杏仁豆腐と過ごした一週間戦争

だっちゃん

杏仁豆腐と過ごした一週間戦争

杏仁豆腐と過ごした一週間戦争

 家庭を持ったら猫を飼おうと思っていた。妻がいて子どもがいて、そういう間取りを猫が横断していくような空間の体温に憧れを抱いていた。

 紆余曲折あって結婚を考えていた彼女と別れ、当面家庭を持つのは難しいんだろうと思った。

 となればもう遠慮することはない、猫を飼ってしまおうと思い立った。

 私は自分のためだけに毎日満員電車に押し込められ、退屈な仕事に日々を埋没させていくようなことができない人間である。

 自分の所属している社会や、果ては自分自身に対する愛着が無いから、「最悪どうなっても構わない」という擦れた心が常に傍らにある。そのせいで、まともに生きていくことに踏ん張りがきかない。

 そんなとき家に可愛い猫でもいてくれたら、猫のために食い扶持を稼がなければいけないと思うことができるだろう。猫の大好きな「ちゅーる」や玩具、猫タワーを気前よく買ってやるためには、私一人がただ漫然と食っていく以上に稼がなければいけない。

 そういう責任感のようなもので日々の艱難辛苦を乗り切れると思った。

 元々実家で数匹飼養していたので、世話の仕方はわかるつもりだ。

 思い立ったが早いか、近所の猫を保護しているNPOや個人のボランティアさんに連絡をとった。が、何度も門前払いをされた。

 まず「独身である」ことがネックである。会社に出勤して家を留守にしている間、寂しがる猫もいるから、というのが方々で説明された理由だった。

 次に「男性である」ことがネックだった。

「女性ならいいんですけどねぇ」と言われたことは一度や二度ではない。猫を虐待して弄ぶような変質者には男性が多いから、というのがその理由だった。

 そうして何件も断られ転々としていたある日、知り合った一人の猫ハンターの女性から、「知り合いが独身男性にもぴったりの子がいるって言ってたから、連絡してあげるわよ」と言われ、ある保護親さんの連絡先を教えてもらった。

 ちなみに「猫ハンター」とは、野良猫が迷っているという情報を聞きつけたら現場に急行して猫を捕獲し、去勢して野に還すという猫にとっては大災厄のようなボランティアさんのこと。そして「独身男性にもぴったりの子」とは、猫より人間のことが好きで、基本的に一人遊びが好きな内向的な猫のことである。

 そしてその保護親さんと連絡をとり、私の住む部屋に白い子猫がやってきたのは先週のことだ。まだ1歳くらいで、白い体毛の女の子だった。

 知らない人間(私)を見て怯えて小さく「にゃあにゃあ」と鳴いて震えている姿が本当に愛らしいと思った。

「他にも良さそうな子を連れてきたので、もし良かったらご覧になりますか?」と訊かれたけれど、

「この子にします、最初に来てくれたということは、きっとご縁があるということだと思いますので」と他の猫をろくすっぽ見ずにその白猫を引き取ることに決めた。

 SNSで、「猫を保護することにしました。名付けの案を下さい!」と募集すると、見てくれた人たちから幾つか提案して貰った。

 その中から選んで、子猫のことを「杏仁豆腐」と呼ぶことに決めた。

 白い体毛が寒天、ピンク色の細長い鼻はクコの実のようで見た目にもそぐわしく、女の子だから甘いものの名前はぴったりで、「杏ちゃん」と愛称で呼ぶこともでき実用的で、とにかく、良い名前だと思った。

 そこからシングルファザーとして愛されるため、努力の日々だった。

 猫のベッドやちゅーる、玩具を買い揃えAmazonの段ボール箱を工作して家を作った。

 最初はおそるおそるという様子だった杏仁豆腐も、段ボール箱の中に敷いた私の古いパーカーの中で(しぶしぶ)丸くなって眠るようになった。

 ある朝起きると、杏仁豆腐が段ボールハウスの中にいなかった。出勤前に見つけることが出来ずに焦っていると、「カサッ」という気配を感じた。

 そうして冷蔵庫の裏を覗き込むと、杏仁豆腐は隙間に引っかかり出られなくなってブルブル震え怯えていた。

 冷蔵庫をずらし杏仁豆腐に引っ掻かれながらつまみ出すと、「ピャー!」という勢いでまた何処かへ消えていった。もう挟まったりしないよう、冷蔵庫の裏の隙間を塞いだ。

 次の日はカーテンの裏に隠れていて、触ろうとすると「フー!」と毛を逆立てて怒っていたのだけれど、ちゅーるを手のひらに出してやり、頭を撫でながら差し出すと、大人しくなりペロペロと全て舐めとってしまうのだった。つくづくゲンキンで、猫はちょろいと思った。

 毎朝、杏仁豆腐がどこにいるか探すことから始まる日々は鬱陶しくもあり、その煩わしさが楽しくもあった。

 ある会社からの帰り道、特に必要はなかったけれど、招き猫の置物を買った。杏仁豆腐と同じ白猫だし、なんだか彼女がこれから良いことを運んできてくれるような気がしたのかもしれない。

 帰宅して杏仁豆腐を触ろうとすると、最初は「イヤダー!」みたいな声を出して拒否していたのだが、ずっと触っているとなんだかんだ「ゴロゴロゴロ」とリラックスしているときの声を出すのだった。理性では警戒しているのに人間に触られる快楽には打ち勝てないなんて、本当にちょろいと思った。

 ある夜家に帰ると、今度は下駄箱の中に隠れていた。そして触ろうとすると、もう杏仁豆腐は怒らなかった。私の差し出した手に自分の耳の根元を擦り付けて、お腹を出して甘えてくれるのだった。それからは下駄箱が彼女の定住地になった。暗さとか、靴の柔らかさとか、臭いが気に入ったのかもしれない。

 私は家に帰るのが楽しみになっていた。杏仁豆腐が待ってるからな、と思えばとりあえず面倒なこと、辛いことは脇に置いて踏ん張ることができる。「これが守るべきものがあるってことなのかな?」と思いもした。

 保護親さんには杏仁豆腐の様子を逐一報告していたのだけれど、「順調そうで何よりです!」と褒められ、そんなことをくすぐったく思ったりもした。

 ただでさえ忙しい社会人生活の中で猫の世話をしている分、生活の可処分時間は奪われているはずだった。しかしそれを補って余りあるくらい一日の充実度が段違いだった。やはり猫を飼って良かったな、と思った。

 ところがある日、朝起きると顔が真っ赤になり、皮膚がカサついていた。喉に異物感があり咳が止まらなかった。

「これは風邪でもひいたかな?」と思ったが、翌日私の顔はパンパンに腫れてしまっていた。

 ただ家にいるだけで全身を虫が這い上がってくるような掻痒感があり、咳も悪化していた。空気清浄機を買ってみたものの症状は一向に良くならず、病院へ行くと、

「猫アレルギーですね」とあっさり告げられた。嘘だろう?と思った。

「いやでも先生、私、実家にも猫いるんですよ。こんな症状でませんでしたけど」と申し伝えると、

「猫との相性ってものがあるのですよ。加齢で体質が変わって発症することもありますね」と告げられるのだった。

「コロナで飼う人多くなってね、最近猫アレルギー増えてるんですよ。可能なら、保護親さんに返した方が良いですよ。それがあなたのため、そして猫のためでもあります」

 と絶対に聞きたくなかったことを告げられた。

 もう情が湧いていて手放したくなんてなかった。それでも「今なら杏仁豆腐は若い。新しい里親さんに引き取ってもらう方が、この子のためなんだろうな」という結論にいたるのに時間は掛からなかった。

 帰宅して、下駄箱の中に棲んでいる杏仁豆腐を撫でて話しかけた。

「杏仁豆腐よ。オレ、本当はお前のこと触っちゃダメなんだって」と話しかけると、「にゃあ!」と元気に返事をくれるのだった。

「ごめんね」

 と口にすると、ほんの一週間程度の付き合いしかないクセに胸が一杯になって、ある種の込み上げてくる感情があった。

 後日、保護親さんが来て、杏仁豆腐を引き取っていった。

 猫は頭が悪いから、何日も離れていれば保護親さんのことも覚えていない。知らない人にケージに詰められ不安そうな声で私に向かって「にゃあにゃあ」と鳴く姿が胸を打った。

「本当に、ご迷惑おかけしてすみませんでした」

「いえ、いいんですよ。こんなことよくあることですから。他に猫を欲しい方が知り合いでいたら紹介して下さいね」

 杏仁豆腐が「ニー!!」と悲痛な声をあげると、保護親さんが

「あら、この子『捨てられるー!助けてー!』って叫んでるわねぇ」と笑った。この人よくそんな悲しいこと言えるなあと思った。

 保護親さんが杏仁豆腐を連れ去っていくとき、ケージの中から杏仁豆腐の不安そうな表情が見えて、私は大きな罪悪感を覚えた。

 部屋には、自分のほかにもう体温を持つ者はいなかった。その静寂が遣り切れなくて居た堪れず、失意を誤魔化すように部屋の掃除をした。

 段ボールハウスを壊し、ちゅーるや猫砂を捨てた。床にコロコロをすると、白い毛が沢山ついた。部屋は無臭になり、掻痒感も皮膚の赤みもすぐに軽くなった。

 ふと気づいて下駄箱を開くと、杏仁豆腐が私の靴を荒らしていった痕跡があり、魚臭いニオイが染みついていた。

 私はそのニオイを愛おしく思ったが、それも間もなく消えてしまうのだろうと思った。

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