第19話 人魚の涙
診療所まで意識は保ったらしい。
そこまでの記憶は曖昧の彼方だ。
そしてストレッチャーに載せられて、運ばれる記憶が切れ切れに散らばっている。同僚の外科医が語るのはその時の話らしい。
筋トレを欠かさない彼は肩幅も広く、生身でありながらアメフトの防具を着込んで入るように見える。
「まあ医者の根性というか、よくもこの新築病棟に軽で突っ込まなかったもんだ。駐車場にしっかりと駐車していたよ。響ちゃんが走って教えてくれたんだ」
そうか。
それでこの処置を受けたのか。裂傷で5針とか言っていたな。
「意識が混濁していてな、それで脳挫傷を疑ってエコーをかけた。そうしたらピーピーうるさいって跳ね退けるんだ。超高周波だぞ、あれ。そんな音してるなんて誰も知らんよ」
「ところで俺はいつ退院できるのかね」
「まあ、気分が良ければ、今日は自宅療養をこの主治医が請け負うな。家に帰ってゆっくりしたらいい」
そう言って同僚は逞しく笑った。
波止場までゆっくりと歩いた。
気分は悪くないし、平衡感覚もある。聴覚に異常はない、とは言っても医者の不養生だ。自分の肉体の変化には、むしろ無頓着に過ぎる。
聴覚か・・・切っ掛けはなんだろう?
あの人魚との接触念波が契機なのか。
イルカなどの水生哺乳類は、超音波を使い水中を遠視して泳いでいるという。
緩い坂道に背中を押されるように歩くと、右手に路地が見えてきた。ふと靴先が歴史文化資料館へ向かう。学芸員の友人に不平の一つも聞いて欲しかった。
「ご苦労だったな。島ではさらに有名人だ」
「いや、もう名誉の負傷なんて言えんよ、恥ずかしい。いやちょっと質問があってな」
「あのさ、橘。幻覚かもしれないが、俺には響ちゃんが時化の海にいた覚えがある。それも姫神島神社の下鳥居の先だ。あそこは、急に深い壺のようになっていた。離岸流に流されて溺れかけた」
成る程な、と言いながら橘学芸員は席を立って、海図のような地図を出してきた。それには水深なども記載されている。
「・・この辺りから断崖になっているな。そうしてこの先が鮑がよく獲れる。今は人数が減ったが、海女さんの漁場だった。そうそうダイバーが調べてみたら、あの魂生位石によく似た、柱状列石の巨岩があるそうだよ。それがもう見るからに鳥居の形状をしているのだと」
あの光る海の話を、彼は始めようとしていた。
雄賀島の姫島神神社と、雌賀島の山彦神神社を直線で結んだ線の海底が、大潮の夜に怪しく光るという。それを見たという漁師もひとりやふたりではない。
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