最終章 雲に飛ぶ薬


 風に吹かれたカーテンは揺れた。やわらかな春の光が黒板に差し込み、黄色いチョークで書かれた文字をちょっぴり見えにくくさせた。

 東京にある中学校。給食を目前に控えた教室からは先生の解説が聞こえてきた。


「じゃあ四時間目の授業は終わるけど、すぐに給食当番は準備してください。それじゃ号令」


 このクラスの担任でもある男の先生が号令を促すとちょうど終了のチャイムが鳴り響いた。

 生徒たちは教材を片付けると手を洗いに廊下へ出る者。数人でトイレに行く者。急いで白衣に着替える者。ガチャガチャとした雰囲気の中で、自席にいた女子生徒の中川藍なかがわ あいは、ぼうっとしていた。

(先生に質問しにいきたいな……)

 中川は先ほどの授業の内容で、どうしてもわからないことがあった。


「中川ー!はやく白衣に着替えろよー」


 クラスの男子から声をかけられ中川はハッとした。今週の給食当番は自分たちの班であった。考えている事とは裏腹に、慌ただしく給食の準備に入った――。

 給食を終え、昼休みになると中川は質問をしに職員室へ行った。入室をし、先生を見つけると近くまで駆け寄る。

 ニコリと中川に声をかける先生の目尻には優しい笑顔のしわが寄っていた。


「中川。さっきはぼうっとしていたようだったけど、今日の給食は美味しく食べられたか?」


「ごめんなさい。先生に質問したくて、その内容を考えていたらぼーっとしちゃいました」


「ならよかった。先生、少し心配したよ」


 安心した様子で先生は隣のデスクからイスを持ってきて中川を座らせた。


「それで、質問ってさっきの国語の授業のこと?」


「はい。金色堂の建物の作り方?いまいちイメージがわかなくて……」


「あれはね、金色堂があまりにもピカピカ光っていて、当時の人たちは大切に残そう!って考えで、金色堂の周りに新しく建物を建てちゃったのよ。一軒家を囲むように更に大きな一軒家を作った。そんなイメージ」


「こういうことですか?」


 中川はメモ用紙に手際よくイメージ図を書いていく。先生は『その通り!すごいねえ』と褒めると中川は照れくさそうに下を向いた。


「将来、中川が大人になったら金色堂を見に行ってごらん。初めて見ると衝撃をうけるよ」


「先生は見に行ったことあるんですか?」


「うん。大学四年生の時に一人で行ったのよ。一月の東北の寒さもよく覚えていてね。いやあ、寒かったのなんの」


「……先生、もしかして友達いないんですか?」


「いや、一人だけど友達も連れて行った」


 ニヤリとすると、職員室のデスクの引き出しから一冊の文庫本を取り出してパラパラと見せた。


「ほらこれが先生の友達」


 松尾芭蕉の人物像を指さして、先生はからからと笑った。なんですかそれ、と中川もクスリとした。昼休み終了のチャイムが鳴った。中川のクラスの次の授業は音楽。移動教室があるからと急いだ様子で職員室の出入り口の扉までいった。


「中川!次の音楽、アルトリコーダーのテストだっけ?頑張ってね」


「はい!緊張してますけど、頑張ります。先生、ありがとうごさいました」


 教育現場で働くようになって数十年。気がつくとジンは「中堅」と呼ばれる存在として、教育に尽力していた。生徒との些細なやりとり一つにしても、そこに喜びを見出す教員になった。


 穏やかな雰囲気の中、ジンは校長室に呼ばれた。校長室に入室するとスーツの着慣れていない、若々しい雰囲気の初めて見かける女性がいた。大きめの黒縁眼鏡をかけた女性はジンの姿を見ると、椅子から立ち上がりかしこまった。


「武田先生。忙しい時期ですね。しっかりと休めていますか」


「……ぼちぼち、ですかね」


 乾いた笑いが校長室内に響くと、校長は本題に入った。


「じつは今度の夏休み明けから、我が校に教育実習生が来ることになってね。国語科を志望している女子学生とのことで。武田先生には彼女の指導教官になってもらおうかと考えています。挨拶に来ていただいたので紹介します。今野こんの先生です」


「は、初めまして。今野です!九月よりこちらで教育実習をさせていただきます。何卒よろしくお願いします」


「初めまして。武田仁です。国語科を担当しており、三年一組の担任をしています。こちらこそよろしくお願いします」


 ジンは渡された履歴書に目を落とすと、温和な表情の顔写真と目が合った。存在感のある太いフレームの眼鏡が顔の小ささを際立たせていた。「今野 美里」と書かれた名前を見てそのまま履歴書を見ていく。彼女の出身地を見たジンは驚きを隠しつつ今野先生に問いかけた。


「……今野先生は宮城県出身でしたか」


「はい!実は東北の震災時に地元を出まして、東京の親戚の家にやっかいになりました」


「それは大変な経験をくぐり抜けて来たのですね。震災の時、私は大学生でしたよ。すると今野先生は――――」


「はい。当時私は六歳でした」


 今野先生の返答にジンは返す言葉が見つからず、校長室にしばしの沈黙が続いた。打破するかのように校長が会話を進める。


「ともかく彼女はやる気の塊のような方ですから、教員としての在り方をしっかりと教えてあげてください。それに今野先生は古典への興味関心が強いようなので武田先生と話しが合うかもしれませんね。ちなみに今、武田先生は何の授業をしているのでしたっけ?」


「ああ、今は『奥の細道』の……」


「え!『奥の細道』は私の卒業論文のテーマです!!」


 間髪入れずに今野先生は会話に割って入った。キラキラとした瞳で見つめる様にジンは圧倒された。


「そうとう好きなんだね。それくらいの気概があると国語科の教員としても嬉しい限りだよ。それにうちのクラスには古典に目がない生徒もいてね 笑」


「実は、母が幼い頃教えてくれたことがきっかけで、私が文学にのめり込んだ作品の一つなんです」


「そうでしたか。それじゃあ芭蕉の弟子だった――――」


 校長は安心した様子で二人の国語談義を見守っていた。


「どうやら顔合わせは問題ないようで安心しました。武田先生。今野先生。どうぞ生徒たちをよろしくお願いします」

  

 顔合わせを終えた後、ジンは今野先生を正門まで見送りにいった。歩きながらも今野先生の松尾芭蕉談義は留まらない。柔和にゅうわで、不思議に人を惹きつける雰囲気をもつ教育実習生にジンは興味を覚えた。

 そして校長に見送った事を伝える。校長室を出ようとしたが引き止められた。


「武田先生。実は、彼女本人から直接、武田先生には伝えるように言っていた事があったのですが……。本の話で盛り上がってしまい、飛んでしまいましたね」


「自己紹介以外に何かありましたか?」


「はい。今野先生の「目」についてです。結論から言いましょう。彼女は産まれつきという特性があります」


「色の識別ですか……」


「ええ。世の中には一定数、赤色や緑色の識別がしにくい人もいますが、その中でも今野先生は『全色盲ぜんしきもう』といってモノクロの写真のように全てが灰色に見えてしまうとのことです。日本には数万人に一人いるとかいないとか……」


「そうでしたか。今野先生は日常生活で困っているのでしょうか」


「いえ、今は色の識別をサポートする補正眼鏡をかけているため、日常生活を送る上では問題ないそうです。それに視力は正常らしいよ」


「わかりました。それで、その事は生徒たちには伝えますか?」


 校長は難しい顔をした。


「私の個人的な考えだと、言う必要はないと思っています。日常生活に問題ないと、本人も言っていたし……」


 校長は長く引いた低い声を出していると、校長室のドアがノックされた。ガチャリと開くと別の教員が入ってきた。


「お取り込み中の所すみません。武田先生宛てに保護者の方からお電話が入っているので対応してもらってもいいですか?」


 ジンは校長に会釈をすると、職員室のデスクへ戻った。受話器を握り、保留解除のボタンを押すといつもよりワントーン高い声色で対応にあたった。


 今野先生との顔合わせから数ヶ月後。夏休みが終わり、ジンの勤務校では始業式が行われていた。


「――それでは皆さん。今日から三週間よろしくお願いします」


 拍手が体育館に響く。


「今野先生は三年一組の武田先生のクラスに入っていただきます。また国語の授業を担当されますので、皆さん学校の中で会ったら元気な声で挨拶をしましょう。それでは次に生活指導主任の先生のお話です――――」


 司会進行役の教員は式を進めていった。

 始業式が終わるとジンは今野先生を連れてクラスへと連れて行った。


「今野先生。全校生徒への自己紹介、すごい堂々としてましたね。緊張していましたか」


「いえいえ。ずっと頭の中が真っ白でしたよ 笑」


 ジンは褒め称えると寄り添うような笑いを飛ばした。


 ――教室に入ると、生徒たちは得体の知れない教育実習生に興味津々の様子でいた。今野先生は息を吸うとニッコリとした表情で話し出した。


「初めまして。今野です。生まれは宮城県ですが、育ちは東京です。古典や小説が大好きで、大学でも文学とずっと遊んでいます!実習期間中、皆んなとステキな思い出ができればと思っているのでよろしくお願いします」


 拍手をする三〇人の生徒たち。その様子を見たジンは皆の警戒心が解けていない事を察した。アシストをするように全体に言葉を投げかける。


「今野先生は一五日間しかいないからね。このクラスの温かさを届けて欲しいと思っています。じゃあ、今野先生に質問がある人はいるか?」


 少しためらった様子で生徒たちは目配せをした。すると女子生徒の手がスッと挙がる。


「今野先生の眼鏡はどこで買いましたか。可愛いなって思って」


 ジンはドキリとした。チラリと横目で今野先生を見るとジンの気持ちとは裏腹に、彼女は嬉々とした様子で喋り出した。


「ははっ。ありがと!あなたは良い子だね。私の眼鏡は病院で買いました。実はですね目の見え方がちょっぴり特殊なんだよね。この眼鏡をかけていないと全部モノクロに見えちゃいます。色がわからなくなって困ることもあったけど、今はこの眼鏡があるから平気なんだ」


 眼鏡を外しながら説明をした。今野先生は「なんでも答えちゃうよ、安いよ安いよ!」と明るく振る舞った。その明るい飄々ひょうひょうとした様子を見たジンの心配は杞憂に終わった。そしてそれに乗せられるように、次々と質問が飛び交った。


『好きな食べ物はなんですか?』


「苺だね。私が眼鏡をかける前まで、美味しく感じなかったけど、色が分かるようになってから大好き!」


『先生の座右の銘を教えてください』


「『楽しいから笑うのではない、笑うから楽しいのだ』という誰かの言葉!」


『今野先生は彼氏いるんですかー?』


「いないよ!……夫はいるんだけどね」


 女子生徒たちの気持ちが高ぶった悲鳴が教室を揺らした。その傍らでは男子生徒たちの残念そうな嘆きとため息がとめどもなく広がる。熱気の籠もった教室をニヤニヤしながら見渡した今野先生は口を開いた。


「……って言えたらステキだよね~。ははっ全部嘘です」


『なんだよビビったー』

『嘘かいっ』

『一本とられましたねえ』


 男子と女子のリアクションが途端に真逆になった。その滑稽さと今野先生の明るさが緊張していた雰囲気はすっかりと新しくなり、和やかな空気が作られた。今野先生のキャラクターが十二分に生徒たちに伝わった様子であった。


 しかし、次に飛んできた男子生徒からの質問が空気を一変する。


『今野先生。生まれは東北だと、地震はどれくらいやばかったんですか?』


 決して悪気はないように思える無邪気な好奇心からの質問は教室がヒリヒリとさせた。ルンルンとしていた今野先生の表情はピタリと光りを失った。しかし、元の明るさをブン戻したかのように、気丈な態度で向き合った。


「あれはね。大変だったよ!すごくね……。ごめん。その質問はちゃんと答えたいから一端持ち帰ってもいいかな」 


 表面だけ勢いが有るように見せかける今野先生のかげりをジンは見逃さなかった。そう考えていると朝の学活終了のチャイムが鳴った――。


 その後、今野先生の教育実習はドンドン進んでいった。ジンの国語の授業の見学をしたり、補助に入ったり。お昼になると給食指導にあたり、昼休みは校庭に向かい、女子生徒たちと輪になってバレーボールをした。スーツの汚れに気がつかないほど今野先生は夢中で遊んだ。

 実習が始まって一週間。今野先生は先生たちと話す時はしっかりと礼儀を弁え、生徒たちの前だと明るく振る舞う。そんな態度を見てジンは、今野先生の優れた性質を理解していった。

 実習も折り返し地点を迎えたある日の放課後。部活動の様子を見学したい、という今野先生の申し立てから、ジンと今野先生は図書室へと向かい、入室した。

 決して広くはないが、背の高い本棚を抜けていく。教室中央に机が並べられており、そこで三人の女子生徒が会話をしていた。三人は先生の存在に気がつくと、座ったままペコリと会釈をした。


「今野先生、この三人が読書部の部員です。三年生が一人。後は二年生の愉快な人たちです。顧問は私だけで校内でも緩やかな方の部活動です」


 ジンは部員たちに今野先生を紹介する。すると今野先生は何か気がついた様子で三年生の部員に話しかけた。


「あれ。あなたは私の眼鏡を褒めてくれた子だね。たしか名前は……」


「中川です!ジン先生のクラスですよ」


「ああ!中川ちゃん!古典が好きなんだってね。よろしくね」


「はい!よろしくお願いします」


 今野先生と中川のやりとりに部員たちも会話に混ざりだした。女子同士にしか通じないフィーリングがあるのだろうか、そう思ったジンは静かに見守った。すると校内の放送が流れ、ジン宛てに保護者が来ていることを知らせた。


「ごめんなさい、今野先生。席を外すので少しの間、図書室にいてもらってもいいですか?」


「はい。わかりました!」

 

 そう伝えるとジンは職員室へと向かった。

――想像以上に保護者対応に時間がかかったジンは急いで図書室へと戻っていた。図書室の引き戸に手をかけると、中から今野先生のガハハと大きな笑い声が聞こえてきた。中へ入ると帰りの支度をしていた生徒たちと今野先生は楽しそうに談笑をしていた。

 生徒たちは帰り、それに合わせてジンも図書室を出ようとすると、今野先生がジンに問いかける。


「武田先生。実は、先ほど中川さんから質問を受けて。それを少し調べてもいいですか」


「ん?図書室を使って?」


「はい。実は彼女から古典の単語について聞かれまして。分からないから調べるね、と伝えました。先生、これご存じですかね」


 そういって、使い慣れたメモ用紙を広げて見せる。ジンは目をこらして見つめた。書き殴った筆跡の中に濃く書かれた言葉を見つけた。


「どれどれ……『雲に飛ぶ薬』か。ん~今まで授業では扱ったことないな。中川は何の本を見て分からなくなったのかな」


「万葉集とのことです。私が授業で万葉集を扱うと伝えてから彼女は予習として、それをずっと読み進めていたらしくて」


「それだと、あっちに古語辞典があるから……どれ。見てみようか」


 そう言って辞典を手に取ると、パラパラとページをめくっていった。


「あ!ありましたよ武田先生!」


「どれどれ」


「んっと……意味は『不老不死の薬』で飲むと天まで飛んでいける仙人の薬と……。典拠は万葉集の和歌にありますね」


 すると図書室のドアが勢いよく開いた。


「先生。ごめんなさい。忘れ物を取りにきました」


 中川は息を切らしてズカズカと入室すると、先ほどまで自分が座っていた座席の中からペンを取り出した。


「中川ちゃん。さっきの『雲に飛ぶ薬』の意味、ここにあったよ!」


 今野先生はそう言うと、中川に説明を始めた。中川も納得した様子で聞き、一所懸命にメモを書いていった。

 

「ありがとうございました。あとミリ先生、また女子会しましょ。また明日!さようなら」


 中川は今野先生に近づき、開いた右手を見せるとハイタッチをした。満面の笑みで中川は帰った。ヒラヒラと手を振っている今野先生の横でジンは予想も出来ないほど心が揺れ動かされた。


「……中川があんなに懐いている様子を見て、さすがは今野先生だね」


「そういってもらえると嬉しいです」


「ところで、今野先生の下の名前って『みさと』じゃなくて『みり』って読むの?」


 他愛のない会話を装いながらジンは強く心を動かした。


「そうなんですよ。よく間違えられて……。あの、さすがに生徒との距離が近すぎましたかね。……すみません」


「いや、それは気にしなくて大丈夫です。それよりも……」


 ジンは言葉が見つからず詰まる。それを不思議そうに見つめている今野先生の表情を見ると「あの時」の幼い表情と嫌に重なって仕方なく思えた。ジンは眉間に皺を寄せると、まだ何も知らなかった、無垢な自分がふてくされた事を思い出した――。


『その子は?』

『たはは……私の娘だよ』

『まあ……そうか。名前はなんていうの?』

『ミリって言います!私の育った地元のように、綺麗で美しい人になってほしくて。そんな名前をプレゼントしてみたの』


 ――回想はジンを刺す。そして真っ直ぐな眼差しで今野先生の方を向いた。


「今野先生は苺が好きって以前に言っていたけどさ……もしかして、ご実家は苺狩り園を営んでいた?」


「はい。そうですね。あれ……以前お話しましたっけ?」


「実は昔に東北に出たことがあって、その時に行った苺園を思い出してね」


「そうでしたか。それは奇妙な縁がありますね」


 ジンは答え合わせをするかのようにして、笑っていた今野先生に尋ねた。


「今野先生、もしかして……君はアカネさんの娘だったりする?」


「え?……そうですが……なぜ母の名を?」


「そうだったのか。実は大学生の時、東北の方を見物して回っていた事があって、その時に君のお母さんとそのお兄さんと知り合ってね。苺狩り園で今野先生ともご一緒したこともあったんだけど、覚えているかな」


 ジンの言葉が耳に届くと今野先生の瞳が大きく開いた。


「ああ!はい!覚えています!譲二兄さんの家の離れに武田先生が来た日ですよね」


「そうそう!ああ懐かしいなあ。こんなことがあるだなんて」


 ジンは得も言われぬ爽快さを覚えた。二人は無心に、そして楽しそうに会話に花を咲かせた。


「武田先生が幼い私に教えてくれた『奥の細道』。当時はよく分かりませんでしたが、今では私のバイブルです。それにあの日から母が私にたくさん本を読み聞かせしてくれました。あれもよく考えると、きっと武田先生の影響ですね」


「そうか。そんな事があったんだね」


「はい!文学の面白さは教師を目指すキッカケにもなりました。だから……武田先生。あなたは私が今、ここにいる理由そのものです」


 話しを聞いていてジンは恥ずかしさ半分で居心地が悪くなった。その気まずさから逸脱ように、ある種の勢いをつけて口を開いた。


「そうか。ありがとう。今野先生。それで、その……譲二さんやお母さんは元気にしているのかな」


「譲二兄さんは地元にこだわりがある人ですから。『俺はこの土地の復興を信じる』って。向こうに残って今でも地元を支えています。しかし、母は……――」


 図書室の沈黙には迫力があった。夕方のぬるい風は劣化した本の匂いをのせてジンの頬を撫でた。


 ――その日の夜分。ジンは暗い書斎で古くなった一冊の日記帳を広げていた。切れかけた電球の光を便りに数十年前の日付を目指してページをめくっていた。ピタリとジンの手が止まる。そのページには所々インクがにじんでいる箇所がある。

『人間の価値はそこで決まるとは思っていない』

 自分が発した言葉はどれくらいあの人の心に迫っていたのだろうか。見知らぬ土地で出会った人たちとは二度と会うことはないと思っていた。しかし思わぬ再会を果たした現実に、ジンはどうにも素直になれずにいた。

 埒があかない考えを一端切り上げようとしたジンは日記を閉じる。気を紛らわせようと本棚から『万葉集』の全集本を開くと中川と今野先生が調べていた言葉の元になった和歌を探した。



  我が盛り いたくくたちぬ 雲に飛ぶ 薬食むとも またをちめやも

  (私の盛りも過ぎてしまった。不老不死の薬を飲んでも、二度と若返ることもな     

  いだろう)



「ははっ。『若返ることはない』か。……中川もとんでもない言葉を見つけたもんだ」


 落ち着いた声色でつぶやいた独り言とはあべこべに、身体の中を駆け巡る郷愁は激しさを増す一方だった。

 

 数日が経ち、いよいよ教育実習は最終日を迎えた。その日の午後、今野先生は体育館で全体に向けて最後の挨拶をすることになっていた。朝から今野先生は職員室で事ある毎にバインダーをのぞき込み、ブツブツとそらんじていた。


「今野先生?それは何をしているの?」


 ジンの問いかけに数秒遅れて今野先生が答える。


「最後の挨拶で言うことをまとめてきまして……それを見ていました」


 あはは、と笑う今野先生を見たジンは心の底からエールを贈った。


「大丈夫だよ。生徒たちと向き合ってきたんだから、今野先生の言葉はきっと皆に届くさ。それに……教師になる人は皆何か伝えたい事があるんだから。等身大の『今野美里』で表現してきなさい」


 午後、一三時を過ぎた時分。全校生徒がガヤガヤとしながら体育館へと集合した。そして司会進行役の教員が会を進めていくと今野先生は壇上へと登っていった。一年生から三年生、一クラス三〇前後、全四クラスの生徒たちの連なった無限の瞳が今野先生の一挙手一投足を見ていた。

 体育館の舞台に立ち、正面を向いた今野先生は黙って生徒たちを見渡す。その表情は強張っていた。が、徐々に落ち着きを取り戻したのか、今野先生は大きく息を吸うと優しい表情になる。

 そして最後の挨拶が始まった。


「こんにちは。今日で教育実習も最後となってしまいました。……緊張で、下手っぴな私の授業を、皆はキラキラした目で聞いてくれましたね。ありがとうございます」

 

(マイクの音量は小さくないか?体育館のカーテンが開いている所から日が差してきたぞ。うちのクラスの人たちはちゃんと聞いているか?)


 ジンは多分に神経を尖らせながら、今野先生を見守った。


「実習中、皆さんから色んな質問をもらいました。授業についてもそうですし、私自身の事についても……。しかし、待ってもらっていた質問が一つありましたね」


 そういうと今野先生は手に持っていたバインダーを閉じた。


「震災についてです。……私は最後に、その質問に答えたいです」


 迷いを感じさせない力強い佇まいで今野先生は、話を進めていった。


「私は生まれつき色が識別できないです。理由はよく分かりません。ともかく、物心ついた時には『障がい者』として生活に制限をもちました。困ることは多々ありました……。ただ、それで不幸だと思ったことはありません。家族に支えてもらい……なにも不自由なんか感じない温かい環境で育ちました。しかし……今から十六年前に起こった大震災が……っ全てを……襲いました」


 今野先生は下を向き、溢れ出る嗚咽を押し殺した。そして自らを駆り立てるように言葉を紡いだのだった。


「当時……私は六歳でした。その日、母は仕事の都合で出かけており、私は伯父と二人で過ごしていました。ただ事ではない揺れ方だと当時の私でもわかるほどで、私は伯父に連れられて逃げました。あの日は車も電車も駄目でパニックの中、なんとか近くの高台へとやってきました。すでに多くの人たちが避難をしていました。伯父の知り合いも同じ場所にいて、少し安心したのを覚えています。しかし、どこからか悲鳴が聞こえ……振り返ると津波が来た道を飲み込んで行くのが見えました。まるで地球が洗われていくかのようでした。その津波に乗って燃えた小屋が形そのままにこちらへ流れてきたのです。……紅蓮に燃える炎の色は灰色でした。そして私の知っている町はなくなりました……。私の母親も……っ奪われました――」


 今野先生は虚空を睨みながら、ひたすらは耐え忍んだ。涙は言う事を聞かない様子に見える。そんな中でも今野先生の叫びには力があった。


「……けれど、私が腐らないで生きていかれた理由は母の言葉にありました。母はよく私に言いました。『人間の価値はね。自分一人じゃ決められないんだよ。自分に安心をくれる誰かが教えてくれているものなんだ。その誰かに会うために未来に絶望しないで。過去にがっかりしないでね。しっかりと今を見てね。そんな人生は、間違いなく愉快になるんだからね』と。その言葉が私の財産です」


 誰一人として教育実習生の話を遮るものはいない。すでにジンも周囲に気を張ることを忘れた。茫然と、ただただ目の前の一人の女性の「生への歩」に惹き寄せられているのだった。


「私を支えたのは母の言葉でした。……だから、私を支えてくれたこの学校に、そして大好きなあなたたちに、この話を最後にしたかったです。……どうか生きているうちに、あなたたちも大切な人には素直な言葉で気持ちを伝えてください。……重たい話になっちゃいましたね。とにかく十五日間、感謝しかありません!本当にありがとうございました」


 目を赤く、泣きはらした表情のままニコやかに微笑むと今野先生は深いお辞儀をした。体育館からは特別な敬意が込められた眼差しが今野先生に向けられ、拍手の雨が降り注いだ。

 しかしジンだけは、今野先生の事を直視できずにいた。

 ――猫っ毛の細い髪の毛。

 ――ピリリとしたライムの刺激。

 ――夕焼けに溶けた美しい河川敷の空気。

 全身全霊を捧げて祈ったとしても若い「あの」時には戻れない。強烈な情緒はジンの記憶の彼方にあった「あの」日の輪郭の途中を描き出し、極めて短い時間の中でこんな夢を見させた。

 そこは優しい風の吹く、数多あまたの花びらが舞う黄色い陽だまりの中。いたずらな笑みを浮かべたアカネがこちらを振り向くだけの夢。やわらかい光を浴びて目を細めるアカネは泣けるほど美しかった。やがて、蜃気楼が舞い上がるかのようにしてアカネの姿は消えてしまった。惹かれ合った二人の想いは折れて散る花のように実ることはない。ジンは叶うことのない約束の果てにあった本当の感情に気が付いたのだった。

 劇的な葛藤は涙となって表現される。止まらない切なさに、ついには打ち勝つことができなくなっていた。


「まさか教育実習生がジンの想い人の娘だったとはね。事実は小説よりも奇なりとな」


「軽く言わないでくれよ晴。なんだか……しょっぱい小説を読んだ後の疲労感でいっぱいだよ」


 その日の夜。ジンは晴と二人で学生の頃から馴染みのある居酒屋にいた。会話が瞬時途切れると、ジンはアルコールの作用を飛ばすように長く息を吐き切る。胸ポケットからタバコを取り出そうとするも空箱であった。それを見た晴はハイライトのソフトケースから一本スライドし、タバコをジンに差し出した。


「本当に苦しい思いをしたなら、誰よりも幸せになるべきだよ。まあ、俺の言葉とハイライトじゃ軽すぎたか」


 ジンはありがたく煙草を受け取り、火を付けた。燻らせた煙が散ると、ジンの眉間に刻まれた皺が伺えた。


「なあ、所で晴。そっちの話も聞かせてくれよ。国語の授業で俳句の……」


「ああ!実は生徒の作った俳句を応募したら賞をとってね。生徒は大喜びさ。中々いい経験になったよ。俺も教えた甲斐があったね。どれ、ジンもやってみたらどうだ?」


「ん?応募するって事?誰が?」


「ジン個人が。どうせジンのことだ。忙しくて趣味のカメラも撮れてなくてウズウズしてるんじゃないか。それに松尾芭蕉の追っかけだった訳だし」


「そうだね。見透かすな見透かすな。じゃあ最近……って言っても過去に撮った写真がたくさんあるから晴が一枚選んでくれよ。その写真を題に一句詠むか」


「いいね。その話乗った」


 晴はジンからスマートフォンを受け取り、カメラロールを見ていった。画面のライトに照らされた晴の表情は徐々に険しくなり、やがて苦々しい顔になった。


「待ってくれジン。あまりにも写真が多過ぎて絞りきれないじゃないか」


「もう本当に何でもいいんだ。ランダムで構わないから」


 晴は写真フォルダを思い切り下にスクロールをするとギュッと目を瞑った。速度が増したカメラロールに向かって右手の人差し指をフッと落として一枚を決めた。


「……どれどれ」


 ジンはのぞき込んだ。画面には、可愛らしい一輪の菜の花が写っており、背景には一面に広がる黄色の菜の花畑が大きくぼかしてあった。まるで小さな主役のように、菜の花が一人キラキラと輝いている。写真を見てジンは唸るように低い声を出した。


「これで俳句ねえ……」


「おおいに悩みたまえ、武田先生。できたら添削してやるよ。じゃあ俺はトイレに行ってくる」


 席を立った晴にまともに顔を向けず、ジンは画面に映った写真を黙って見ている。アルコールの作用でフワフワとした頭でジンは試行錯誤をした。

 やがて晴がトイレから戻ってくると、ジンはピースサインを無言で作った。

 テーブルの上に置かれたメモ用紙には、筆圧の濃い文字で一句書かれており、それを見た晴は密かに笑った。


「添削する必要ないな。良いよこれ」


「ありがとう。恥ずかしくてお酒がすぐになくなるなあ」


 ジンはジョッキを大きく傾けた。半分以上残っていたお酒を一気に流し込むと喉仏からゴクンゴクンと音が聞こえた。

 晴はメモ用紙を手に取ると、ジンに尋ねる。


「ところでさ、晩春ばんしゅん……だっけ?この季語は」


 ひどく酒に酔ったジンは晴の言葉を最後に、記憶が途絶えてしまった。

 

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