第23話

 力強い腕に支えられ、何度も海水が口から流れ込む苦しみに耐えていた。いつ終わるとも知れぬ時間を海の中で過ごし、すっかり体が冷え切った時に堺の岸壁が視界に入って来た。

「どうだ? そこの石に手が届くか?」

 敵とも味方とも分からぬ男が頭の後ろから聞いて来た。

 夢中で右腕を伸ばし、岸壁の透き間にしがみ付いた。

「よし。その調子だ」

 すぐ後で、男も岸壁に辿り着いた。

 右の方を指差す。

「よーし。そのままあっちに行くぞ」

 海に浮かびながら、岸壁を移動する。

 しばらくすると、真っ黒な穴がぽっかり空いた空洞がいきなり目の前に現れた。

 それは、夜の闇を更に深く塗り込めた誘いの空間に感じられた。

 男は、先に穴の中に登ると、小夜に手を伸ばして引き上げた。

「ありがとうございます」

「まだ、礼を言うのは早いぞ」

「え?」

「この後は、ゾンビ達の間を走って行かなくてはならないからな。息を整えておく事だ」

 その言葉に全身を悪寒が走った。

 急いで穴の中に目をやると、その向こうから重々しい冷気と禍々しい死の影が揺蕩うように流れて来る予感がした。

「なかなか良い勘してるな。そうだ。この中には入らない方が良い」

 男は、そう言うと海の方に目を向けた。

「その為には、あいつらに来て貰わないといけないんだが」


 どれだけ沈みかけたか知れない。

 もう、力尽きると宗次郎が思い始めた時、自分の体が軽々と引き上げられた。

「よーし。良く頑張ったな」

 留三の声に安心する。

「全く、幾ら泳げないって言ったって、もう少し出来ると思ったのに」

 時雨も留三の手を借りて引き上げられた。それ程、宗次郎を支えての泳ぎに体力を奪われたようだ。

「おい。ふたり共大丈夫か? まだ先があるんだぞ」

 宗次郎は、留三の言葉が理解出来なかったが、それよりも先に確かめないといけない事があった。

「ああ、女はここにいるぜ」

 暗闇で余り顔が分からないが、宗次郎が何を言いたいのか良く分かっていた。

 留三は、小夜を指差して、宗次郎をその隣に座らせた。

 宗次郎は、手探り気味に小夜の手を取ると安心して、一気に脱力した。

「お小夜さん。大丈夫ですか?」

「はい。大丈夫です。少し海の水を飲んでしまいましたが……」

「良かった。ほんとに良かった……」

「宗次郎さんも怪我とかされていませんか?」

「ええ。私は、大丈夫です」

「それは、良かった」

「はいはい。そこまでにしてくれよ。時間無いんだ。こんな所に長居したら、いつゾンビに襲われるか分からないんだからな」

「留三さん。どうしてあの船にいたんですか?」

「そういうのも、全て後だ。女の警護はお前に任せるぞ。時雨もいいか?」

「いいけどね。余り期待されても困るよ」

「ああ。心配無い。まずは、すぐ近くの屋敷に移動して、そこで体を休めよう」

 留三は、三人の様子を確認すると、岸壁を登り始めた。

「この通路は使わないんですか?」

 留三は、宗次郎に顔を向けずに小声で答えた。

「そうだ。どうも、この通路はきな臭い。もう使わない方が良い」

「それに、暗いし狭いし、戦いにくいからね」

 時雨も留三と並びながら岸壁に張り付いている。

 宗次郎は、ふたりに遅れないように、慌てて小夜を背中に乗せた。

「落ちないようにしっかり捕まって下さい」

「はい」

 小夜は、言われるままに両手を強く握り締めた。

 まだ、疲れの取れない宗次郎だったが、背中に感じる華奢な存在のおかげで腹の底から力が湧き出ていた。

 登り切った所は、港の倉庫街前の道だった。

 静かに顔を覗かせると、月明かりの下、多くのゾンビが行き来しているのが見えた。

「この中を突っ切るつもりなの?」

 ゾンビに聞こえないように時雨が留三に聞く。

「ああ。そこの道を入った先にある屋敷に行く。玄関や勝手口の出入口は中から塞いであるから、屋根に上って二階から忍び込むんだ」

「そこで、休めますよね?」

 留三がちらりと宗次郎を見る。暗闇が細かな表情を隠す。

「後少し頑張れるならな」

 時雨が後を継ぐ。

「死ぬ気で頑張れって事ね」

「……さっき、死にそうになったんですけどね」

 留三と時雨が顔を見合わせ、肩を竦める。

「さあ、休憩はお終いだ。宗次郎は、その子をおぶって後からついて来るんだ」

「分かりました」

 宗次郎の返事にふたりは音も無く道に飛び出した。

 踏みしめる小石の音も聞こえず、僅かな衣擦れもまた同じ。宗次郎が驚くのも無理は無い。

 それでいて、高速度で走り抜けるふたりについて行くのは骨が折れる。

 宗次郎は、普通に小石を飛ばしまくる。その音にゾンビ達は振り返る。

 ゾンビが宗次郎と小夜に向かって唸り声を上げる。体ごと体当たりするように、両手を伸ばして頭から突っ込んで来る。

「くそっ」

 どうしても遅れ気味の宗次郎は、ゾンビと戦わなければならなくなる。小夜を背負ったままでは、まともに刀も振れないし、動きも緩慢にならざるを得ない。

 その宗次郎を見かねて、留三と時雨も戻って来た。

「奴らに集まる時間を与えるなっ」

「そうは言われても……」

 小夜を真ん中にして、三人で囲みながらゾンビ達を蹴散らす。そうなると、自由になった宗次郎は、軽々と相手を倒して行く。

「そうか」

 宗次郎の戦いぶりを見た留三は、今度は自分が小夜を抱き抱えた。

「宗次郎っ。道を切り開いてくれ。時雨は後ろを頼む」

 留三の指示により、三人の連携が上手く回り始めた。

 優れた剣士である宗次郎が迫り来るゾンビ達を排除し、元より身のこなしの軽い留三は、宗次郎の後を離れずついて行き、身を守る事に長ける忍びの時雨がギリギリで後ろからの攻撃を躱して行く。

「あそこだっ」

 とは言え、軽くても人ひとり抱える留三の負担は大きい。背負う暇も無かった事で、不安定な体勢のまま走らざるを得なかったのは不覚だった。

 そろそろ、体力の限界に近付いて来た時、目指す商人の屋敷が三人の視野に広がっていた。

「そこの樽を踏み台にして、二階に駆け上がるっ」

「先に行って下さいっ」

 宗次郎が道を空けると、最後の力を振り絞って、留三は飛んだ。

(やばいっ)

 さすがに、疲れで踏み込みが足らず、十分な高さを確保出来無かった。このままでは樽にも上がる事が出来ず、頭から転落してしまう。

 その時、すぐ後ろにいた時雨が、留三の様子を見て、その背中を一気に突き押した。その勢いのまま、時雨も樽に駆け上がり、留三の背中を支えながら、もうひとつ上の二階の屋根に飛び移る。

 すかさず、宗次郎も後に続いた。

「だあー! もう無理だ。動けねえっ」

 四人は、二階の窓から部屋に飛び込むと、それぞれが倒れ込むように、埃の溜まった板敷の床に激しく寝転んだ。

「階段は大丈夫なのかい?」

 冷静な時雨が横になりながら聞く。

「ああ、この屋敷は一階も全部締め切ってある。安全だよ」

「あんたの逃げ場所って訳ね」

「準備良いだろ」

 小夜は、すぐに起き上がり、宗次郎の側に寄った。

「大丈夫ですか? お怪我はありませんか?」

 宗次郎が心配させまいと急いで身を起こす。

「あ、大丈夫ですよ。平気です」

 激しく息をしながら答える。

「おふたりも大丈夫ですか?」

「ええ、大丈夫よ」

「俺は、もう無理」

「あんたは、この子を安心させる気遣いが出来無いのかい」

 時雨が窘めると、留三は仕方無く「心配すんなって、大丈夫じゃない時は、お前達を見捨てる時だから」と、更に余計な事を言い、また時雨の不興を買った。

「それよりも、ずぶ濡れの着物をどうにかした方が良い。幾ら夏だと言っても、このままじゃ風邪を引きかねないぞ。下の階は、それ程荒らされてないから、何かしら見付かる筈だ」

「そうね。それに、小夜さんの格好も問題だね。それだと、満足に走れやしないから、もっと裾の広い着物を探した方が良いね」

「そうだ。これからは、自分の力で逃げて貰わないといけないから、股引でも穿いた方が良いな」

「股引ですか……」

 とても若い女性が着る物では無い。小夜は、返事に戸惑った。

「こんな時に見てくれを気にするなら、速攻お陀仏だ。それに、そんな我が儘な奴を助ける気も起きねえしな」

「言い方、何とかしな」

「俺は、こんな言い方しか出来ねえよ。分かってるじゃねえか。よしっと」

 天井を見ながら呼吸を整えていた留三は、急に起き上がった。

「腹も減って来た。さっさと着替えて飯の支度にしよう。もう夜も更けて、眠たくなって来たしな」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る