らなくてもいいかな、という気持ちが正直8割以上あった。なにせ先輩がどこまで本気で言っていたのかも分からない。仮に冗談で言っていた場合、え? 真に受けてたの? と変な雰囲気になりかねない。また、本気で言っていたとして、作っていかなくても文句は言われないだろう。そんなパワハラ紛いのものが横行している会社でもないし、そういう先輩でもない。
冗談だろうが本気だろうが、作らない、という選択肢が彼女にはあった。その選択肢を選ぶこともできた。だが、作らない、という選択肢を取ろうとする度に、あの時の先輩の異様な落ち込みようが頭を過った。作る面倒よりも、また同じように社内で床にうつ伏せになって物乞いされる方がよほど面倒なような気がした。あの物乞い戦法は周囲を巻き込んで同情的な雰囲気を作り出してくるため、下手するとパワハラよりもたちが悪い。
……という、偽りなきネガティブな動機が半分と、残りの半分は、一個10円もしない程度の安いチョコをあげただけで、やたらと嬉しそうな顔をしていた先輩の顔が頭に残っていた。あれだけ喜んでくれるのであれば、多少の手間と面倒は引き受けてもいいかな、という気持ちがあった。それに去年の出来事に多少の引け目が無いわけではない。
そんなこんなで、とりあえず、渡すかどうかは別にして、渡したい気分になった時に渡せるよう、作るだけは作っておこう、という結論に至った。渡す・渡さないはその時の気分で決めればいいのである。
しかし、自炊しているため料理の経験はあれど、お菓子作りの経験など皆無だ。本を買い、道具を揃え、と色々準備が必要だったのだが、やはりバレンタインシーズンを過ぎてしまうと、その手の本や道具は店頭に並ばなくなってしまった。専門店にでも行けばあったのかもしれないが、二度やるかも怪しいイベントのためにそこまではしたくなかった。結果、彼女が本と道具の準備を終え、練習を始められたのが大体1月の中旬くらい。その直後くらいに会社がテレワークへの移行を始めだしたのが何とも皮肉な話である。
週一くらいでは出社させられるものかと思っていたが、事務所は引っ越しの準備に入るため、しばらく来るなとのことだった。各社員が家で仕事をするため、今ほどの事務所の広さは必要無くなる。狭く安いところに引っ越して、家賃を浮かせようということなのだろう。この辺の動きの早さを見ると、働き方云々ではなく、やはり支出を押さえたかったのではないか、と彼女が疑うところである。
まぁ、それは別に会社の経営方針なので好きにすればいいのだが、タイミングが最悪である。せめて一か月くらい後ろにずらしてほしかった。もしくは一か月早めてほしかった。
道具も買った。人様にあげる物なので練習もした。道具の方は買えば済むし、使い方を覚えるのもさほど苦労はしなかったが、この練習には中々苦戦させられた。何せ作る以上はそれを食べなければいけない。そして彼女自身はさほど甘い物が好きではないのである。
一人暮らしで毒見させる人も居ない。となると、試作品は全て自分で処理することになる。その関係で甘さはどんどん抑えた物へとなっていったが、まぁ甘さは後から好きに足せるだろうから、その辺はお好みで調整してもらえばいいのである。
材料調達のために近くのお店に通い過ぎたせいか、店員さんに顔を完全に覚えられ、時期が近付き買う人が増え、売り切れになりそうだった材料を別で取っておいてくれたり、絶対に何か変な誤解をされているのだろう、最近は買いに行く度に頑張って、などと言われる。大分恥ずかしいので、あまり行きたくないのだが、応援してくれていることもあって、定価より大分安い値段で売ってくれているので、お金と恥を天秤にかけ、彼女はそのお店に通い続けた。
普段甘い物を食べないのに急に食べ始めた代償か、何がとはあえて言わないが、色々と彼女の体にも反動がきている。一応散歩だ筋トレだ節制だと色々抵抗してはいるが、とりあえず怖くて体重計には乗っていない。あまりそういうのを気にする方でもないが、普段少し緩いくらいだったズボンが緩くなくなり始めたら流石に恐怖である。
そういう諸々の犠牲を払ってまで作成を進めていたチョコが渡せない、というのは些か、いや、とっても困るのである。一体この期間は何だったのか? 私のお金と労力とウエストを返せという話になってくる。
というわけで段々、相手のためというよりは自分のために受け取ってほしいところなのだが、リモートワークに移行した関係で中々これが難しい。何せお互い会社くらいしか会う接点が無い。一応コミュニケーションアプリのアカウント程度は知っているが、これもほとんど業務連絡用である。プライベートな会話などしたこともない。
会社に住所を聞いて送ってみるか? いや、個人情報の観点などもあるので教えてはもらえないだろう。仮に教えてもらえたとして、会社内でとんでもない噂が広まることは想像に難くないし、何より住所を教えた覚えも無い女子からチョコが届いたらそれはもうホラーである。百年の恋も冷めるに違いない。
どうしたものかと、彼女が業務をサボって考えていると、どういう因果か、パソコンがピコピコと鳴り始めた。チラっと画面を見てみると、件の相手から通話が着ているらしい。ん? と思ったが、物思いにふけるというサボりをしていたためか、チャットに気付かなかったらしい。何度か通話しても大丈夫? という連絡が着ていた。
ふ~む、と彼女はしばらく考えてから、普段はonにしないカメラ機能をあえてonにしてから通話に出た。
「もしもし?」
『あ、もしもし? お疲れ様です。今通話大丈夫?』
「大丈夫ですけど、急にどうしたんですか?」
『いやー、なんかユーザが怒り狂っててねー。ちょっとヘルプをお願いしたく』
「ほー」
返事もしていないのに通話が掛かってきたからある程度の緊急性は伺えたがなるほど。温度感の高いユーザで急ぎの対応らしい。となるとちょっと難しいか? と彼女が考えていると、
『ん? ちょっと待って?』
「?」
画面上に映っている先輩の目線がこちらから逸らされる。恐らくチャットか何かを見ているのだろう。先輩が読み終わるのをしばらく待っていると、
『何じゃそりゃー』
先輩が苦笑いしながら顔を上げた。
『ごめん、何か大丈夫になったみたい』
「何ですか? それ」
『あんま詳しい事情は俺も分かんないけど、何かユーザ側の不手際って結論になったっぽい。まー何かグチグチ言ってるみたいだけど、テキトーに聞き流してくれるってさ』
「ああ、なるほど」
『おっ。流石2年目。理解が早い』
ユーザから問い合わせが来て調べるが、原因が結局ユーザ側にある、というのは割とよくある話である。そういう問い合わせをしてくるユーザはもうある程度固定化されているため、このユーザから来たら大体ユーザ側に問題がある、というのが社内の共通認識としてある。いちいち怒っても仕方ないので、『何じゃそりゃー』で流すくらいがちょうどいいのである。
『ごめんねー、ありがとー』
「あっ、」
『ん?』
通話を切られそうになったので、彼女は無意識に声を出していた。慌てて自分の口元を手で押さえるがもう遅い。通話を切ろうとしていた先輩は彼女の声にその手を止めて、彼女の方に向き直っている。
口元を手で押さえながら彼女は少し考えて、
「先輩、ちょっと暇です?」
『ちょっとというか、暇だけど、どした?』
聞いといてなんだがまさか正々堂々と暇です、という回答が返って来るとは思わなかった。まぁ、暇ならいいか、と彼女はキッチンの方へと離席すると、ラッピングされた箱を取って戻って来る。そしてそれをカメラの前へとかざす。
「これなんですけど」
『おっ? 何それ? プレゼント?』
覚えて無さそうだな、と思ってカメラから引っ込めてやろうかと彼女は思ったが、どうせ出したのだしもういいか、と彼女は話を進める。
「今日一応バレンタインなので」
『えっ? あっ、ああーっ! そっか今日バレンタイン……、出社しないもんだからその辺の感覚無くなってた』
どうやら去年の話云々の前に、今日が何の日か、という認識が無くなっていたらしい。
「一応去年それっぽい約束したので渡そうと思ってたんですけど、まぁ、こういう状況ですので渡せないんですけど」
『えーっ!? マジかよっ!? 普通にショックッ!! いやいやいや、住所教えるから着払いで送ってよ!!』
「いや、それはしないですけど」
『ぬわにぃーっ!?』
先輩が画面上で大驚愕しているが、言った彼女もちょっと驚いた。『送る』という方法を取れないかと考えていた彼女にとって、相手から住所を教えてもらえる(しかも着払い)という理想的な展開になっていたハズなのに、反射的に『しない』と言ってしまった。自分で『送らない』という選択肢を取ってしまったことに引け目は感じつつ、言った言葉を取り下げるのもなんなので、
「まぁ、一応作りましたよ、っていう報告だけしておこうかと」
『生殺しやないかっ!!』
何かそのうち画面からこちらへ飛び出してくるんじゃないかっていう勢いでカメラにくっついている先輩。それを見て彼女はおかしそうに笑うと、
「これは私が後で美味しく頂くので」
『何だっ? 何だ何だっ!? 最終的にただの自慢かっ!? これはっ!?』
「まぁまぁ、来年もこうして画面の前で見せびらかしてあげますから」
『いやいやいやっ! それはもはや何の調教っ!?』
「それが嫌なら上行ってリモートワークを廃止にでもしてください」
『んなにぉ~っ? 言ったなぁ~っ!? 上等だっ! 上行って労働規則に『全女性社員は男性社員にバレンタインにチョコをあげること』っていう一文を追加してやっかんなぁっ!!』
その労働規則を追記する際の社会情勢は知らないが、今の社会情勢だと明らかにアウトな一文な気がするが、まぁ、公共の場の発言でなければ、どんな夢を語ろうが、それは各自の自由である。
「はいはい、楽しみにしてますよー」
作ったことも自慢できたし、一しきり笑ってスッキリしたし、ということで、今度は彼女の方から通話を切ろうとすると、
『……でも、ありがとね』
突然お礼の言葉が聞こえてきたので、その手を止める。
「? 調教してくれて、ですか?」
『違うわっ! そんなドMじゃないわっ!!』
違うらしい。まぁそもそも調教した覚えも無いので、そこに対してありがとうございます、と言われても彼女だって困るわけだが。
『チョコ、俺のために作ってくれたんでしょ?』
そう改めて確認されると彼女もどことなく恥ずかしいのだが、
「……ええ、まぁ」
お礼を言ってくれているので、はぐらかすのもあれだと、ちゃんと肯定はしておく。ただそれだけではやはりどことなく恥ずかしいままなので、
「渡しはしませんが」
と、一言余計に付け加えてみた。そんな意図など分かっているのか、分かっていないのか、
『いいんだよ。作ってくれたってだけで嬉しいんだから』
「………………」
そう素直にお礼を言われると、さっき反射的に渡しません、って言ってしまったことを若干後悔する。今からでも訂正しようかと思ったが、それはそれで先輩に気を遣わせそうである。送ってほしくてお礼を言っているわけではない。本当に純粋に作ってくれたことに対する感謝なのだろう。それにお礼を言われたから送るなど、随分と現金な話である。素直じゃないと言われてしまえばそれまでだが、彼女はそんな簡単に自分の言った言葉を曲げるような尻軽女ではない。
だから、
「……先輩」
『ん?』
「どんなチョコが好きですか?」
決意が揺るがないうちに、また素直じゃない言葉が出てくる前に、新しい約束を今ここでしてしまおう。何せ言った言葉は曲げないのだ。そいつを逆手に取ってやればいい。
渡せなくなってしまった今年のチョコ。結果的にはきっとこれで良かった。どこか義務感で作ってしまったこのチョコは、相手の好みも聞いていない、自分よがりの物になっていただろうから。作った時の想いと渡す時の想いが一致していない物は、きっと渡さない方が良かった。
渡さなければいけない、ではない。渡したい。喜んでくれるかも、ではない。喜ばせたい。
カメラの死角でラッピングの紐を弄りながら返事を待っている彼女の姿は、明らかにこのイベントを楽しんでいるようだった。
りもちょこ うたた寝 @utatanenap
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