第20話 嬉しい出来事

こくんこくんと船を漕ぐ夏夢の後ろ姿を、微笑みながら見つめる。

校長先生の長い挨拶は人間たちにとって退屈なもののようで、小さな話し声や夏夢ちゃんのように眠たそうにしている生徒がほとんどだった。けれど僕にとってはそれも新鮮で、校長先生から延々と語られる長話も興味深く聞きいっていた。

話を聞いていない生徒を叱ろうと巡回していた先生の一人が夏夢ちゃんに目をとめたことに気がつき、目の前に座る彼女の華奢な肩を揺する。



「夏夢ちゃん、起きて。怒られちゃうよ」



はっとしたように顔を上げた彼女は、すぐさま僕の意図に気がつくと居住まいを正した。

まるで最初からちゃんと聞いていたと言わんばかりの振る舞いに、思わず笑いが込み上げる。

間一髪のところで居眠りしていたことは見逃してくれたようだ。彼女は安堵したように胸をなでおろし、振り返って小声で礼を言ちってくれる。



「教えてくれてありがとう」


「どういたしまして」



彼女とこうしてまた話せるなんて、夢にも思っていなかった。

(嬉しいな…)

正面を向こうとした夏夢はふと動きを止めて、もう一度想を振り返る。



「どうしてわたしの名前知ってるの?」



覚えていないことはわかっていたはずだ。なのに、やっぱりその事実を目の当たりにすると寂しさが込み上げた。

想は答えを曖昧にして微笑むことしか出来なかった。

夏夢には想が消した想に関する記憶を自力で取り戻してもらう必要がある。自分からは何も言えないのだ。



〇─〇─〇



入学式を終えて、紹介された自身のクラス担任に連れられて順に体育館を出ていく。

夏夢はどうしてもさっき話した後ろの席の生徒のことが気になってしまい、人で溢れかえっている体育館で背伸びをして特徴的な白髪を探した。

(なんでだろう、初めて会う人には思えなかった)

柔らかな白髪が視界に飛び込んでくる。大急ぎでその人物に走って追いつくと、息が上がっていた。

どうしてここまで必死になるのか、夏夢自身よくわからなかった。



「あっ、あの」


「ん?、どうしたの、夏夢ちゃん」



(わたし、絶対この人を知っている)

夏夢の中に、そんな確信めいたものがあった。けれど思い出そうとする度に、砂のお城が崩れるような感覚で記憶が形を失くしていった。

話しかけておきながらかける言葉をみつけられずにいると、彼の方から話しかけてくれた。



「同じクラスだよね。迷っちゃったみたいで困ってるんだけど、よければ一緒に教室まで行ってくれないかな」



その言葉に大きく頷く。

背が頭ひとつ分大きい彼の横に並ぶと、ふとひとつの名前が浮かんだ。



「想、くん?」



物腰柔らかだった彼が、驚いたように瞠目した。



「あの、違ったらごめんね。あなたの名前は想くん?」



先程の表情とは一変、柔らかな笑みを取り戻した彼は頬を紅潮させながら頷いた。



「うん。僕の名前は想だよ」



真正面に回った彼に、ゆっくりと両手を握られる。

恥ずかしさで自分の手に熱が帯びるのを感じながら、銀色の美しい瞳を見つめ返す。



「ゆっくりでいいから…僕のこと、思い出して」



目尻を下げて笑う想くんはとても嬉しそうだった。

曖昧な記憶の中で、この切なげな印象を伴った笑顔を幾度となく見たような、そんな気がした。



教室ではホームルームが行われた。まだお互いに名前も顔も知らないクラスメイトとの交流を目的とした自己紹介が行われた。

同じ中学から上がった子が半分、初めて見る子が半分といった感じで、自己紹介は緊張してごく簡単な短いものになってしまう。

時間割や保護者に向けたお便りなどが一通り配られると、早速一時間目の授業もとい学校案内が始まった。

まだどの教室がどこにあるのかわからない新入生のために、担任が学校案内をして回ってくれるようだ。

二人一組で一列に並んで回るよう指示を受けたので、わたしは想君と並んだ。

校内を移動する最中、高校の景観を何気なく見回していると、想君に声をかけられた。



「今度の木曜日、予定空いてるかな」


「うん、その日は何もないよ」



それを聞くと彼は嬉しそうに相好を崩した。



「なら一緒に遊びに行こう?」



なんだか胸が踊る。この感覚を、前にもどこかで感じたことがあるような気がする。何より、この人といるとすごく胸が締め付けられる。

そう、それはまるで恋のように。



〇─〇─〇



帰りの支度をしていると、教室の入口から聞きなれた呼び声がした。振り向くと同時に体重をかけるように抱きしめられ、潰れそうになる。



「なーつめっ。帰ろうぜ」


「蒼ちゃん」



後から入ってきた彼方は、既にわたしのクラスでもその名が有名になっていて、女子生徒の憧れの視線を一身に浴びていた。

一方でそんな彼女たちから痛い視線を受けるわたしと蒼ちゃん。

高校から一緒になった子たちは、わたしたちが幼馴染だってことを知らないから、こういう反応になるのはわからなくはなかった。

友君もそうだったけれど、彼方は結構かっこいい。子どもの頃から一緒だとあまり感じないけれど、よくよく気にしてみれば女子の間で人気が出るのも、憧れの的になるのも頷ける。



「なあなあいいニュース!。ビッグニュースっ!」



語尾を弾ませる蒼ちゃんは、どうやらとびきりの話題を得たらしい。こんな彼女を見るのは久しぶりで、つい笑みがこぼれる。



「いいニュースって?」



下駄箱へ向かいながら尋ねると、間髪入れずに「友が戻って来るんだよ!」と蒼ちゃんは破顔した。



「これ」



渡されたプリントにはこう書かれていた。



『お知らせ


恋愛小説『神社の前では素直になれたら』原作のドラマ撮影に我が校が協力することとなりました。

つきましては、皆様のご理解とご協力のほど宜しくお願い致します。 』



ドラマの撮影が入ることは珍しいし驚いたけれど、これがどう友君と関係しているのかイマイチピンとこない。

首を傾げていると、蒼ちゃんは続けて携帯の画面を見せてくれた。



「このドラマの主人公に抜擢されたんだって!。友がっ!」



流石に声を上げて驚いてしまうと、周囲の視線がいっきに集まって慌てて口に手を当てる。



「モデルだったんじゃ?」


「モデルの仕事してたらオファーが来たらしい。夏夢このメール見てないの?」


「授業中だったから…」


「真面目な夏夢はお前と違って授業中に携帯見ねえんだよ」


「別に不真面目でもいいもん。そのおかげで友からのメール最初に見れたし」



喜びを隠せない様子の蒼ちゃんもさることながら、ツッコミを入れた彼方の口元も緩んでいた。



「いつ戻って来られるって?」


「撮影自体は夏らしいから、そのちょい手前くらいじゃない?」


「頑張るあいつへのご褒美として、撮影場所が地元だって知った事務所が長い休暇をくれたんだってさ」



帰り道、久しぶりに戻って来る親友の話で持ち切りだった。呉服屋の前についても、しばらく立ち話してしまうくらいに。

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