第35話 忘却、其の参
────ドンッ
『何だか想くんといると、離れがたくなっちゃうな』
中学一年生の時の夏祭り、やっぱり夏夢はこいつと会っていた。自分が背中を押して送り出してしまったのだけれど、実際にそれを事実として目にするのはなかなかに辛いものだった。
『さようなら』
夏夢が倒れていた理由を知り、彼方は絶句した。
『汝、我が命に従いその力を呼び起こせ』
さっきまでこいつが操っていた白い靄を、記憶の中の想は夏夢に向けて使っていた。
『この者の我が記憶のみを消したまえ』
こんな幼い頃にはもう、妖と人との恋愛は許されないものであると諦めようとする様子は、恋敵でありながら見ていると胸が苦しくなった。
倒れていた夏夢を自分自身が見つけるのを彼方は見守る。
白い生き物を見た気がしたのも、去っていく妖狐の姿の想を見たからなのだと初めて知る。
ここは消す必要はなかったなと、隣で見ていた想は踵を返した。
次に辿った記憶では、自分たちはもう高校生になっていた。きっとこの間に想は何らかの方法で人間になったのだろう。
『どうしてわたしの名前知ってるの?』
入学式にまた初めから出会い直した夏夢と想。
けれど想は全てを知っていて、夏夢は何も覚えていない悲しい春。
今と変わらない姿をした記憶の中の想は、これまで会いに行った想とは違って、俺たちを見るなり自分のなすべきことを理解したとでもいうように、白い靄を放った。
二人で遊びに出かけた日の記憶にも訪れた。
『想くん』
『ん?』
『…って、前にも呼んだ気がするんだ。そんなはず、ないのにね』
公園で話す二人。ただ傍にいられるだけで幸せだという気持ちが、記憶であるはずなのに何故か記憶には存在しない俺にまで伝わってきた。
『雨かな』
『これは…夕立だね。すぐに止むよ』
降り出した雨に手のひらでひさしを作る彼方を見て、想は記憶の中の時間を止める。
雨粒が中空に浮かんだまま地面に着地することのない不思議な景色の中、これまでと同じ願いを聞き届けてもらうために、想はこちらを見つめる自分自身の元へ踏み出す。
川の浅瀬に足を踏み入れる二人のことも、遠くから見守った。
『わたし何か想くんのことで忘れていることがあるの?』
問いかける夏夢の動きが止まる。異変を感じた記憶の中の想が振り返った。
これまでの経緯を話すと、何も言わずに夏夢に術をかけた。
白い靄は、彼女を取り巻く赤い靄を包み込むと蝉時雨の中へと消えていった。
川の水面にぽつりぽつりと何か小さなものが落ちる音が聞こえた。
雨は降っていない。
次に辿った記憶は、彼方もよく知る高校の教室の中。
『今度の夏祭り、想くんと一緒に行きたいなって思って。…どうかな』
『いいよ。それに…』
今年の夏祭りを二人で行くことになったのは、夏夢からこいつを誘ったからだったのか。
『今僕ずっと、どうやって夏夢ちゃんを夏祭りに誘おうか考えていたところなんだ』
(夏夢から一緒に行こうだなんて、俺は一度も言われたこと…なかったな)
残りの記憶を辿るのは早かった。
記憶の中で出会う想は、二人を見るとみんな全てを理解したような顔で微苦笑し、記憶でない想からの頼みを快く受け入れてくれたから。
赤い靄も消え、白い靄だけが漂っている。
「おしまい。これでもう夏夢ちゃんは大丈夫」
記憶から戻ってくると、次に足が着いたのは今の境内だった。そこには意識を失ったままの夏夢が横になっている。
想はたった今自分たちが辿っていた記憶から抜け出すと、中空に浮いたそれを両手の中に納まる大きさまで小さくして、そのまま夏夢の後頭部に触れる。
白い靄は彼女の周りをぐるりと回ると、吸い込まれるように納まるべき器に自分から戻って行った。
「そのうち目が覚めるから、傍にいてあげて。あの時みたいに」
そう言い残して去ろうとする想に、彼方は思わず声をかけた。
「想」
「…?」
想は一つだけ彼方に話していないことがあった。けれど彼方も馬鹿じゃない。過去を辿って想の話を聞いていた者として、問わずにはいられないことがあった。
「お前はどうなるんだよ」
人間でいるためには夏夢に自分のことを自力で思い出してもらわなければならないと想は言っていた。
けれどもう夏夢には、思い出す想の記憶はない。そうなってしまった今、彼はどうなってしまうのだろう。
「…生き地獄ってところかな。それに姿を消す僕はもう君の人生にも関係がなくなる。妖に下手に干渉しない方が身のためだよ」
去り際、想は肩越しに彼方を振り返る。
「…心配してくれて、ありがとう。だけど君が心配するのは夏夢ちゃんだけでいい」
引き止めようと伸ばした手は虚空を掴み、想は人の姿のままどこかへと消えて行ってしまう。
その輪郭は記憶の中で見た風景のように、段々と曖昧になっている気がした。
〇─〇─〇
目を覚ましたらしい夏夢ちゃんと、彼女の手を取って鳥居へと向かう彼方君を陰からこっそり見送る。
二人が石階段を降りていく音に、今はどこかほっとしている。
不意に陰陽師寺と竹林の方から気配がして振り向くと見知った姿が現れて、その嬉しさに泣きそうになる。
「どうして…」
「術者である僕にはわかるんだよ。…だめだったんだね」
「うん」
小さく答えた想は、かをるから滝へと視線を巡らした。
「もう一生会えないと思ってた。でも滝にぃ、どうして?。今は僕人なんだ、会ったりなんかしたら…」
「それでも構わないさ。話せるお前に会えるのは、これが最後だから」
新緑を映し出した滝にぃの緑色の目は、少しだけ赤くなっていた。
滝にぃにしきたりを破らせてしまったことを申し訳なく思いながらも、最後に会いに来てくれたことが嬉しくてたまらない。
「よく頑張ったな、想」
再び涙を滲ませた滝にぃは、まだ存在を保てている僕がいることを確かめるように強く抱き締めてくれた。
だけど僕の体に輪郭はなくなっていて、幽霊のように半透明になっていた。
「想」
かをる君に呼び止められて、滝にぃの腕の中で彼の方を向いた。
「後悔はないね」
こぼれた涙を拭う。
「うん」
嘘はなかった。
好きな人と恋をして、ひと時の間だけは人として夏夢ちゃんと対等でいられた気がした。
例え結末が死よりも辛いことだったとしても、彼女の笑顔に変えられるものはない。
「滝にぃ、こんな僕を今まで大切に育ててくれてありがとう。かをる君、僕を人間にしてくれてありがとう」
別れを告げると時間だと言わんばかりに鈴の音がした。
今は背の低く感じる鳥居の横に聳える桜の木。その反対側には何も植わっておらず、そこから鈴の音が「こっちへおいで」と僕を呼んでいる気がした。
音のする場所に立つと、人にしてもらった時とは異なる術を唱える声が聞こえた。その声はかをる君のものでも滝にぃのものでもない、自分のものでもない。
この世界の理の声だった。
妖狐の姿に戻ることはなく、足先が土の奥深くへと伸びていく感覚に襲われる。
痛みはない。
ただ、なぜ自分からこうなることを望んだのか、理の嗄れた老婆のような声に尋ねられた。
鳥居に背に近づいた僕はもう、自由に身動きも取れず、当然声を出すことも出来なくなっていた。けれど残った心で答える。
(夏夢ちゃんが好きだから)
強く吹いた秋風に目を閉じた滝とかをるが次に目を開いた時には、想はもうどこにもいなかった。
石造りの立派な鳥居の左右には、立派な桜の木が聳え立っていた。
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