第11話 人魚の涙
遠くで鳶が唄っている。
笛の音のようなそれが円弧を描いて、この耳に届いている。岬の上空を舞っていた鳶の声と思われた。
額の汗が甲虫が這っているような感触で、頬へ流れている。
埃の匂いと香草の香りがしている。
私はその戸口に立ち、暫く固まっていた。
中央祭壇の前に微動だにせず、ぬか付いた孤影があるからだ。
その身体の大きさから老女のように思われた。
私はカトリックではない。盆暮れだけお参りする不信心な輩なので、その膝立ちしている後ろ姿に尊いものを見ていた。
白絹のケープを頭にかけ、そこにステンドグラスから虹の光が落ちていた。
ケープの下に色落ちした蓬髪が見え、そのまま薄衣は紺が斑らに掠れた作業着まで掛かっている。塑像にも見えた彼女が不意に十字を切り始めた。
オルガンの代わりに鳶の声が降って来る。
それが天上の声にも思えた。
信仰心というものを考える。
篤い心が現実に祈っている。
自分の想念に浮かんだ、人身御供などといった先刻の考えを恥じていた。やはりこの篤信が、爪に火を灯すように倹約をして、捻出したものに思われた。
私の気配を察したのか、彼女が振り返ってあらよと口にした。聴覚が劣っているので、不自然に声が大きい。
「あらよ〜、先生じゃねすか」
白内障で左目が盲いている。私の担当患者で、補聴器の調整をしている。水気を失った夏蜜柑のような肌で、可愛げのある笑みを浮かべた。
「お邪魔してすみません。お祈りはもうお済みでしたか」
「塩梅終わったとこじゃ、もう先生はお帰りになると?」
「午後の便待ちです。ちょっと時間があったので、ここまで上ってきました。そうそう補聴器の調子はどうですか」
「まだ大丈夫。ウチの畑に野菜があるんで、持っていかんね」
そう言って立ち上がって歩き出した。こちらが手を貸したくなるほど背が曲がっていたが、それでも杖をつく程ではなさそうだ。
その首からロザリオが下がっている。
そのロザリオには紺碧の塊が埋め込まれている。
遠目にそれは瑠璃のようであった。
白浪を蹴立てて小舟が入港して来た。
町内船の定期便だ。乗客は私だけで、荷物も機材鞄と老女から頂いた野菜の詰まったビニール袋だけだ。
モーターボートのキャビンには操舵手と船員の2人がクルーとして乗船している。いずも白い制服を着こなしている。船員にチケットを渡して席につき、港を出る頃には救命胴衣の付け方等のレクチャーも終了した。
船内にも室外機の爆音が響いている。
凪いだ海面を滑るように疾走っている。
「瑠璃の収まったロザリオを見たことがありますか」
何気ない一言に船員の表情が強張った。
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