第7話 人魚の涙

 春風が触れたような柔らかい感触。

 それが実体を持って置かれている。

 そっと私の腕に触れたその手から、少女のものとは思えない想念が伝わってきた。電流でも流れたかのように、指がぴくりと反射的に動いた。

《貴方は、有るの》と音声では無い声が問うた。

 その声音は、かつて聞いたことのある声だ。

 水底から響き渡ってきた声。

 巻き上がる海流に乗った声。

「どしたん、先生?」

 あどけない声にハッと意識を掴まれて、私は苦笑をしていた。白い肌に唇の色が薄い。小振りな綺麗な顔立ちの少女がきょとんとしている。いつの間にか手は離している。

「ごめんね。くしゃみが出そうだった」

 と誤魔化す私に、その娘は年相応の声で笑った。


 確認したいことができた。

 私は次の休日に浜辺に出て、ドライスーツを着込んだ。春の海とはいえ、水温がまだ温むには程遠い。空気層を含んでいるこれは厳冬期でも耐えられる。

 最近では島の海底に磯焼けという現象が起きている。

 食用に値しない雲丹が繁殖をして、海藻を食い荒らしてしまう。そうすると海藻で生育する甲殻類や小魚が減少する。結果として海の恵みが枯れてしまう。

 青年団でその雲丹の駆除を買って出ている。

 そのために皆がダイビングライセンスを取っている。それは遊びではなく、海を守るために率先して行動している。それが若い世代の習いという認識だ。

 自前のダイブセットを軽ワゴンに積んで、紅浜に向かう。

 文字通りに赤い砂浜に紺碧の海が打ち寄せている。離岸流が発生しやすいので、遊泳禁止区域になっている。

 雄賀島は海底が隆起して生まれた岩礁に、火山が噴火してその岩礁を覆ったという地歴を持っている。そのために砂岩が風化した白浜と、火成岩が風化した紅浜を持っている。溶岩に含まれた砂鉄成分のために錆色を帯びた砂浜が広がっている。

 今日はバディを伴ってはいない。この大分ではそれ程の深度には向かわないのと、単独でないと彼女が現れないかと懸念していた。

 あの記憶が幻でなければ。

 海に入る瞬間だけは寒さを覚えるが、水中に入ると冬を引き継いだ透明な空間にいる。春先の澱んだ空とは格別の差に思えた。

 私は水中に立ち、海底を覗き込んだ。

 多少は沖に出たので、海底までは20mはあるだろう。

 そのまま立ち泳ぎをしながら、呼びかけた。

《ここに有る》と。

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