第28話 思い出せないのは

川のせせらぎに耳を傾ける想くんを、わたしはじっと見つめていた。髪を耳にかける彼の何気ない仕草は、わたしをうっとりとさせる。

制服のズボンが濡れないように裾をまくり上げて、想くんは浅瀬を歩いて行く。



「冷たくて気持ちいい。夏夢ちゃんもおいでよ」



言われるまま、彼に倣って靴と靴下を水に濡れないごつごつとした岩の上にのせて、ひんやりと心地いい川で裸足の足先を濡らした。



「滑らないように気をつけて」



想くんの差し伸べてくれた手を取る。

前にも感じた、この暖かい想い。想くんと一緒にいると胸が苦しくなって、でも何かが満たされていくような気持ちでいっぱいになる。ずっと傍にいたいと自然に願ってしまうなにかがそこにはあった。

夕立の日も、両親が帰ってくるギリギリまの時間まで一緒にいてくれた。

わたしがいつも家でひとりなこと、まるで知ってるみたいに。何も言わずにただ隣にいてくれる、それだけで嬉しかった。

(嗚呼、わたしこの人のこと凄く好きだな)

不意にまたあの激しい頭痛に襲われる。脳裏に誰かと話している自分の姿が過ぎる。

あれは、わたしと…誰だろう?



「ゃん…夏夢ちゃん。大丈夫?」



心配そうに顔を覗いてくる想くん。想くんといる時にだけこの頭痛はやってくる。

それならわたしは、彼の何かを忘れているのかな。



「うん…ちょっとね」


「前にも頭痛そうにしていたことがあったよね。無理してない?」


「わたしね、何か忘れてる気がするの。ううん、絶対忘れてる。それはわたしにとって大事な人、大切な時間のことで…想くんに関係することだと思う。だけど思い出そうとする度に、こうやって頭が痛くなるの」


「…そっか」



悲しげに目を逸らす想くんの横顔を、気づかれないようにそっと盗み見る。

きっと彼は何かを知ってるんだ。でも、頑なにそれを話してはくれない。

隠そうとする理由はなんだろう、それも…わたしが忘れているせいなのかな。

蝉の声が川の水面にこだまするように、二人が歩いた軌跡に波紋が広がる。

太陽の光が夏の青々とした木の葉に当たって出来た木漏れ日が、川の織りなす不規則な揺らめきに反射して煌めいた。



「想くんは」


「うん」


「時々…ううん、いつもどこか悲しそうな顔をするよね」


「そうかな」


「笑ってたってわかるよ?」



本当に楽しそうに笑ってることもある。でもそうじゃない時、いつも無理して笑ってる。



「悲しいって気持ちは表に出やすいのかもしれないね。ほら、見て」


「っ…」



水面に想くんの浮かない顔と、それから不安の滲んだわたしの顔も映る。

そんな自分たちを見て想は指先で水面に触れ、二つの顔を曖昧にぼやかす。



「わたし何か想くんのことで忘れてることがあるの…?」



彼の瞳が戸惑うように揺れる。だけどそれは一瞬で、瞬きの間にいつもの優しさと儚さをたたえた銀色の瞳に戻っていた。



「…ゆっくり」



小さく開かれた口から戸惑いがちに、吐息と変わらないほどの小さな声がこぼれた。



「ゆっくりでいいから」



言葉は有耶無耶にされてしまったけれど、想くんの目は何かを訴えるような意志を持っていた。

それで確信する。

(きっと…じゃない、わたしは想くんのことを忘れてる。思い出したいな)




川で過ごしているうちに日が暮れ始めた。

濡れた足を靴下で拭い、丸めた靴下を靴の中へしまってそれを片手に持ち帰路を辿る。



「たまにはこうやって裸足で歩くのもいいね」


「日が沈めばコンクリートも熱くないしね」



柔らかな声音で微笑わらいかける想の右手を、夏夢はそっと取って握る。

その手を想も愛おしそうに握り返した。



「僕、このままでも幸せだよ」



小さく呟いた想くん。その目はどこか幸せを置いてけぼりにして、どこか遠くに思いを馳せているようにも見えた。



「あれ、夏夢ちゃんの友達じゃない?」



彼の指さした先に視線をやると、友君がココアちゃんとドラマの撮影をしていた。

休憩中なのか撮影が終わったところなのか、わたしたちに気がついた友君が大きく手を振ってくれる。



「夏夢〜」



手招きされるも、まだ想くんと離れたくない。

けれど繋いでいた手がそっと解かれてしまう。



「ここでばいばいだね」



まだ別れたくなくて、頷くことができない。

恋はわたしをほんの少しわがままにする。

不服そうな夏夢に顔を寄せた想は、彼女を優しく優しく抱き寄せてその耳元に囁いた。



「望めば毎日だって会えるから。…昔とは違う」



その言葉に疑問を残したまま、踵を返す想と反対側へ夏夢は歩みを進めた。




〇─〇─〇




今日の撮影はこれでおしまい。監督の撤収の言葉で、ドラマのスタッフたちが現場の後片付けを始める。

そんな彼らに挨拶をして、友は帰り支度を始めていた。



「あっちー」


「どうぞ」


「サンキュ、ココアちゃん」



気の利く彼女からスポーツドリンクの入ったペットボトルを受け取り、喉に流し込むように傾けた。

いい飲みっぷりだと苦笑する彼女にも、氷水で冷やされていた同じ物を「それ」と言って弧を描くように下から上へと投げ渡す。



「ナイスキャッチ」


「ありがとうございます。…あれ?」


「どうした?」


「あそこにいるの夏夢さんじゃないですか?」



振り返ると、確かに夏夢がいた。隣には確か夏夢と同じクラスだっていう───



「夏夢さん、恋人がいるんですね」


「はあぁぁ?」



背後に向けていた首をココアの方へ戻す友。ありえないといった表情で、飲み終えて空になったペットボトルをひねった。



「ないない。だって夏夢には彼方がいるし」



顔の前でひらひらと手を振ってみせると、呆れたようにため息を吐かれた。



「ほんと鈍感なんですね。このこと、彼方さんには言わないであげた方がいいかと」


「?、そうだね?」


「撮影が忙しくてあまり彼女とも話せていないんですよね?。今からでも少しお話したらどうですか」



彼方のために少しだけ夏夢と彼が一緒にいる時間を減らそうと気を利かせたココア。

そんなことも知らずに友は、「いい考えだね!」と遠くにいる夏夢の名前を大声で呼んだ。



「じゃあ私はこれで」



お疲れ様です、と言ってココアちゃんはマネージャーの車へと向かった。けれど途中一度だけ振り返って、俺の渡したペットボトルを顔の横に掲げてみせると小さく笑った。



「やっぱ超絵になる可愛さだよなぁーココアちゃんは。俺もかっこよく見えるように仕草から勉強した方がいいのか…?」



少しでも長く想と一緒にいたいと願う夏夢の気持ちにも、自分によくしてくれた彼方のために少しだけ夏夢と想の間を邪魔しようと企んだココアの気持ちにも気がつかず、鈍感男である友はただただ楽しそうなのであった。

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