十一  越冬の彼方で聞かせる答え


 明朝、ジンは東京行きの新幹線をホームで待っていた。プラットホームでは新幹線が横切る度に辻風が吹き荒れる。寒さに耐えるようにフードを被った。

 ジンの前には、小さな女の子と上品そうな老夫婦がいた。刻一刻と迫る別れを惜しむかのような会話を交わしているようだった。小さな手袋にフリースのジャケットを着込んだ小学校高学年らしい女児は色白の肌が特徴的で頬はバラ色の如く赤く染まっている。


「また会いに来るね。じいじ」


「しっかり先生の言うことを聞いて、勉強するんだぞ」


 ジンはじいじと呼ばれた老人の優しく微笑む表情を見た。やがてアナウンスが新幹線の到着を告げる――。

 車内に乗り込むと、先ほどの女児を連れた家族が視界に入った。窓の外では老夫婦が車内に向かって手を振っていた。緩やかに新幹線は動き始め、ホームを後にどんどん進む。先の女児は老夫婦が見えなくなると、静かに泣いているようだった。

 ジンが窓に目をやった刹那、激しい音と共にトンネルに入った。ジンは窓ガラスに反射した自分の姿と目が合う。旅路で出会った人たちの表情や会話等々、省かずに思い出した。体の底に感じる頑固な疲労感。軌道を失った思考に振り回される。しかしどこか豊かな心持ちになれた。ジンの

 トンネルを抜け、眼前のひらけた景色の眩しさがジンの眼の奥に刺さった。ふっと我に返ると携帯電話の振動にジンは一転した。慣れた手つきで携帯電話を開くと本文画面を見た。


To ジン君

 返信ありがとう。結構早くに返信くれて嬉しかったよ。けれど燃えなかったのは残念。まだまだ修行が足りない私です。

 松島かあ。小さい頃に家族に連れられて行ったことがあるけど……記憶にございません 笑 いいところだったな、とアバウトな印象はあります。

 いいね。次来たときに遊覧船乗ろうぜ。その時はジン君に松島の案内をしてもらいましょうか。宿題ですよ、先生。

 ミリはジン君の事を気にしているようで、私や兄に「ジンはいつ来る?」としつこいほど聞いてきます。だから私「五月だよ。暖かくなったらまた来てくれるって」伝えたの。そしたらね、へんてこな踊りを踊っていたよ。これは本心なのかもしれません 笑


 ミリも会いたがっています。もちろん私もね。


 とにかく五月ですね。あと四ヶ月。早速カレンダーに記しを付けてみました。これでもうジン君のゴールデンウィークの予定は決まりだね。

                               From アカネ



 ――すっかりと雪景色はなくなり、車窓から伺える建物は徐々に高さを増した。

 ジンは花をちぎる占いのように、行ったり来たりする心の働きをなぞるように、違和感を丁寧に一つ一つ言葉に直していくと、案外早く答えが見つかった。そして新緑の芽生える瑞々みずみずしい春を強く待ち望んだ。

 つい先ほどまで車窓の向こう側の道ばたには消えずに残っている雪があった。残雪を見つめて物思いに耽っていた時間が愛おしくも思えたのだった。

 ――いよいよ東京へと近づいてきた。


 電車を乗り換えて、ジンは池袋の駅に到着した。

 池袋駅の構内は人々で溢れかえっていた。携帯電話で話しながらメモを取り、忙しなさそうなビジネスマンを見かけると、ジンは気の毒に思えた。数日ぶりとはいえ、歩くと常に肩が触れるような密度にジンは圧倒され、不快な刺激を受ける。ジンは東口を出て、待ち合わせ場所の百貨店の前に着く。なんだか鼻から吸う空気でさえ受け付けないような気がした。

 ベンチなぞ在るわけもなく、道ばたのガードレールに座る。張り詰めた両ふくらはぎをグッと押しては離し、指などでこすったりした。ジンの動作がふと止まる。目が据わり、辺りの雑音がまとわりつく。この瞬間だけは世界に自分一人だけのような気がした。街の喧騒がホワイトノイズのように耳に感じられる。

 地面をのぞき込むように、ぼうっとしていると近くに人の気配を感じたのだった。


「長い冬眠だったなジン。久しぶり。どうだ娑婆の空気は」


 懐かしくも思えた。雑音の中でもハッキリと聞こえた友の声がジンを引き戻した。


「そうね。控えめに言って最高だよ」


 ジンは不在を貫いた罪悪感よりも友との再会の喜びが勝った。

 二人は一人暮らしの晴の家へと向かった。キッチンでジンが淹れたコーヒーを飲みながら、二人の会話は弾んだ。

 芭蕉の後を追って東北に行ったこと。

 金色堂の煌めきのこと。

 バーに行き、トラブルに見舞われたこと。

 松島の見所のこと。

 エリスのこと。

 そしてアカネのこと。


「信じられないエピソードばかりだな。ジンだけそんなに愉快な経験してずるくないか」


「ずるいもなにも、巡り会えた人たちがいい人たちばかりだったのよ。もしかしたら、もう十分に幸せものなのかもしれないって思ったよ」


 ジンの愉快な雰囲気と勢いのある話しに晴はギアを合わせる。二人は空白の期間を埋めるように、心の底から楽しんだ。この男の存在こそが真の友なのだと、ジンはなんら疑いをもたなかった。

 尽きない話題に太陽もしびれを切らし、姿を隠した。手に持ったコーヒーカップはジョッキへと変わる。どうやらビールとずんだ餅の相性はあまり良くないらしい。取り上げるまでもない話題でさえ二人にとってはかけがえのない時間を過ごす肴になった。


「……しかしジンって男は卒業式を控えているってのによくやるな」


「そうだね。四年間、本当に色々あった。今ならこの四年間を否定することなく素直に受け入れることができそうだ」


「そうか。それならよかったよ」


 晴は全てを察したように話を聞いてくれた。卒業式は三月十四日。


(必ず教師になる。時間はかかっても、遠回りした人にしか見えない光りもある筈だ)


 その後も、アカネとのメールのやりとりは、しばしば続いた。メールを受信し、携帯電話外側の小さなディスプレイに「アカネ」と表示されるだけで全身の細胞が喜んだ。ジンの中で、これほどまで未来がまぶしく見えた経験は無かった。


 あれから二ヶ月後。

 卒業式三日前。朝の空は灰色だった。その日は木々の間から聞こえていたはずの鳥の声も全く聞こえない。どんよりとしたムードを感じながらジンは起床した。未だ覚醒しきっていない様子で、ムクリと上体を起こす。半ば放心状態で静止していた。手先でする仕事をしたりするのにはやや暗いと感じられる室内にはわずかな朝の光りがカーテンの隙間から差し込み、舞い散った埃はキラキラと宙に舞った。

 ジンは起き上がると自室のカレンダーに赤色のペンで今日の日付に○をつけた。


『早速カレンダーに記しを付けてみました。これでもうジン君のゴールデンウィークの予定は決まりだね』


 アカネのメールにあったようにジンは彼女に触発された。すでに日課となったそれをしないと、なんだか落ち着かなかった。今日の日付にはハッキリと赤いインクがにじむ。

 ジンはあの日以来、東北という地に大変興味が湧いていた。日本の北東に位置している地理や民俗性を鮮明に知りたいという思いから連日、地元の図書館に足を運んだ。まもなく「学生」という身分が剥奪される時分に、最後まで知的好奇心は朽ちることはない。

 身支度を終えると玄関のドアノブに手をかけた。今日も図書館を目指してゆっくりと歩き始めた。

 電線とアンテナが張り巡らされた町を歩く。どこかの家からピアノが鳴っていた。不思議と体の中に入ってくるその音がよく聞こえたのは、やはり町全体が静寂に包まれていたからなのだろうか。

 タバコ屋に設置された灰皿の前で一服をした。すぐ横にある戸建てからは、犬の鳴き声が響いた。歩みを進めると、ジンは図書館に到着した。

 老朽化した図書館の白塗りの外壁には所々黒ずみの汚れが目立つ。エントランスには小さな花瓶がいくつか並んでいた。造花が植わった花瓶はこまめな手入れがなされているのか、埃はついていない。

 館内に入るとジンはまずカウンターを目指す。借りていた本の返却を済ますと興味の赴くままに本を鷲づかみし、そのまま空いている席に着く――。


 時間はするりと過ぎ、ジンは二冊目の本を閉じた。十四時をまわる頃合い。テーブルの上を片付けると休憩を兼ねて、タバコを吸いに近場を散歩することにした。ジンは大きく身を伸ばすと、ゆっくりと立ち上がった。


 見慣れた町の風景。カメラの画角、見え方、魅せ方を頭の中でイメージしながら頻りに辺りを見渡した。するとジンは何か奇妙な感覚を抱いた。風の吹いていない町の静けさが妙に重たく身体にのしかかった。まるで映画のフィルムが止まったように思えた。上を見上げると木の葉は一枚も揺れていない。

 図書館に戻るとジンは、本を探しに館内をゆっくりと歩いた。

 カメラの画角やレンズについての本を持ち、先程まで座っていた席に行くと、そこにはすでに先客が座していた。ジンは仕方なく別の席を探そうとした時、館内の災害用のベルが鳴り響いた。

 直後、ハッキリとした縦型の揺れが床に伝わる。ズキンっと心臓が跳ね上がった。地面がうねりを上げ、その場で立つこともままならない。ジンは途端にしゃがむ。宙にぶら下がっていた「読書案内の看板」は人格を得たかのように暴れた。次々と飛んでくる本を視界にとらえたジンは、ようやく事態を飲み込んだ。

 ――経験した事のない地震。

 恐ろしさに震え、おののく感覚が体中に駆け巡る。なによりも揺れがいつ終わるか分からない恐怖が襲いかかる。館内の蛍光灯の光が途絶えた。揺れが収まるまでの間、時間は不思議に過ぎていった。

 ジンは急いでエントランスから外へ向かう。先ほどの花瓶は割れて地面に散乱しており、その上を歩くと靴の底に嫌な感触が伝わった。外に出て辺りを見渡す。図書館の外壁には、くだけるようなひび割れがいくつも走っていた。ジグザグに落ちて閃光する雷のようなその亀裂はジンの目に焼き付いた。

 その視界が横に動くと、道路の真ん中でお婆さんが自転車を支えたまま動けなくなっているのを捉えた。


「そんなのいいからはやく!」


 ジンは駆けつけるとおばあさんに肩を貸した。運転者のいなくなった自転車は地面に倒れ、籠に入っていた荷物は床に散乱した。アスファルトには割れた卵の中身がジワリとこびりつく。

 助けた後、行きに来た道を戻ってジンは急いで自宅に向かう。先ほどまでの不気味な静寂から打って変わってしまった町の様子。倒れた灰皿。電線とアンテナは安定感を失って今にも落ちそうにぐらぐらと揺れ動く。そしてピアノの音色は聞こえなくなった――。


『臨時ニュース 日本で強い地震発生』

『二〇一一年三月十一日 ここ数十年間で最も強い地震は……』


 ジンはテレビをつけ、チャンネルを見ていく。全ての画面に日本地図の映像が見えた。ある箇所に集中的に色が付けられており、中でも赤色は津波の度合いの甚だしさを示すものだと理解した。

 そしてある箇所には×がある。それが震源地だと理解したジンの思考はピタリと止まった。震源地はジンのいる東京よりもずっと北に位置する「東北」と呼ばれる場所だった。

 ハッとしたジンは電話帳から初めてアカネに電話をかけた。

『現在電話が大変繋がりにくくなっております。しばらく経ってか――――』

 一回……二回……三回……。何度も電話してみた。しかし繋がらない。ジンの右手に握られた携帯電話はもはや機能しなくなってしまった。

 テレビ中継は上空からのアングルで、東北の町を襲う津波の映像が頻りに流れた。嫌な予感が胸を締め付ける。

 握り締めた携帯電話のきしむ音がジンの劇的な葛藤を表した。

 ――どうかあの人たちだけは無事であってほしい。

 ――神様がいるのなら、わがままを言わせてほしい。

 ジンは地面に落ちたカレンダーをそっと拾い上げた。用紙に向かって涙が真っ直ぐに落ちた。

 二度と会えなくなるかも知れ――――

 あれこれと想像したことを事実であるかの如くに堅く信じてしまう心の傾向が声にならない慟哭どうこくを激しくさせる。

 やがてカレンダーには乾いた後がいくつも残った。





 

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