第5話

 あと少しで港に辿り着ける。

 奴らの血をたっぷり吸った刀は、切れ味が鈍り、鈍器の役割しか成していない。

 道行く奴らを刺激しないようにソロソロと屋根の上を進む。

 奴らが近付く度に腐った肉の臭いが鼻を突く。

 宗次郎は、我慢して進んでいる。最早、この町は、奴らの町になり果ててしまった。一刻も早く堺を出て、命を保たねばならぬ。それが道理だった。

 しかし、師匠陣兵衛の安全の確認の前には、その道理は無力だった。

 あの日、宗次郎は、逃げる人々の大波に揉まれた。奴らが巻き起こす非現実的な現実が彼を含む全ての人々を恐怖に色染めたのだった。

 紀州道に出た。

 紀州道は、堺の町を南北に貫く大道だ。町家の中とは違い、屋根の上を跳び越えられる幅では無い。しかし、ここを越えないと港に辿り着けない。

 一回、道に下りないといけない。

 用心の為、暗い道に目を凝らす。

「よく見えないな……」

 月が雲に隠れて、奴らの姿がよく見えない。下手に飛び下りたら、餌食にされてしまう。戦おうにも、頼りの刀がもう機能しない。取り得る手は、奴らの密度の少ない時を狙って走り抜けるしかない。

(日の出まで待つしかないか)

 しかし、もう待ちたくない。屋根から身を乗り出し、出来るだけ奴らがいない場所を探そうとした。

 その時、少し離れた所から誰かの怒鳴り声が聞こえて来た。

「くそっ。近付くな」

 奴らに襲われている。

 考えるより体が動いていた。

 道に飛び下りた後、声のする方に全力で走り込んだ。数体の奴らが歩く側を走る。気付かれても、こっちの速さについて来れない。

 奴らが密集している所があった。

 目を凝らすと、ひとりの男が奴らに取り囲まれているのが見える。

 男は、何体と戦ったのだろう。切れ味の無い刀で奴らの頭を叩き潰している。疲れ切っていて、気力で跳ね返しているようだ。

 体中に返り血を浴びて、荒々しい声を上げながらボロのような腐った体を蹴り飛ばす。まだ、二十代くらいだろうか。痩せてやつれ気味の頬と無精髭がもう少し年齢を上に見せている。

 宗次郎は、壁の数体の頭をかち割り、少しのすき間をこじ開けた。宗次郎に気付いた奴らが向きを変える。

 宗次郎の姿に気付いた男は、その機会を逃さず、転がるように奴らの壁を抜け出して来た。

 立ち上がらせたいが、抱え上げている余裕は無い。周りから新しい奴らがどんどん近付いて来る。背を屈め、お互いの体を抱えながら、奴らの囲みを突破した。

「屋根の上に逃げるぞ!」

 側の町屋の軒下に来ると、その男は力強く立ち上がり、宗次郎の右腕を掴み上げた。

 驚いた。軽々と宙に浮いた宗次郎は、あっさりと瓦の上に投げ出された。家の屋根が低いとはいえ、人ひとり片手で投げ飛ばせる体力がどこに残っていたのか。

 予測していなかった為、屋根に上がった時、右膝と背中をしたたかに打ち付けた。

 だが、そんな事を気にしてられない。宗次郎は、屋根から顔を出した。

「あなたも早く!」

 男の後ろに奴らが迫っている。痛みも忘れて、右手を思い切り伸ばした。

 男は手を掴むと、こちらが引き上げる間も無く、驚く程身軽にすぐ横に飛んで来た。

「いてっ。っきしょー」

 屋根に上がると、男はすぐ寝転び、足首をさすった。

「足を痛めたのですか?」

 もしや、噛まれたのか。宗次郎は、用心の為、身構えた。

「おっと。そんな怖い顔をしないでくれよ」

 男は少し腫れた足首を見せた。

「これは、昨日からな。奴らから逃げてる最中に捻ってしまってな。大丈夫。あいつらみたいにならねえよ。それより上に上がろうぜ」

 男は、足を痛めている素振りも見せずに軽やかに立ち上がり、屋根を上がって行った。足音も立てないその身のこなしは、鮮やかだった。

 棟に腰掛けると、男は手を差し出して宗次郎が上がるのを手伝った。

 細身だが、手足はがっしりとして筋肉が張り詰めている。太い眉の下に見える険しい目付きに頑固そうな真一文字の唇には、意志の強さを感じる。

「ありがとな。助かったよ。俺は、留三って言うんだ。お前は?」

「私は、宗次郎と言います」

「あー。寺前道場の……」

「え? 知っていたのですか?」

 宗次郎の驚きに、留三は少し口ごもりながら答えた。まさか、二度程道場に盗みに入ったなんて言える訳無い。

「……まあな。道場期待の若手剣士と言えば、堺の者で知らない奴はいないだろう」

「いえいえ、そんなに大したものではありませんが……」

「俺も運が良かったな。また、剣士に助けられるとは……」

「また?」

「ああ……、いや、お前さんがいてくれて助かった。命の恩人だよ」

 留三に頭を下げられて、宗次郎は少し照れた。

「でも、どうしてまだ町に残ってるんだ? お前さんの腕前なら町を出る事なんか簡単だろう」

「ええ。そうなのですが……。実は、お師匠様が港から戻ってないんです。無事かどうか探しに行こうと思いまして……」

「師匠って、黒牛陣兵衛か?」

「はい。そうです」

 留三は、少し怪訝そうな表情をした。

「何の用事で港に行ったんだ?」

「古い友人に会うと聞きました」

「はーん……」

 留三は、顎をさすりながら、視線を下げた。

「何か?」

「黒牛陣兵衛は、よくそういう事で港に行くのか?」

「いえ、今回が初めてでした」

「初めて……」

 また、考え込む。

「その師匠、南蛮に知り合いはいるのか?」

「はい。明やシャムに数人おられます」

「その関係で、あの化け物達の事も知っていたのか?」

「あの死人達の事ですか? そんな筈無いじゃないですか」

 宗次郎は、気色ばんで否定する。

「お師匠様は、誰にも分け隔て無く剣術を教える偉い人です。あんな化け物達と関係があるなんて絶対有り得ません」

「分かった。分かった。悪かった」

 もし、あるとしても、道場の下っ端にそこまで話す訳も無い。留三は、宗次郎は何も知らないと見た。

 留三の訳有りそうな物言いに宗次郎は引っ掛かるものを感じたが、陣兵衛を信じる気持ちが先に立っていた。

「お前さん、港にどうしても行くのか?」

「はい」

「黒牛陣兵衛は、もう、町を出ているなんて事ないか?」

「お師匠様は、私達弟子を見捨てるような事はしません。真っ先に、道場まで戻って来る筈です」

「それが戻って来なかった、と?」

「はい。私も待っていましたのですが……」

 まずは、町の人々を助ける事が先決だった。何とか、生き延びた人々を道場に誘導した。広い道場には、既に多くの人々が逃げ込んでいた。表と裏の入口を押さえれば、奴らが入って来れない筈だった。

「あの道場は、高い塀に囲まれていた筈だ。守りは難しくないな」

「そうです……」

「……誰か、噛まれた奴がいたんだな?」

「はい。少しばかりの傷だったようなので誰も気付かなかったんです。突然の高熱と悪寒に襲われて、皆で看病していた所、自分の母親を襲い、そこからあっという間でした……」

 瞼の裏に無残にも襲われる人達の姿が浮かぶ。泣きじゃくる子供が見ている前で食われる親、家族を救う為に自ら犠牲になる老婆。つい昨日まで屈託無く冗談を言い合っていた兄弟弟子の首を切り落とす手応え。この世界で剣の道に進むなら覚悟しておかなくてはならない状況をいざ目の当たりにした時、激しい動揺で思考が停止してしまっていた。自分が何とか生き残れたのは、師匠である黒牛陣兵衛の厳しい稽古のおかげだった。

「ふーん。やっぱ、そんな事あるんだな。自然と体が動くって事が」

「はい。誰ひとりとして守れませんでしたが……」

 優しく肩を叩く留三の右手に暖かいものを感じた。

「そんなに悔やむ事は無い。生きていればこそ、何か出来るってな。生き残って、死んだ奴らの供養でも存分にすればいいんじゃないか?」

「だから、私はお師匠様を探しに行くんです。これからどうすればいいのか、教えを頂きたいのです」

 ひとり、道場を脱出した後、蕎麦屋に駆け込んだ。しかし、お小夜の姿は、そこに無かった。町を逃げ出したのか、奴らの餌食になってしまったのか、分からなかった。

「うん。それは分かる。俺も堺がこんな事になって、これからどうすればいいか分からないもんな」

「あの死人達がこの町を出て行ったらどうなるか……」

「死人?」

 留三は、宗次郎が口にした単語が気になった。

「死人って、お前さんは、あの化け物達が死んだ人間だって言うのか?」

「え? だって、体を切られても痛がらないんですよ。胴を切られても這って進むんですよ」

「しかし、アウアウ言いながら動くんだぜ。人間を食うということは、食欲はあるんだぜ。生きてるとまではいかないが、死んでるなら動いたりしないだろ? 食ったりしないだろ?」

 留三は、眼下に動き回る化け物達を指差して言う。

「うーん……。でも、お師匠様が仰っていたんです。南蛮の更に向こう側の国には、死んだ人を生きているように生まれ変わらせる技術があると」

「それ、もしかして……」

 無骨な手で顎鬚をさすりながら、留三が目を細める。

「ゾンビっていうんじゃないか?」

「そうですっ。確か、そう言ってました。よく知ってましたね」

 宗次郎は、驚いた。師匠の陣兵衛の知り合いが南蛮との商いをしている関係で手に入れた知識だった。ゾンビという恐ろしい化け物が南蛮で騒ぎになっているらしいと。

「年の功ってやつかな」

 泥棒という仕事柄、あらゆる情報は知っておかなくてはならない。二十五歳で年の功もあったもんじゃない。

 宗次郎は、思わず視線を逸らして考えた。月明かりの下に得体の知れない生き物達の姿が浮かぶ。どうして、この人はゾンビの事を知っているのか。師匠でさえも最近の南蛮船から手に入れた情報だ。簡単に手に入る筈は無い。

 この人は、一体何者だ。宗次郎は、留三を横目で見た。

 いまいち信用し切れないと思った。

「誰から聞いたのですか?」

 宗次郎は、探りを入れるように聞いた。

 留三は、聞こえない振りをした。少し表情を曇らせて足元をさする。

「痛いですか?」

「ああ。さすがにさっき屋根に上がった時、無茶をしたようだな」

「どこか、横になれる所を探しましょう」

 屋根の上では落ち着けない。

「よし。三軒向こうの醤油屋の二階の窓から忍び込める。そこなら階段も塞いであるから、奴らが上がって来る心配は無い」

 留三が先に立ち、醤油屋に着いた。ゾンビ達もふたりに着いて、醤油屋の前に移動している。

「へ。悔しかったら登って来な」

留三が二階の窓から顔を入れ、安全を確認する。

「よし、何も変わっていない。入りな」

 中は、確かに孤立しており、ゾンビの不安も無く落ち着ける場所になっていた。

「ほら、多少の食料もここに置いてあるんだ」

 手近の木箱を手元に寄せた。中には干物や炒り米、水袋が入っていた。

(随分と準備が良いな)

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