第19話
小舟を漕ぐ櫂の音も控えないといけない。
南蛮船に乗っている者に気付かれてはいけない。
真っ暗闇だと南蛮船に近付くのも難しいが、今夜は月が出ていて、しかも曇りがちな天気の為、それ程明るくも無い。波の反射に紛れる事も出来る。
堺に住んでいながら、船に一度も乗った事が無い宗次郎だったが、時雨の巧みな腕前のおかげで体勢を崩す事も無く、安心して前を向いていられた。
「ほら、あそこ見て」
時雨の指差す先には、南蛮船の側に小舟が一艘浮かんでいた。
「留三さんでしょうか」
「恐らくね。だから、心配無いって言ったでしょ」
「良かったですね」
時雨は、ゆっくり船を漕ぎながら宗次郎の後ろ姿に目をやった。
この子は、どこまでお人好しなんだろう。
(この世界で生きていけるのかしら……)
「でも、どうして、時雨さんはそんなに留三さんの事が分かるんですか?」
「え?」
宗次郎は、留三と時雨の関係を知らない。というか、留三の本当の姿を教えられていない。
(別に構わないか)
留三は、ここにいない為、気にする必要は無い。気にする気も無い。ここにいないあいつが悪い。
「あの人はね。この町をねぐらにしている泥棒なのよ」
「え? 泥棒ですか?」
「そう。それも、とんでもない大泥棒よ。堺では一、二を争う悪党ね」
「それほんとですか?」
「ええ。本当よ。あの人は、この町の事を何でも知っているから、私も頼りにする時があるのよ」
「だから、顔見知りだったんですね」
「まあね。あの人もああいう稼業だから、町の役人に目を付けられないように、私を利用していたのよ」
「利用ですか?」
「そう。私の雇い主は、それなりの大物だから、多少の口利きは出来るからね」
「……留三さんは、それで、自分の事を話したがらなかったんですね」
「そうねー。私もあの人がどういうつもりだったのかは分からないけど、それもあるのかもしれないわね。何しろ、あなたは表の人だからね」
「表……」
ここで、時雨の声は重みを帯びた。
「いい? 私達は、あなたが想像もつかない世界に生きているの。あなたの目からは、普通の人間に見えてるかもしれないけど、私達は、あなたとはまともに付き合えない人間なの。だから、もし、この町を出られる事が出来たら、あなたは私達の事は忘れて、元の世界に戻ってね。それは、あの人も願っていると思うわ」
「そんな……」
「これは、本気よ」
宗次郎にとって、留三と時雨は命を預け合った仲間だ。例え、ふたりがどんな人間だとしても、宗次郎は、その事実を忘れるつもりは無い。
出来れば、これからもずっと助け合う仲間でいたい。例え、それが世間知らずの思い込みと言われてもだ。
「もうすぐよ」
考えている内に、小舟は、南蛮船の舷側に近付いて来た。
幾つもの大海を乗り越えて来た船は、痛みが酷く、満身創痍の感じがあった。あちこちに荒波に破壊された場所を修理した跡があり、船底にはフジツボや海藻類がびっしりと覆っている。
船から頭を出している者はいない。無人船の雰囲気がある。
「誰もいないんでしょうか?」
そんな筈は無い。こんな大きな船だと、何十人の手が必要になるか。
さっきの地下通路のゾンビといい、この不気味な船の静けさといい、前日とは大きく異なる展開に、さすがの時雨も冷や汗をかかざるを得ない。
「これを登るんですか?」
世界の果てからやって来た大型船である。舷側は、崖のようにそそり立っている。
「私が先に登るわ。上からロープを垂らすわね」
「分かりました」
時雨は、懐から鉄の鉤爪を二本取り出し、船に突き刺した。
「それで、登るんですか?」
宗次郎が目を丸くして言う。
「あら、そうよ」
時雨は、軽く言い返し、軽やかに登って行った。
下からその姿を見る宗次郎は、足を滑らせて落ちやしないかヒヤヒヤしていたが、その心配を他所に時雨はスムーズに進んで行く。腰には、束ねたロープが揺れている。
時雨は、甲板に後少しの所で何かの気配を感じた。
どうやら、甲板に何者かがいる。時雨は、気付かれないように静かに顔を出した。
危うく、目の前をひとりのゾンビが通り過ぎた。咄嗟に時雨は、顔を引っ込める。
ゾンビからは、悪臭が放たれている。臭いが弱まった時、時雨は再び顔を出した。
暗い甲板の上には、まるで警戒しているかのように数人のゾンビが歩き回っている。
宗次郎とふたりなら、甲板にいるくらいのゾンビを倒すのは訳無いが、船の中に何が潜んでいるか分からない。ここで、姿を見せるのは危険だった。
船の後部に船長室がある。その船窓から、僅かに灯りが漏れているのが見えた。どうやら、窓を塞いでいるようだ。何か隠したいものがあるのか。
「どうです?」
時雨の垂らしたロープでようやく宗次郎も上がって来た。
「あそこ」
時雨が窓を指差す。
「船長室に秘密があるっていう事ですね」
時雨の指先に宗次郎も敏感に反応する。
「でも、どうやって忍び込むか問題よ。ここにいるゾンビ達と戦ったりしたら、私達の存在を気付かれてしまうわ」
「お師匠様は、捕まっているのでしょうか? それとも……」
そもそも、陣兵衛はどっち側にいるのか。それが、宗次郎の最大の関心事だった。
ゾンビが南蛮から来たのは間違い無い。それなら、南蛮人はゾンビの親玉になる。陣兵衛は、その南蛮人とどういう関係にあるのか。留三の話では、南蛮人とは親しい可能性がある。しかし、宗次郎はその可能性は否定したい。
それは、宗次郎の願いであった。陣兵衛がここにいるとしても、ゾンビにだけは関わって欲しく無い。そう思っていた。
時雨は、少し迷っていた。
本来なら、宗次郎の心配をする義理は無い。陣兵衛が何をしていても構わない。ゾンビの謎を解明し、雇い主に報告する事が時雨の目的なのだから。
時雨は、天を仰ぐと、大きく息を吐いた。
「いい? 師匠の件は、あなた自身で解き明かすのよ。後の事は何も考えないのよ」
「え?」
時雨は、身を乗り出すと、手を叩いて存在をアピールした。
その音に反応して、ゾンビ達が集まって来る。
時雨は、ゾンビ達を誘導して宗次郎から離れて行った。
(時雨さんっ)
宗次郎は、声に出さずに時雨の名を叫ぶ。
ゾンビ達は、時雨の音に誘い出されて、宗次郎の側からいなくなっていた。
宗次郎は一瞬悩んだが、この機会を逃しては、時雨の気持ちに答えられない。足音を立てないように船長室に向かった。
「何の騒ぎだ?」
船長室の扉が、宗次郎の目の前で開いた。
そこに立っていたのは、黒牛陣兵衛だった。
視野の端に陣兵衛の姿が見えた。
時雨は、見付からないようにマストに身を隠し、そのままよじ登った。ゾンビ達は、マストを登る事は出来無い。
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