第17話 人魚の涙
東風が風雨を打ちつけている。
波濤が暴れて白く砕け、その波飛沫がここまで飛んでくる。
その波間に白い太腿を見せて、すらりと彼女は立っている。
私は傘を捨てて、迷わずに海に靴のままざぶりと踏み込んだ。冷たい海水が靴にどっと侵入してくるが、ワークブーツの底は海藻の付着した石にも足を取られることなく、響を救助出来るだろう。
予想以上に流れが早く、足を取られそうだ。
「動かんとよ、転ぶよ」と叫んだが風に吹き散らされる。両手を広げてゆっくりと岩場の足元を探っている。右手のLED電灯は手首だけを返して、彼女に光点を当てている。
長髪が濡れ髪になり、頬に貼りついている。
車にバスタオルを数枚入れて来ている。すぐに拭き上げないと低体温症を発症してしまう。
血の気の引いた肌は雪の儚さで、そこに桜色の唇が僅かに微笑している。そして何事かを呟いている。
やっと辿りついた、と思った。
その瞬間に足場が消えた。
顔まで海中に没して、しまったと思った。岩場が途切れて深い壺になっているらしい。靴だけではなく、衣服に身を切るような冷たさの海水が雪崩れ込んでくる。深く呼吸をして、ぐっと息を止めた。
落ち着け。両手を伸ばして浮力を取れ。
LED電灯は放した。大丈夫、ストラップで手首に掛けている。立ち泳ぎで、響が取り残されている岩礁まで泳げばいい。
そうか。
その岩場で遊んでいて、満潮で取り残されているんだろうと思った。海中でもがくように蹴り出すが、海水を吸った衣服が重い。さらにすり鉢状の深みに底流があり、流されている。
私は焦った。
何度も波を被り、視界が奪われている。
それを響が覗き込んで見ているような気がする。防水仕様のライトが揉みくちゃに見当違いの方向に向かっている。
その光が奇妙な色を捉えた。
蒼と翠とが折り重なった美しい輝き。
艶かしく、優美に曲線を描くうねり。
あ、声にならない叫びを呑み込んだ。
響は岩場に、立っていたのではない。
微笑みつつ急流を割って進んでいる。
揃えた太腿が浪に見え隠れしている。
抱き止められた。
予想外の荷重が加わった。
響の下腹に顔を埋めて、そのまま押されているのがわかる。
信じられない。私よりも二回りは華奢な少女の脚力ではない。
例えフィンを両足に履いていても、この荒天で巻きついてくる荒波を、斜めに穿つことが出来るだろうか。
それも大人を抱えて。
理解できない思いを巡らせながら、私は彼女の腰に縋っていた。
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