七 色の無い花の温もり
次の日。正午の時分にホテルのチェックアウトを済ませたジンは早くも「Yellow Point」へ向かった。重厚に感じた入り口の扉に難なく手をかけたが、鍵がかけられていた。チャイムを鳴らすとガチャっと開いた。そして昨日ぶりに二人は再会した。
「あら?ジン君ではありませんか。ここのお店のお酒そんなに美味しかったかしら。すっかりお得意さんだね」
「色んな意味で虜になったかもね。昨晩のライムは刺激が強すぎて、しっかり二日酔いにもなったよ。それに大事にしてるこれを渡しそびれたからさ」
「あはは……またやっちゃったね私。ありがとう」
「いや、僕が昨日、すぐにアカネに渡しておけばよかったんだけどね。その……色々あったじゃないか。そのままカードケースのことが遙か彼方へ飛んじゃったよ。けど、あんな凄い雨の中をビショビショになるのを覚悟の上で探しに行ったってことは大切なものなんだよね」
「さすが未来を育てる先生だね。よく観察していることで!」
今度こそ、カードケースをアカネに手渡した。ありがとう、と呟くアカネの声を聞いてジンは得体の知れないさびしみを覚えた。元来、人と会うための理由なんかない。しかし、カードケースはアカネと自分とを結びつける確かなアイテムであったのだと、この時に理解した。
「ジン君。今日この後はどこへ?」
「それが特にこれといって決まっていなくて……。とりあえず君に渡してから行き先を決めようかと思っていたよ」
「そうだったのね。もし良ければコーヒーを淹れるから一緒に飲みませんか?」
「それはありがたい。じゃあお言葉に甘えて」
店内の様子は穏やかであり、掃除の途中だったらしく、窓が空いていた。冬の東北の凍てつく寒さとは無縁な温暖な日の光が店内をじんわりと照らす。
すると店内端のソファで、すやすやと寝息を立てている幼い子どもがいることにジンは気がついた。
「その子は?」
「たはは……私の娘だよ」
まさか子どもがいたなんて思いもしなかった。たゆたうジンをコーヒーの湯気が包む。ジンは小さくしぼんだ。
「まあ……そうか。名前はなんていうの?」
「ミリって言います!私の育った地元のように、綺麗で美しい人になってほしくて。そんな名前をプレゼントしてみたの」
「育った所って?すると仙台のこの街のこと?」
「ううん。ちょっと離れるんだけど、国分町と比べるとのどかな所でね。大きな川があって春になると菜の花がすっごく綺麗なんだ。そこが大好きで。ジン君が拾ってくれた名刺入れに刺繍されたのはそこの菜の花をモチーフにしたものなんだよ!」
そう語るアカネの目は片思いをした思春期の少女のように純粋で真っ直ぐな眼差しだった。思わず背中を押したくなる。しかし、ジンはすぐに疑念が心に生じた。
「あのカードケースの花の色は黄色じゃなくて灰色だよね?」
「あれはね、もう少しミリが小さい頃、兄に作ってもらったの。三歳だったかな。布の色を決める時、この子が灰色の布を掴んで離さなかったの。私たちは『菜の花の色は違うよ』って言っているのに『これぇ』って話しを聞かなくって」
クスッとアカネは微笑む。
アカネの夫はどんな人なんだろう。きっと自分なんかより余裕があって大人な精神で安心させるような人なんだろう、とジンは少々自棄になった。ジンの元来の好奇心の強さがひょいと心に姿を現した。
夫のことを本人に聞いてみようと口を開こうとした時、店内のドアが開き男の声がアカネを呼んだ。
「また掃除してもらって悪いなアカネ。アルバイトの子たちでお店をまわすから今日は家でゆっくりしてろって言ってなかったっけか?それに昨日は……」
何かを言いかけた男はジンを見て「あれ」と不思議な表情になった。整えられたオールバックの髪型にジンは威圧感を覚え、瞬時悟った。
(アカネの夫か……)
途端に気まずさが顔を覗かせた。自分は何をやっているんだ。何が二人を繋げるアイテムだ。少し前の自惚れていた自分をジンは強く恥じた。
「アカネ。この方は?」
「昨日落とし物を拾ってくれて、その後お店で暴れ出したお客さんを追い出してくれた人だよ。またジョーはメール見てないね」
「ああ、見た見た。ごめんなアカネ。あの酔っ払いは俺の後輩でさ。最近女と別れて荒んでいたらしい。ただ俺の店で暴れてもらっちゃ困るってんで説教してやった。反省してます。ごめんなさいだとよ。そんな事があったから、アカネからのメールの事、すっかり忘れてたよ」
アッハッハ、と豪快な笑い方に下品な感じはしなかった。
「そうか。君がジン君か。初めまして。
譲二は言葉を先に伝えた後に、深く頭を下げた。洗練された挙動から誠実な印象が強く残る。ジンは目の前の人物に対して慎んだ態度になった。
「いえ、むしろ僕の方こそ熱くなっちゃって反省していました。わざわざありがとうございます」
「この青年は随分と爽やかだなアカネ。しかもミリの奇跡的なセンスでデザインが決まった大事なカードケースまで届けてくれたなんて、お礼がしきれないな」
カードケースの事を知っているのなら、とジンはいよいよ確信を得た。この人とアカネは夫婦で二人の愛娘がすぐそこにいる。自分と関係値の浅い家族に囲まれた。ジンは言葉にし難い歯痒さから必死に話題を探した。
「やっぱりカードケースは大切にされていたんですね。お二人の娘さんが選んだ色ですもんね」
譲二は不思議そうにジンを見つめた。
「君は勘違いしているようだが、俺はアカネの旦那じゃないぞ」
「え……?それじゃあこの店のオーナーとか?」
予想が大きく外れた衝撃からジンは狼狽した。
「確かに俺はオーナーだが、お店のことはアカネに任せている。それにアカネは俺の妹だ」
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