第21話 人形の涙
その朝も波頭を蹴立てて小舟はいった。
亜瀬から手前を根城として潜っていた。
その海女は伊勢からの出稼ぎで、その頃は珍しくもない。それに記録写真に残る往時の漁獲量は驚くほどだ。鮑漁で建った御殿は珍しくもない。
県道も舗装されてないのに、子供の通学路を案じて舗装された私道がいくつもあったくらいだ。
その海女はまだ30代半ば、子供をふたり育てていて、学費を貯金するつもりで島に来ていたという。
島の漁場にはそれぞれに縄張りがある。余所者には容易に教えてくれるものでもない。
流れが早いということと、山彦山神社の趣意書に書かれた伝説のせいで亜瀬には地場の海女は近づかない。彼女は何故という疑問を胸に押し込んで、そこを根城に定めた。
岩場には大振りの牡蠣や鮑が密生していた。鮑ノミで剥ぎ取っても剥ぎ取っても尽きることのない、豊穣の海だと思った。腰に下げた鮑袋はすぐに一杯になって、一日に何本も潜った。
大漁の鮑を抱えて漁協で売りさばき、水揚げ金をその日のうちに郵便局の口座に入金する。この地を紹介した仲買人に手数料を払っても、預金残高はみるみるうちに増えていく。
その海女は周囲から白眼視されているのが、痛いほどわかった。元々は他所からの者に優しい土地柄である。だが余りにもその得ている糧が大きすぎた。
あの海女は盗人まがいじゃ。
亜瀬の社を汚しとるんじゃ。
いずれ海神がお怒りになる。
それを堪えて年季が明けるのを指折り数えて待っていた。
しかし。
その日が巡ってきた。
海女の狙うポイントは日々深く遠くになっていく。
この島の大潮の時期は潮位の差が激しい。
素潜りでは近づくこともできない、亜瀬の竜宮を海女は見てしまった。
海底に巨大な鳥居にも似た石組みが屹立している。
びっしりと海藻に覆われて、鮑も密生している様子だ。竜宮と呼ばれる場所だろう、と息を堪えながら海女は思った。
そこまでの潜水は危険だと思った。
明日の干潮の水深だと何とかなるかもしれない。
そう考えたとき、海女の耳に言葉が届いた。
《なにか・・・ある》
振り返ると白い肌が見える。
小ぶりな乳房が陽光を映えて、蒼い。
その蒼い果実に、珊瑚の色をした乳首があった。
まず地場の海女かとも思った。彼女自身は白い磯着を着ている。地場の海女は縞の磯襦袢だし、素肌で潜るのは戦前の習わしだ。
そして長い髪が海中に広がっている。
だが髪の毛の先を追っていくと、腰のあたりから鱗に覆われた下肢が見える。その先で尾鰭が重たく水を搔いていた。
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