第8話 人魚の涙

 紺碧の深淵に立つ。

 水中で体幹を正す。

 足元には波紋が砂地に刻まれて、沖へと続いている。

 赤砂が混じった帯が、碧に呑まれて遠くでは黒々として岩盤に続いている。

 その場所は離岸流があるので遊泳禁止区域となり、ある程度の経験と自信がなければ海には入れない。

 その場所でもう一度呼びかけてみた。

《ここに、有る》

 それは人魚特有の言葉の言い回しでもあった。

 彼女の言葉には違和感があった。しかも肌を接触していないと届かない。音声ではなく、皮膚から脳裏に響く念波に近いものだ。言語とはまた違うもので、幾つもの記号や絵画を並べて意思疎通を行うのに近い。

 自分の呼びかけも視界が捉えた光景に、ただ《ここ》と脳裏に刻み続けているだけだ。

 それはかつての少年の頃も同様だった。

 海流の底から青みを帯びた白い肌をした人魚が、彼女が頭髪を靡かせながらゆったりと姿を現して微笑むのを、胸を焦がして待っていた。


 翌週には雌賀島へと渡った。

 こちらには集落で30戸あまり、住人は高齢者ばかりで50人足らずの限界集落になる。しかしながらこの地には世界遺産にも登録されたカトリック教会がある。そして残った住人は敬虔なクリスチャンでもあった。

 信仰のためにこの不便な環境に耐えている。

 食料は雄賀島を中継して行われる。逆にこの島のダムから上水が供給されることで、雄賀島は文化的な生活が送れている。補完し合う夫婦のような関係性でもある。

 この島での診療は、ほぼ補聴器の調整になる。季節の移ろいで変調するし、耳垢が溜まれば聴力に違和感を覚える。

 診療を終えた最後の患者は元漁師の老人だった。炎熱で炙られ続けて漁をした年月が、ひなびた蜜柑のような皮膚に残っている。皺の奥まで日焼けした頭皮に胡麻塩のような毛髪が威勢よく立っていた。

「お爺さんは、さ。長い漁師暮らしで人魚を見たことはある?」

「ああ。何だって」と大声で尋ねられたので、こちらも声を張り上げた。

 高齢者同士の会話に音質を調整したので、聞き取れなかったかもしれない。

「いやさ。聞こえとるよ」

 彼は不機嫌そうな面立ちになって、舌先で唇を舐めた。

「・・・昔は、時々は見たさ。唄も聞いたことがある」

「そうか。実は僕も、子供の時に見たような気がしたんだ。それが夢だったのかどうかと思ってさ」

「ばってん、それは他人には言っちゃいかん」

「なんで?」

「アレは、人を喰らうけんのう・・・」

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