第10話 人魚の涙
まだ陽は高かった。
船着場に出たがまだ町内船の時刻には遠い。
診療時間が余るのは珍しい。補聴器はこの夫婦諸島のご老人の持病でもある。田畑を耕すひとは耕運機で、漁船を操るひとは船外機で、其々のエンジン音で耳をやられる。
それで発声の調整が上手くいかないので、独白でさえ盛大に呟く。
鳶が岬の上空で、滑るように飛んでいる。
教会まで歩いてみようかと、ふと思った。
私は不信心なもので、父祖の墓守りを年老いた母に任せっきりになっている。そう中学に上がる頃に家族は島を出て、福岡の山麓に居を移していた。後々気がついたが、それは私の学業を慮ってのことと知った。
医師への道を拓いてくれたのは、その決断が分水嶺だと思う。
その実家にもかろうじて盆暮れに訪う程度で、そのお参りにクルマを出して母を乗せていくのが、数少ない信心に当たる。
この人影も疎らな島に信仰のためにしがみつく彼らを、かつてはどこか遠い存在に思っていた。やはり声を聞き、その身体に触れて問診をすると、実感が湧いてくる。
教会への道は、モルタルを塗った細道が羊腸のように伸びている。海側へは開けているが、山側は灌木が連なっている。潮風を浴びて、灰色のモルタルは所々がひび割れて、薄く白砂を被っている。
先程はこの岬の上空を鳶が舞っていた。
そこを曲がっていくと教会の姿が、丘の上に見えてくる。
瑠璃の塊が打ち上がるという。
そう、あの老人は語っていた。
貴重なもんだでな、と。
貴重なものということ。
私は教会を遠く眺めている。
関連性がある筈だと感じる。
キビナゴという小魚の漁で、あの教会の建築費を賄ったという。
勿論のこと信者たちは惜しみなく部材を運び、労役を負担して汗をかいただろう。それでも建築家を呼び、部材を購入するのは生半可な金額ではない。
その瑠璃を換金したのではないか。
畏れ多くもなあ、という言葉から真実が溢れ落ちている気がする。
私の靴先から、土埃が上がる。
崖から白砂の砂浜が見える。きめ細やかな粒子の砂粒が、上昇気流に煽られてここに積もっている。その量が多くなってきた。
成る程、ここを鳶が根城にしているわけだ。
ふと。
禍々しい想念が湧いてきた。
もしかすると。
人魚はひとを喰うと言った。
人身御供。
美少女を贄として人魚に捧げて、高価な瑠璃を得ていたのではないか。
汗ばんできた背筋に、ぞくりと冷たいものが駆け抜けた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます