第10話
『猿』という呼び名程悪意のある呼び方は無いだろう。
『犬』や『猫』、『鷹』等、人間性から離れれば離れる程、その人の一部分の誇張が強くなり、逆に良い意味が含まれて来る事が多いが、『猿』となると、余りにも人に近過ぎて、悪意がダイレクトに感じられてしまう。
だが、その悪意の固まりである『猿』を己の本性を隠す手段に使っている点は、この男のねじ曲がった心根を暗に表しているとも言えるだろう。
羽柴藤吉郎秀吉。
小柄で貧相な痩せ男。お世辞にも好感の持てない猿顔を皺くちゃにさせながら、テンション高く明るい道化を終日演じている。
普通人には、寝る間も惜しむ働き者で仲間思いのお調子者、天真爛漫で頭の回転が早い好人物にしか見えないだろう。実際、秀吉を知らない庶民はもとより、秀吉に近しい側近でもなかなかその本心を掴めない。
その徹底ぶりには舌を巻く。
しかし、己と同じ匂いのする者には厳しい。味方なら自分と同じ働きを求め、敵には容赦無い。
「かんぴょ~え。立ち小便か? わしも付き合うぞっ」
生まれは、尾張の根無し草。口汚いのは、慣れている。
「羽柴様。厠ならあちらに作っております」
「何じゃい。違うのか」
カカカという甲高い笑い声。
日に何度となく繰り返される秀吉の冗談に付き合わなくてはならない。官兵衛は、溜め息を堪えながら、秀吉に笑顔を見せた。
羽柴軍団の左右の頭脳と言われる竹中半兵衛と黒田官兵衛。
無私の精神、欲望に無関係で己の信念に忠実な半兵衛は、秀吉も苦手とする相手だが、強烈な上昇志向と人を信じない主義の官兵衛は、似た者の秀吉と馬が合う。
そこには、凡夫を近寄せない奇才を持つ者同士の真剣勝負の知恵比べが存在する。
笑い声の裏に、無理から腹の底を強める圧を感じる。
僅かな違いだが、何か気に障らない事が起きている。
「堺の町について、安土から知らせでもありましたか?」
「何じゃい。お主の前では隠し事も出来無いな」
官兵衛の読みに少し不快な表情を見せる。相変わらずの官兵衛の洞察に下を巻く。しかし、それが心地良くもある。背が低く力が弱い秀吉は、幼い頃から知能を武器にのし上がって来た。知能を武器にする者は、同じレベルの者との知的競争を楽しみがちだ。それは、官兵衛も論外では無い。ただ、秀吉の欲望は、並の人間とは違う。彼は、より多くを求める。気前が良いと思われているが、それ以上の実入りを計算している。欲望は、際限無く膨らむ。官兵衛は、自らの限界を認め、手の届かない範囲までは求めないが、秀吉の求める先は予想が付かない。
官兵衛にとって、秀吉は強烈な力であり、不安定な足場でもある。
「殿からの指示が来た」
「何と?」
「町を包囲したまま待て、との事じゃ」
官兵衛は、眉をひそめた。滅多に表情を変えない。こうして、言葉よりも柔らかく思いを秀吉に伝えている。
誰よりも鋭敏な秀吉は、例え視野の外でもその動きを捉えてしまう。
「不満か?」
「意図が……」
「分からぬか」
「はい」
秀吉は、楽し気な表情をした。官兵衛が本当に分からないのか、分からないフリをしているのか。
「この町は、もう使い物にならないのお」
ふたりの目の前には、堺の土塀が広がっている。
「もう少し中が見られればなあ」
「中が……?」
「殿は、値踏みしておられるのじゃ」
「まさか、ゾンビを、ですか?」
秀吉は、無言で肯定を示した。
「それは、危険です。この町は、即刻焼き討ちにして、あの化け物達はひとり残らず殺すべきです」
「そういうお前も利用価値があると思うておったのじゃないのか?」
「それは、誰しも思うでしょう。ですが、実際に相手にして、そう簡単なものでは無いと感じました」
堺封じ込めは、困難を極めた。多くの兵士を失いながらも何とか町を出たゾンビ達を掃討した時には、もう官兵衛にはゾンビを扱う気を失っていた。
秀吉も同じ思いでないのか。官兵衛は、秀吉の口振りに不穏なものを感じた。
「羽柴様も同じ思いだと思っていましたが……」
官兵衛は、秀吉の元では与力として動いている。官兵衛は、信長の家臣であって、秀吉の元には派遣されている立場だ。信長の家臣ではあるが、名目上の繋がりだけである。官兵衛が信長に直接進言出来る機会は、ほとんど無いし、明らかに自分の方針に反対する意見など耳にする気は信長には無い。その点、秀吉を始めとして、信頼する部下の進言は、積極的に耳を傾ける。
官兵衛としては、織田家の繁栄が黒田一族の安定に繋がるだけに、秀吉を通じて自分の策を実行して貰いたい。それだけの能力を持っているという自負はある。
それには、秀吉に自分の意見を認めて貰う必要がある。
「そうか?」
秀吉の言葉には、ゾンビへの否定が感じられなかった。
「それは、深読みしすぎというものじゃ」
「だといいのですが……」
「かんぴょうえ~。わしを疑うのか?」
猫なで声の秀吉。官兵衛は、わざとらしく険しい顔を見せた。
「そう言われる羽柴様は、私をお信じになられますか?」
「ん? ハァーッ、カッカッカ!」
甲高い声で仰け反るように笑う秀吉。
「無意味な話だったな」
本音と嘘と茶番でまみれたふたりである。例え答えたとしても、そこに真実は含まれる保証は無い。
「殿は、ゾンビと戦った事無いからな~」
「ですが、安土に数人のゾンビを送られたのではありませんか?」
「檻の中に入れた狼は、見た目は可愛い毛むくじゃらだ。実際に、襲われてみないと分からないからな」
「羽柴様があの恐ろしさを理解されているなら安心です」
「わしも馬鹿じゃない。殿も話せば分かってくれる筈だ」
「あのお方を論破出来る人はいません」
「確かにそうじゃ。カカカッ」
楽しそうに腹を抱えて笑う秀吉。
「焼き討ちはいいが、生き残りがいる場合はどうする?」
「いると思いますか?」
「いないとも限らないだろう。殿もそう思っているのではないか?」
「あのお方がそこまで考えますか?」
「人がいれば、焼き討ちを躊躇すると?」
「……しませんか?」
「カカカッ。殿は、そんな事意に介されないわ。誰が残っていようがいまいが、ゾンビが必要なら、この町を残す。必要で無いなら皆殺しにする。只、それだけだ」
だろうな。信長は、己の目的の為なら障害の存在など気にしない。
「その為には、中を調べてみませんとな」
自分で言って、官兵衛は気付いた。
「そうじゃ。殿は、既に忍びを放っている筈じゃ。……お前と同じようにな」
秀吉は、探るように官兵衛に振り向いた。
「私は、ゾンビが町を出ないように見張っているだけです」
「そんなに、恐い顔をするな。別に、かんぴょうえが悪い事をしてるとは思ってないからの」
官兵衛は、無表情を貫いたと思っていた。それか、少しは怒気を含んでいた方が良かったか。
「カカカッ。まあ、せいぜい、見張りを頑張るしかないか。半兵衛には申し訳無いが、しばらく播磨で待ってもらそうぞ」
秀吉の本隊は、今竹中半兵衛が毛利攻めの準備で播磨に在陣している。半兵衛に任せれば間違い無いが、あまり堺に手を取られる訳にもいかない。
「また、半兵衛殿に迷惑を掛けてしまいますね」
「いつか、まとめて返してやるわ」
秀吉は、そう言うと楽しそうに大笑いした。
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