第16話 人魚の涙

 大粒の雨が降り始めた。

 海流のせいだとは思う。

 島の天候は移ろいやすい。その夕暮れ時には雲が覆っていたが、まだ雨雲には程遠く、水平線には落陽の光が雲の向こうに透かし見えていた。

 それが梅雨とは思えない大粒の雨となり、軽自動車を出した。そのフロントガラスに打ち付けている。

 いけない、響ちゃんの居場所が屋外であれば、低体温症も心配になってくる。ワイパーの速度をもう一段上げてそう考えた。

 その瞬間にスマホが鳴った。

 路傍に車を寄せて停車し、電話をとると息子からだった。

「・・伊織、どうした。なにか連絡があったんか?」

「いや。別に」と彼は口ごもる。

「あんさ、思い出した。響ちゃん、姫神島神社によく行ってた、そう言ってた」

「わかった、姫神島だな」

 私は車を発進させて、そこへ向かった。


 雄賀島の青方湾の奥に、姫神島神社はあった。

 石造りの鳥居が海の際にまで並んでいる。

 姫島神神社の創建は飛鳥時代の702年になる。その2年後には雌賀島に彦山神神社が分祀されている。両岸で対になって航海の祈願を祈ったのだろう。

 夫婦諸島の雄賀島に姫神島神社、雌賀島に山彦神神社。

 性別が互い違いになっているのは、雌賀島のご神体に依るものだろう。雌賀島の中腹に奇岩があり、それがご神体になっている。

 魂生位石と呼ばれている。

 古事記に記された神話の時代より、生殖器を崇めた歴史がある。生命の誕生は神からの恵みでもあった。男根を模したような形状の自然石にあやかって、男性神として分祀が行われたのではないだろうか。

 私は駐車して、LED電灯を片手に車外に出た。

 名前を呼びながら、青白く反射する視界に踏み込んだ。

 海側には急な石段があるので、注意は必要だった。

 嵐に近い風雨の闇にも、白い波頭が砕けているのが、わかる。

「満潮だ・・・」と思わず独り言を吐き出した。

 背筋に冷水を浴びせられたような寒気がする。傘を畳んで石段をゆっくりと確認しながら降りる。そうしないと、打ち付ける東風に傘があおられてしまう。

 動悸が早鐘のように鳴っている。

 その波間に白い腕が見えた気がする。

 いや、それは錯覚だと繰り返している。

 いた。鋭利なもので胸を突かれたような衝撃がある。

 少女が髪を風雨に打たせながら、水際に立っていた。

 紺色のワンピースを着て、波のうえに白い太腿が見えている。その深さでは足をすくわれる恐れがある。

 動けないのかもしれない。

 大声で名前を呼んだ、いや叫んだ。

 ゆっくりと桜色の唇を開きながら、彼女が振り返った。

 

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