第9話
ふと気がつくと、薄暗い照明と、仕切られたカーテンと、無機質な天井が目に入り、そこにかすかな甘い匂いがした。
「おーい」
声とともに、どうやら仰向けに寝かされているらしい僕の視界を影が遮った。だんだん頭がはっきりとし始めて、顔のすぐそばにあるものが、亘理の白い顔だと気づいた。黒い髪は下を向いているので、ほとんど僕に触れていて、それがまとうシャンプーの香りがむっと押し寄せた。
「亘理…」
「これ、飲んで。のぼせたらしいじゃない」
彼女は僕の唇に経口補水液の容器を寄せてくる。その目には苦笑いのような表情があった。
「私は、そういうのぼせかたをして欲しかったんじゃないんだけれど…」
しっかり僕を見つめる視線は強く、先ほどすれ違った時の感覚がフラッシュバックする。
「それは、私の事は考えて欲しかったけれど、嬉しくなくもないんだけど、死にそうになるのはちょっとね、めちゃくちゃ心配するからね、そういうのはやめてくれると嬉しいし、でも結局、どういう結論がでたのかなって気にもなるし、かと言って具合の悪い人に無理やり喋らせるのもどうかと思うわけ」
すごく早口で、半分笑うようでいながら、その言葉の真摯さはとても疑えるようなものではなかった。言い終わるなり彼女の顔はくちゃりとして、手で頬を伝う涙をぬぐわなければいけなくなった。涙にふれた手は少し濡れて、僕の頬を両側から包み込んだ。
「私、もっとストレートに伝えれば良かったと思う…でも小沢って、そのへん良くわからなくて、意識してもらおうと思ったらこんな風になっちゃって、ごめんね…」
僕は、その言葉の素直さが素敵だと思った。泣くのはちょっと卑怯だと思ったけれど、涙を流す瞳もきれいで、悔しいけれど、この感情を規定しないわけにはいかなくなった。
そっと片手を出して、亘理の手に重ねると、彼女は両手でそれを包み込んで、あごを僕の胸に乗せた。
「嬉しいよ…考えてくれたのが、すごい嬉しい…のぼせたって聞いて、怖かったけど、佐々木と伊藤が慰めてくれたし、小沢のこと話してくれたし、それで、もうどきどきするし、早く目をさましてって…さまさなかったら、私、死んじゃいそうって…」
僕は、亘理のつややかな黒い髪に手をのばす。指を通すと、ふわっと香りが広がって、鼻孔にくすぐったかった。
「亘理。僕は、やっぱり最初は何もわからなかった。絵が好きだから話しかけてきたのかなって」
まだ少し話しにくかったけれど、かすれ気味の声でやっというと、彼女はコクリと頷く。
「それで、色々考えた」
「答え、出た?」
僕は頷くと話を続ける。
「考えても、全然ダメだったんだ。考えることでもなかった。そうなってしまうものなんだ。感じる通りに言うしかないことだったんだ」
彼女は、僕を見つめて先をうながす。
「僕は君が好きになった。それで、好きな子がきれいな髪で、きれいな目をしているのが、とても嬉しい」
亘理の瞳から、涙は流れ続けていたけれど、それが今は違う意味を持っていることに気付いて、僕は笑いかける。彼女は泣き笑いで、力が抜けたみたいになって、良かったと繰り返しつぶやいて、最後には僕の首にしがみついた。
亘理の重さを心地よく感じながら、僕はこの新たな関係について考える。何もかもが変わる気がして、でもそんなには変わらない気もして、ただ素敵な宝物を見つけた気がした。
そうやって、僕の初恋は始まると同時に成就した。幸せな始まりだと思う。
恋にあたる 少覚ハジメ @shokaku
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます