一人でできない

増田朋美

一人でできない

「一人でできないんです。」

と、患者である佐野瞳さんは、患者椅子に座って、小さな声で言った。ちなみにここは心の病気を診察する病院であり、悩んでいることをなんでも言っていいことになっている。だけど、何故かそこへ来るのは、頭のおかしい人と言われてしまうことが多い。

「一人でできないって何がですか?」

医者の影浦千代吉は、そう小さくなっている佐野瞳さんに優しく言った。

「もう少し、あなたの悩みを、整理してみましょう。いきなり一言で言うのはちょっとむずかしいですよね。それでは、僕の方から、質問をしますので、それに答えてください。長期に渡って悩んでいる場合、色んなことが絡みついて、一番大事なことを忘れている場合がありますから。じゃあ、行きますよ。いつから悩んでいるのですか?」

「はい。息子が生まれてからです。」

と、佐野さんは言った。

「そうですか。では、もう一度聞きます。息子さんは現在何歳ですか?」

「五歳です。保育園に通っています。ですが、あまりにも虚弱なため、他の保育園にいかせてくれと、保育園の先生から言われることがあります。」

佐野さんは早口で言った。影浦はそれを止めて、

「ちょっとまってください。まずはじめに、余分なことを答えるのはやめましょう。息子さんの説明ではなくて、息子さんが何歳なのか答えていただければ結構です。」

と言った。

「あ、ああ、ごめんなさい。答えをいいますと五歳です。」

佐野さんがそう言うと、

「わかりました。では、ご主人は何をしているのですか?」

と、影浦は聞いた。

「一応、パソコンの販売員をしていますけど。それがなにかあるんですか?今は私の悩みを聞いてくれるはずですよね?」

佐野さんはやっぱり話したいらしく、余計なことを言ってしまう。影浦は、それを制して、続いて聞いた。

「わかりました。それでは、パソコンの販売員をしていることで、収入の面では大丈夫なんですね。それでは、お聞きします。息子さんが通っている保育園は何処でしょう?」

「はい。中央保育園です。ですが、何度も、保育園側から迎えに来てくれと電話があり、一日預かってもらえたことは、数えるほどしかありません。どうしたら、息子が普通のこどもになれるか、私も頭を悩ましているんですよ!」

瞳さんは、だんだん興奮してきたので、影浦は、注射の支度をと看護師に言った。

「それでは随分遠くの保育園に預けたんですね。あなたの住所は、田子の浦ですよね。中央保育園は、吉原の方にあったはずだ。なにか、その保育園にしなければならない理由があったんですか?」

「ええ!だから、今待機児童問題が話題になってますよね。それで、うちの子も10件ぐらい保育園を回りましたが、どれも定員が一杯で入れませんでした。それで中央保育園でやっと預かってもらいました!」

瞳さんは、畳み掛けるように言った。

「そうですか。それでは、息子さんは、保育園で問題があったのでしょうか?お友達を殴ったとか、そういう騒ぎを起こしたのですか?」

影浦がもう一回聞くと、

「いえ、そんな事は聞いたこともありません。ですが、保育園に行くたびに、嘔吐を繰り返したり、食事を拒否するとかで、閉園時間になる前に、迎えに来てくれと電話がかかってくるんです。私だって、やりたいことがあるのになんで、保育園にいられないんだろう。それで私も、息子に当たってしまいまして。主人が、精神科とか、カウンセリングとかでなんとかなるんだったら、ちょっとかかってみたらどうかと言いますけど、こんな時に本当は、家を留守にしたくないんですよ。それなのに、こんなところにこさせられるなんて。本当なら、すぐに書いてしまいたい原稿だって山程あるのに!」

と、瞳さんはなにか怒鳴りつけるようにいい始めた。影浦は、仕方ありませんねと言って、瞳さんの右腕に鎮静剤を注射した。それで落ち着きを取り戻してくれた瞳さんは、泣きながらこういい始めた。

「私は、やっと新人賞を取って、原稿をお願いされるようになったのに、それなのに息子と来たら、保育園でああしてトラブルを起こして。もうあんな子、消してしまいたい!それなのに主人と来たら、お前が受け入れなきゃだめだという。どうしてもできないと言ったら、一人でできるようになれという。それで、どうしようもならないから、今日は来たんですよ!」

「わかりました。わかりましたよ。あなたが悩んでいることもだいたい理解できました。確かに、これから作家としてやっていこうとおもった矢先に、息子さんが、そのような態度を取られては、煩わしく感じることもありますよね。」

影浦は、とりあえず、彼女にそういうことを言った。

「それで、あなたは、落ち着きをなくしてしまったわけですね。確かに、原稿を書かなければならないのであれば、保育園に入れなければならないのも理解できますよ。とりあえず、あなたには、安定剤を出しておきますから、怒ってしまいそうになったら、薬を飲んでください。それから、これは提案なんですけど、保育園を変えるとか、誰かお手伝いさんに家に来てもらって、息子さんの世話をしてもらうとか。そういうことは、できませんか?」

「そうですか。そういうことをしてくれる人がいるんだったら、とっくにやってますよ!それができないから、苦労しているんじゃありませんか!」

瞳さんはそう言うが、当事者本人は悩みのどん底にいるようなものなので、身近なところに可能性があると気がつくことができにくい。なので影浦は、彼女が落ち着くのを待ってから、話をすることにした。

「そうですね。わかりました。とりあえず、怒ってしまいそうになったら、薬を飲んで、ゆっくり休みましょう。それが回復への一番の近道ですよ。」

影浦は、にこやかに笑った。それを聞いて瞳さんは、

「先生、私、そんなに悪いんですか?」

と聞いてきた。

「はい。残念ながら、情緒が安定しておりません。おそらく、軽い不安障害でしょう。ですから、薬を飲んで和らげていただく必要があります。それで落ち着きを取り戻してから、息子さんに接してあげてください。」

影浦は優しく言って、処方箋を書いた。瞳さんはそれを受け取って、本当にありがとうございました、と言って、診察室を出ていった。影浦が相手にするのは、こういう患者さんばかりである。それが、年々増えてきているような気がする。そういう人を増やさないためには、当事者の寂しさを和らげてくれる人間が増えてくれることしか無いと影浦は知っていた。

一方、瞳さんは、診察室から出て、会計をお願いするために、待合室で待っていた。会計を待つだけでも、人が多くてかなり待つものだ。仕事帰りに病院による人、家庭の家事をしてから病院にやって来る人など、夕方の病院は、かなり混雑している。とりあえず椅子に座って、呼ばれるのを待っていると、隣の部屋のドアがガラッと開いて、一人の看護師と、一人の男性が現れた。なかなか古風な感じの男性で、着物を着ているのは珍しかったけれど、優しそうな感じの人だった。看護師が、こちらに座ってお待ち下さいと椅子を指差すと、

「あ、あ、あ、ありがとうございました。」

と、彼は答えた。その顔の割に、まるで小さな子どもが言うような言い方だ。そういうことであれば、もしかしたら、脳梗塞とかそういうものをやったのかもしれないと瞳さんは思った。

「はい。大丈夫ですよ。五郎さん。丁寧に接してくれるのはありがたいんだけど。ちゃんと喋りましょうね。」

「ご、ご、ご、ごめん、な、さい。」

看護師のそのセリフから、その男性は五郎さんというのだなと瞳さんはわかった。

「謝らなくてもいいのよ。五郎さん。それより頑張ってちゃんと喋れるようになりましょう。これからも一緒に頑張りましょうね。」

そういうことなら、多分言葉を流暢に話せなくて、病院に来ているんだなということがわかった。瞳さんは彼に声をかけることはしなかった。それから数分経って、佐野瞳さんと受付が言ったため、瞳さんは受付に行って、診察料を払った。受付は、隣の薬局で薬もらってくださいと言った。瞳さんはわかりましたと言って、病院を出て、隣の薬局に行った。

薬局に入って、処方箋を薬剤師に渡すとまたしばらくおかけになってお待ち下さいと言われた。まあ、待たされてばっかりなのは、病院ならではだった。なので瞳さんは、椅子に座って、薬ができるのを待った。

すると、薬局のドアが開いた。誰だと思ったら先程の五郎さんという男性だった。

「あ、あ、やっぱり、ここに、いた。あの、これ、あ、なた、が落とし、た物で、はありませ、んか?」

そう言って彼は、キーホルダーを見せた。車の鍵だった。これがなくなったら、車のエンジンを掛けられなくなる。

「まあ、私のだわ。どうもありがとうございます。わざわざ持ってきてくださって申し訳ありません。ありがとうございました。」

瞳さんは、急いで五郎さんが持っていた車の鍵を受け取った。

「はい、よ、よ、よ、よかった、です。」

と五郎さんは、にこやかに笑った。言葉が不自由であるせいか、笑顔がとても素敵な気がした。

「いいえ、ありがとうございます。たしか、五郎さんとか仰っておられましたよね?お礼をしたいので、ご住所とか教えてほしいんですけど。今日のお礼に、なにかお菓子でも送るわ。」

瞳さんがそう言うと、五郎さんは、手帳を破って、自分の名前と住所を書いた。そこから判断すると、有森五郎さんと言って、本市場というところに住んでいるのだと言うことがわかった。

「わかりました。今日のお礼に、後でなにか送ります。」

そういうことを考えられるのだから、多分注射が効いているのだろう。

「い、い、いえ、だいじょう、ぶ、ですよ。お体、の、弱い、のに、そんな、むり、は、さ、せ、られ、ま、せん。お、れい、なんて、い、り、ませ、んから、だい、じょう、ぶです。」

それが、体の悪いのに、無理をさせられないので、何もお礼はいらないと理解するのに、瞳さんは数分かかった。だからこそ、瞳さんはお礼をしなければならないと思った。

「いいえ、ダメよ。不自由と言ったら、あなたのほうがよほど不自由じゃないの。それなのに人に声をかけるなんてよほど度胸があるのねえ。それはちゃんと褒めあっていいのではないかしら?」

瞳さんは、しっかり言った。

「で、で、でも、びょ、びょ、びょ、い、んに来て、いる、んだか、ら、おから、だ、が、わ、る、いのでは?そ、んな、ひと、に、わざ、わ、ざおれ、い、なんて、で、きま、せん、よ。それ、よ、り、も、じ、ぶん、の、から、だを、だいじ、にして、くだ、さい。」

一生懸命言葉を発しようとしてくれる五郎さんに、瞳さんはなぜか愛おしさというか、そんな気持ちを持ってしまった。息子も一生懸命なにか言おうとしていたけれど、何故か苛立って、早くしなさいとか怒鳴ってしまうのが常だった。相手が違うと、こんなにも違うものか。瞳さんは不思議で仕方なかった。

「いいのよ五郎さん。それでは、カフェでも行きましょうか。もうすぐ、夕飯の支度にもなりますし。あたし、なにかごちそうしますから、なにか食べて行ってください。あたしもね、あなたみたいな人が、わざわざ車の鍵を持ってきてくれたって言うことは、本当にすごい大きなことだと思うから、なにかお礼をしなきゃいけないのよ。それでは、この病院近くにカフェがあるから、ちょっとよっていきましょ。」

瞳さんは、どうしても、彼にお礼をしたくて、そう提案してしまったのだった。五郎さんは

「あ、あ、ありが、と、う、ございま、す。じゃ、あ、うかがい、ます。」

と言った。そのうち、瞳さんと五郎さんの処方された薬が渡されたので、二人はこれでやっと帰れると言いながら薬局をでた。そして病院の駐車場に止めてあった、コンパクトカーに乗り、瞳さんの運転で病院近くにある、カフェに向かった。

カフェと言っても、カフェとは名ばかりで、パスタとか、ピザとか、食事が結構充実している店だった。まだ、夕飯には少し早い時間だったので、カフェは空いていた。二人は、カフェの中に入って、一番奥の椅子に座らされた。

五郎さんは、メニューを見て困った顔をしていたが、瞳さんは、何でも食べていいと言った。五郎さんがメニューを見て、明太クリームパスタを指差すと、瞳さんは、ウエイトレスに、ボンゴレと明太子をと頼むと、ウエイトレスは、わかりましたと言って、戻っていった。

「ほ、ん、と、に、すみま、せん。わ、ざ、わざ、食事、まで、させ、て、く、れる、なんて。」

五郎さんがそう言うと、

「いいのよ。わざわざ私が落とした車の鍵を持ってきてくれて、しかも、こんな重度の言語障害がある方に持ってきてもらうなんて、ホント嬉しいんだから。」

瞳さんはにこやかに笑った。

「そ、う、で、しょ、う、か。」

五郎さんはひとこと一言、切るように言った。

「ええ。もちろんよ。だって、その喋り方を見ればわかるわよ。何をやっているのか知らないけど、きっと仕事だって苦労しているんでしょ。そんな不自由な人には、ちゃんとお礼をしないとね。それはマナーと言うものではないかしら。」

瞳さんはさらりというと、

「で、も、そ、れは、きっと、ひと、を特別、な目で、見てる、んだ、とおもい、ます。こういう、人間は、と、くちゅ、だからとか、か、わいそう、だから、とか、そう、いう、事で、僕の、こ、と見てる、んだ。だ、から、そう、いう、目、では、みな、いで、く、ださい。それ、では、ぼく、たちが、余計に、一人で、できない、と、いう、こ、と、がわかって、し、まう。」

五郎さんは一生懸命そう言っているけれど、発音が大変悪いので、瞳さんには何を言っているのか理解できない箇所があった。ただ、瞳さんに見えたのは、五郎さんが本当に辛くて、言葉を話すのに苦労しているようだと言うことが、わかっただけだった。

「まあ、そうかも知れないけどね。お礼くらいはさせてちょうだいよ。あたしだって、あなたのことは、不自由だってわかるわ。うちの息子だって、そういうところがあるかもしれない。そういうことだからこそ、ちゃんとしなければならないのよ。」

瞳さんは、五郎さんに言った。

「きっと、あな、た、の、息子、さんだ、って、いま、は、き、が、つかな、いかも、しれない、けど、大人、になって、から、ほんと、う、に辛い、思い、をさ、れる、か、も、しれま、せんよ。だから、みん、な同じ、にんげん、とし、て、あつか、てもら、わないと。ずっと、と、く、べ、つ、あつ、か、い、を、さ、れる、のも辛いです。だから、そういう、ことは、し、ない、でく、ださい。ふつう、の、ひと、がやる、よう、な、感じ、の応対、で大丈夫、な、んです。それで、いいんで、す。それで。」

そう言っても、瞳さんは、何を言っているのか不詳だった。五郎さんは、一生懸命喋っているけれど、本当は紙に書いてくれたほうがわかるような気がした。だけど、それでは、五郎さんが一生懸命話しているのを、妨げてしまうような気がした。

「まあ、長々言わなくても大丈夫よ。あなたは、もともと不自由なんだから。そういうのは、車椅子の人に無理やり歩かせるのと同じで、ちょっと可愛そうでしょ。だから無理に喋らなくていいわよ。そうなったら、私が虐待で訴えられちゃうかもしれないわよ。よく息子の保育園の先生に、よく言われたわよ。もっと大事にしてやってって。だけど、あたしは、一人ではできないわ。それと同じなのよ。」

瞳さんは、にこやかに笑って、普通の健常者が見える世界を言った。だけど、五郎さんは、嬉しいようには見えなかった。

「そう、やっ、て、僕、みた、いな、人を、きりは、なし、てしまうの、も、辛いです、よ。それ、に、ぼくたち、み、たいな、人を、完璧に、なんと、かしよう、なん、て、できや、しま、せん。だか、ら、できない、ところ、は、できない、で、いいんです。それよ、り、できる、こと、を、考え、てく、ださい。」

五郎さんはそう言っているが、その不明瞭な発音の中、瞳さんは、考えてくださいだけやっと聞き取ることができた。そう言われて彼女も考えてみた。でも、いくら考えても、五郎さんのような人や、自分の息子のような人は、援助しなければならないという考えから抜け出すことはできなかった。考えても考えても、一生懸命考えても、答えは思いつかないのだった。

「大丈夫よ五郎さん。あたしはちゃんとお礼をしますから。そんな特殊詐欺とかそういうものでもないし。ちゃんと、あなたのような人とは優しくしなければいけないと言うことをちゃんと知ってますよ。だから、気にしないでください。」

瞳さんがそう言うと、ウエイトレスが、大変長らくお待たせいたしましたと言って、ボンゴレ・ビアンコと、明太子クリームパスタを持ってきた。

「ほら、食べてちょうだいよ。ちゃんと私、ごちそうするわよ。物品を送るというのが嫌なら、こうするしか無いじゃないの。」

と、瞳さんは、彼にパスタをすすめるが、彼は、

「そ、う、で、すが。」

と一生懸命喋ってくれたが、瞳さんはやはり発音が悪すぎて、聞き取ることができなかった。仕方なく、瞳さんはいただきますと言って、パスタを食べ始めた。五郎さんも、なにか考えてくれたようで、パスタを食べ始めた。

「どう、ここのパスタ、美味しいでしょ。やっぱりね。こういうところは、ちょっと食べたいときには最高なのよね。」

瞳さんがそう言うと、彼は、首を縦に振った。それだけが、瞳さんにわかった、五郎さんの意思であった。

カフェの中には、他にも、何人か客がいたが、五郎さんのような、重度の言語障害者ではなかったから、とても楽しそうに喋っていた。カフェとはそういう場所である。それをパスタを食べながら寂しそうな顔をしている五郎さんが、印象的であった。

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一人でできない 増田朋美 @masubuchi4996

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