第9話 人魚の涙
診察室に沈黙に沈んだ。
「アレは人を喰らうけんのう」と老境の漁師が再び口にした。
こちらが聞き逃した、とでも思ったのかも知れない。
「人魚は人を喰べるのですか」
「喰べる、という姿は見せんが・・・なんちゅうかアレは年を取らん。昔からみじょか《かわいい》娘ばっかだ。ばってん何十年かに若い娘が消えちょる。跡形もなくな。そりゃあ儂らも水死体を沖まで探すわな。んでも見つからん。そいで神隠しということにする」
私は記憶を巡らせたが、自分の経験では行方不明になる少女はいなかった。その10数年には、神隠しの年はなかったということだけなのか。
「けどな。神隠しのあった年には
と彼は言い淀み口を切った。
「ああ、先生。瑠璃んこつは忘れてくんなせ。儂の言ったことばね」とばつの悪そうな表情で席を立った。
戸口を潜る時に、不安げな眼を背後の私に向けたが、軽く首を振って去っていった。その影が逆光の西陽に切り取られて見えた。
雌賀島は上空から見るとそら豆の殻の形をしている。
島の多くは急峻な山地であり、有効な耕作地は少ない。
海底が隆起してできた凝灰岩が風化してできた、白砂の聖浜が美しい。島の南部は海底火山の噴火で形成された赤い岸壁が海にそそり立っている。
海難事故での遺体はよくその岸壁に流されてくる。
そら豆状のくびれの端に船着場があって、平地が広がるのはここくらいだ。
そのために耕作地と集落の殆どは周辺に集まっている。それでも人口減と高齢化のため耕作放棄地が多く、野生の鹿の食害に悩まされている。
むしろ人間側がフェンスの中に囲まれて暮らしている。
船着場は雄賀島とは反対側にあり、世界に背を向けてひっそりと咲く花のような生活が続いている。
携帯の電波さえここでは途切れがちだ。
人口は50人ほどで集落は20戸に満たない。それでも不便なこの地を離れないのは、信仰の力による。彼らは隠れキリシタンの末裔たちでもあった。
島の高台にある聖賀教会を守り続けている。
禁教令が布告された江戸時代にまずは壱岐から、次には長崎の半島側の外海地区から、幕府の追捕を畏れた隠れキリシタンらがこの島に移り住んだ。
往時より雄賀島よりも辺鄙な地域であり、荒れた土地を開墾する労苦と信教は隣合わせになっていた。幕末にはこの島にも幕府の司直が伸び、捕縛されて拷問などの弾圧を受けた。
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