第20話 人魚の涙

 その指先が海図のうえを動いた。

 止まった先に亜瀬という文字があった。

「そこは?」

「亜瀬という岩礁らしきものがある、と山彦山神社の由緒書きにある。あの魂生位石の対になる巨石がここにあると言われている。由緒書きにはこうあった、不知しらずして此の上を船渡る時は、たちまち変あり、と」

「変とは、なんだ」

「座礁したり転覆して沈没に至るそうだ。生き延びた船はいないとさ」

「そこの調査はしたのか?」

「ああ、ダイバーの神門さんを知っとるよな、磯焼けで馬糞雲丹の駆除とかをしている。ああ、そういやお前も手伝っていたか。彼が潜ってみたところ列石にも似た巨石があったらしい。やはり火山生の柱状列石らしいが、海藻が生えていて詳しいことはな。また流れが早いので、教授とか素人では危険すぎる」

 そうして橘は声を顰めて、いった。

「ここだけの話なんだが」

 何かを探るような、躊躇する顔をしている。この男のこんな表情はあまりみた事がないので、その緊張がこちらにも伝染ってくる。

「鮑の大きいのを、神門さんが採ってきてな、ここでこっそり食べたんよ、また彼が潜る時には、お前の分も頼んでおくな」

「つまらん心配なんかすんな!漁協には言わんわ」

 拍子抜けで忍び笑いをお互いに漏らした。そんなポイントなら、そりゃ沢山いるだろうな、としばらく雑談になった。

「もう海女さんも近付かん場所だしな。まあその亜瀬だが、ここがな大潮の深夜に鬼火のような発光現象を起こすらしい。あの大前の漁師の板垣さんも見たと言うぞ」

 数年前に亡くなった漁師さんだ。補聴器の調整で自宅まで通ったことがある。旨い塩辛を分けて貰った。彼からは、そんな話は一切聞いたことがなかった。

「発光するのは亜瀬の周辺なのか?」

「よくわからん。こんな手書きの文書もあるが、光源なんか見当もつかんな」

「あのさ、この亜瀬で人魚を見たという記録はないか」

「記録にはない。ただこの漁場で海女さんが見たとは、又聞きで聞いたことはあるな」

 それはこの島が華やかな、昭和時代のことだ。

 私は小学生の高学年で、ちょうど受験のために島を離れるかどうかと言う時期で、もう四半世紀は昔のことだが、漁業で島は潤っていた。

 当時は鮑漁が盛んで、島外の海女さんの出稼ぎもあったという。

 初夏の頃で、出稼ぎ海女の証言だという。

 白の磯着を着た彼女が、手鉤を持ち、鮑袋を腰に結えて、素潜りをしていたという。当時はウエットスーツなどは普及していなかった。今でも素潜りが基本で、フィンも使わない慣わしになっている。

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