第25話 昔の話
ある日の放課後、想はコンビニであいすを買ってその足で神社を訪れていた。
本堂前の石階段に腰掛け、袋から取り出した棒あいすを口にくわえる。
今の想は人間となっても、夏夢の記憶の中には存在しない。それどころか、人間になったのにどこか抜け殻のような気分になるのだった。
(誰からも認められない妖狐になってしまったけれど、名前をくれた夏夢ちゃんの瞳に映っていたあの頃の僕はもうどこにもいないのかな…)
空を仰ぐ。
眩しい陽の光が、ぼんやりとした僕をはっとさせた。
夏夢ちゃんの僕に関する記憶を消したのも、一度は彼女への想いを諦めたのも、諦めきれずに人となったのも、全ては夏夢ちゃんの傍にいるために僕自身が選んだこと。
後悔はしていない。夏夢ちゃんの記憶がなかなか戻らないからと言って、弱音を吐いたらだめだ。
ミンミンゼミが煩く鳴いている。もうすっかり夏だ。
気分転換がてら陰陽師寺の押し入れから、夏になると着ていた浴衣を引っ張り出してきて、その場で一度袖を通してみた。
丈も袖も短くなっていて、これではとても着られそうにない。
「新調しなきゃだめかぁ」
この前夏夢ちゃんの家にお邪魔した時に通った道。坂を登る前に、確か呉服屋さんがあったはずだ。
思い立ったが吉日と、記憶を頼りに足を運んでみる。
まだ店は閉まっておらず、覗いてみても夏夢ちゃんの友達はいないようだったので、これは好都合だとのれんをくぐって入店する。
「あの、ごめんください」
「はあい、なにかお探しでしょうか」
声をかければ、お年を召したご婦人が美しい着物姿で店の奥から現れた。
これと似たもので今の自分が着ることの出来る大きさのものが欲しいのだと、着れなくなってしまった花火柄の浴衣を見せる。
すると、初老の女性は皺の刻まれた口の端を上げ、全てお見通しだとでも言うような目で想を見据えた。
「お前は妖狐だね」
「えっ…」
思わず自分の身なりを確認してしまう。今は人である自分に、耳や尻尾はない。それなのにどうしてと疑念がよぎる。
「滝の弟だろう?」
滝の弟、という響きに少し照れくささを感じながらも小さく頷く。
この人からは妖をどうにかしてやろうという悪意や、妖に対する畏怖の念や敵意を感じられなかったからだ。
「どうして貴女がそれをご存知なのでしょう」
尋ねると、彼女は想から受け取った浴衣を優しく撫でながら、懐かしそうに過去の思い出に目を細めた。
「初めて滝がここへ来たのは、喪服の着物を買いに来た時だった。化けてはいたが妖狐だってことくらい私の年齢になれば不思議とわかるものでね」
相手が妖だとわかっていて大切な商品を売るものだろうかと不思議に思っていると、その疑問を察したのか浴衣から顔を上げて続けた。
「昔…この店を懇意にしてくれていた名家のお嬢さんがいてね。ある時から滝に会うから可愛いらしい着物が欲しいんだとよくここで話してくれたよ」
彼女は店を見回して悲しげにため息をついた。
「家の事情で不自由な人生を送っていることはなんとなく察しがついてたけど、許嫁と会うようになった頃あたりから笑顔が増えたのさ。だから私はてっきりその許嫁の名前が滝なんだと思い込んでたんだ。けどそれは間違いでね」
若くして亡くなったお嬢さんの葬式が行われる前に、滝と名乗って尋ねてきた者は許嫁であるどころか妖だった。
その妖狐は陰陽師であるお嬢さんの許嫁と共に来店して、彼女には二人が友人に見えたそう。
それにその妖狐はお嬢さんが亡くなったことをひどく悲しんでいて、とても金をだまくらかして商品を盗んでいく悪い妖のようには見えなかった。だから妖狐相手でも、客として商品を売ったのだと話してくれた。
滝にぃは自分の話をあまりしてくれないから、彼にそんな過去があったことを初めて知った。
「滝が次に店に来たのは自分とあんたの浴衣を買った時だよ。この浴衣はあの時滝に売ったものだね」
少しだけ本来の笑顔を取り戻し初めていた滝は、弟のために自分のものよりも小さな浴衣を頼んできた。
「そうだったんですね…」
完全に人になった想を彼女が妖狐だと推測できたのは、想が今日まで大切にしてきたこの浴衣が目の前に現れたから。
同じものをひとつとして扱っていないこの呉服屋であったからこその偶然だった。
自分の知らないところで、弟だと言ってもらえていたことが嬉しかった。血の繋がらないことを気にしていたけれど、滝にぃは本当の弟のように思ってくれていた。
嬉しさが込み上げる反面、そんなにも自分を大切に思ってくれていた彼の気持ちを踏みにじってしまったことに罪責の念が押し寄せる。
人間となった今、妖狐の滝にぃにはしきたり上迷惑をかけてしまうから会えない。これまでの感謝をすることも謝罪をすることも、もう叶わない。
不意に婦人は浴衣を持ったまま店の奥へと向かった。振り返った彼女は、僕がついてきていないことに不満気な表情を見せる。
「あの、どこへ…?」
「思い出の品なんだろう?」
「はい」
「なら新調なんてするもんじゃないよ。今のお前でも着られるように直してあげるからね」
おいでおいでと手招きされ、襖を開けた先の和室へと通される。
限りなく似た色の花火柄の生地を、目立たないように継ぎ足し縫いつける。
そんな手直しの作業の間、静かに器用に動かされる手元を見守った。
まさかまだ着られるとは思ってもみなかったので、完成を待ちながらどこか温かな気持ちになる。
「出来た。着てごらんなさいな」
着終えて勧められた全身鏡に自分の姿を映すと、丈も袖もぴったりで布のつなぎ目もほとんどわからなかった。
「ありがとうございます。あの、お金は…」
お金はかをる君の手伝いをしてもらっていた。あまり手をつけずにずっと貯めていたものをがま口から取り出そうとするけれど、やんわりと断られてしまった。
「こんなになるまで大切に着てくれてたんだ。この程度のお直しくらいでお代は取らないよ」
彼女はいつの間にか二人分のお茶を用意していた。
妖狐だった時の名残で夏夢の友人に会うことを未だに躊躇う想は、蒼が帰ってくるのを恐れた。
「しばらく家の人間みーんな留守でね。暇を持て余した年寄りに少しくらい付き合っておくれ」
そういうことならと、想は和室で彼女とお茶を啜った。
「あいつは元気かい」
滝のことを聞かれているのだとわかると、それまでよかった歯切れが急に悪くなってしまう。
「はい、たぶん…」
「はっきりしない物言いはおよし。その口ぶりだとしばらく会っていないのかい?」
「実は──」
自分が陰陽師であるかをる君の術で人間にしてもらったこと、人間になった自分は妖狐である滝とは会えないことを掻い摘んで話した。
「そうかい、かをるがね…」
呟いた言葉が聞き取れなかった想は、代わりにどうしても人間にならなければならない事情があったと語気を強めて語った。
「なんだい、好きな子といるためかい?」
度肝を抜かれたようで、湯のみを持つ手から腕、背中にかけてぞわりと鳥肌が立つ。
「やっぱり…滝も同じだった」
「滝にぃが?」
「お前との違いは、あいつは最後に身を引いたってことだ。そのせいでお嬢さんは悲しみのあまり死んじまったから、何が正しいのか正直わからないけどね」
身の程をわきまえずに理に背いてまで人間になった自分が、滝にぃにはどう見えていたのだろう。
話を聞けば聞くほど複雑な気持ちになる。
「あいつの頭で悩んで決めたことさ。迎えた結末がどうであれ、受け止めるしかないんだよ。けどね、初めてここへ来た時の滝は後悔だらけの顔をしてた。だからお前さんは後悔しないようにするんだよ」
涙ぐんだのを隠すように立ち上がった彼女は一旦席を外して、羊羹ののった皿を手に戻ってきた。
羊羹を口へ運びながら、ここへ来てよかったと心の中で呟いた。大好きな滝にぃの過去、そして自分がこれまで彼にどんな風に思ってもらえていたのかを知ることができた。
「羊羹うまいかい?」
「はい、とっても」
笑顔を返すと、彼女も控えめに
「食べ方もきれいで…きっとあいつの育て方がちゃんとしていたんだね」
「自慢の兄です」
今まで烏滸がましいと思って言えなかった言葉を、人間となった今言えることが皮肉に思えた。
「そう言えばお前さん、名前はなんて言うんだい?」
名を聞かれても、今は名乗れる名前がちゃんとある。夏夢ちゃんからもらった、特別で素敵な名前が。
「想です」
〇─〇─〇
「おばあちゃん、たっだいまー」
想が店を出てしばらくすると、騒がしい物音と共に孫が帰ってきた。
「ただいま帰りましたでしょうが。おかえりなさい」
「いいじゃん別に。無言で帰ってきたわけじゃないんだから」
「そういう問題じゃないだろう?…まあいい。疲れたでしょう、お風呂にするかい?」
「うん、ありがとおばあちゃん」
お皿と湯のみを下げようと身をかがめると、脱衣所へ向かったはずの蒼が戻ってきてわざわざ声をかけてきた。
「誰か来てたの?」
「変わった客人がね」
どうも私は妖狐と
滝、そして想。彼ら以外にあともう一匹。
もしまた想が尋ねてくることがあったら話してやろう。若い頃、諦めた初恋の相手である妖狐の話を。
そして忠告もしてやらねばならない。どうあがいても、人と妖が結ばれることは許されないのだと。
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