第16話 別れの時

金魚掬いの屋台で足を止めた夏夢ちゃんは、一緒にと僕を誘った。

苦戦しながらも笑顔を絶やさずにぽいで金魚を掬う彼女の横顔を、目に焼きつけるように静かに眺めた。

純粋な赤い和金と、黒赤白の斑模様の朱文金の二匹の入った袋を、彼女は嬉しそうに顔の高さまで持ち上げて中を覗いた。



「大切にするね」



金魚に向かって囁く彼女は頭上に連なる橙色の提灯に照らされていて、そのきれいな姿に恍惚としてしまう。

手を差し出すと、当たり前のようにとってくれる。そんな些細なことが嬉しくてたまらなかった。


こんな時間がいつまでも続いてほしかったな。




〇─〇─〇




蒼が不思議そうに辺りをきょろきょろと見回している。



「あれ、夏夢は?」


「ほんとだ、迷子か?。探さないと…」



友が今にも駆け出していきそうだったので、仕方なく誤魔化しておく。



「なんか家の用事って帰ったぞ」


「お父さんとお母さん今日は早く帰って来れたのかね?」


「さあ、でもそうなら放っておいてやろうぜ。ゆっくり会話する時間、普段はあんまないんだし」


「そうだね」



夜に上がる夕闇の花火を見ようと蒼はよく見える場所まで移動を始めた。その後ろについて歩く友は、蒼の背中を見つめている。

まだ夢のこと、あいつには話せてないのか。

ならこいつらも二人きりにしてやるか。



「なあ蒼、お前らは二人で花火行って」


「何で?」


「友がお前に話あるからついてくんなってさ」



はっと顔をあげた友に目配せすると、それで覚悟を決めたのか蒼の手をとった。



「行こう、蒼」


「え、ああ…うん」



去って行く二人の背中からは全く別の緊張感が伝わってきた。

一人では何もすることがなく、帰ろうかと入口の方へ引き返して行くと、ふと射的の屋台に目が止まる。

景品の中には、夏夢が狙っていた可愛らしいくまのぬいぐるみがまだ残っていた。




〇─〇─〇




蒼と二人きりになることはあまりない。なるとすれば、彼方と夏夢が先に帰宅した時に一緒になるくらいで。

二人になると急に意識してしまうから、言葉少なになってしまう。話したいことも、話さなければいけないことも沢山あるのに。



「蒼」


「なによ、そんな怖い顔して」



花火が上がる前に打ち明けてしまおう。



「来年の春、俺東京に行くんだ」



いつもがははと笑う蒼の笑顔はなく、見たこともないような凍りついた表情になる。



「あ、あたしそういう冗談は笑えないタイプっていうかー…」



口角を引きつらせて、無理に笑わせてしまっている。こうなることがわかってたから、蒼にはなかなか言い出せなかったんだ。

このことを聞いて一番悲しむのは、きっと人一倍友達思いの蒼だから。



「…ごめん。冗談だって言ってやれなくて」


「っ…」



声にはならない声を上げて、必死に目に浮かぶ涙を流さないよう堪えている。その姿を見るのは、辛かった。



「何で東京?。地元が嫌いになった?。それとも親の仕事の都合で引越しとか…」


「モデルになりたいんだ」



地元で「爽やかな友君がイメージにピッタリなのよっ!」とラムネ屋のおばちゃんに言われたのはいつだったか。

お小遣いほしさに言われるまま協力して、地元から都心に出るための高速道路近くにある看板にラムネの広告が張り出された。

写真の中の俺はラムネの売り文句の文字の横で、ただこちらに向かって歩いてきてるだけ。入道雲の浮かぶ夏空の下を、錆びかけの自転車を引いている本当にそれだけの写真だった。

だけど、ラムネ屋への購入依頼と同時に、あの看板に映る少年は誰かという東京のモデル事務所からの問い合わせがあったらしい。

東京からやって来たモデル事務所の人たちに話を聞かされ、モデルという仕事に興味が湧いた。

これと言ってやりたいこともないたいものもなかった俺に、その日から叶えたい夢が出来た。

ラムネ屋のおばちゃんにはそのことを黙っててもらって、家族と相談して東京でモデル活動に挑戦することにした。

心残りは、地元を離れることでみんなと会えなくなること。

小さい頃からずっと想いを伝えられずにいる蒼と、一緒にいられなくなってしまうこと。



「…夏夢とか彼方には?」


「もう話したよ」


「なんで…なんでもっと早く言ってくれなかったの?」


「蒼だから、言えなかったんだよ」


「…何それ」



この期に及んでもまだ気持ちを伝えられない己の不甲斐なさに打ちひしがれていると、蒼はゆらゆらと近づいて来て、そのまま肩に顔をうずめた。

その肩は僅かに震えている。



「あたしがいいって言うまでここ貸せ。…あんまり見るなよ」



温かく湿っていく左肩。声を殺して泣く蒼に、申し訳なさが増していく。

多忙になるであろう仕事で、いつ地元に戻って来られるかは名言できない。

そんなことを追い打ちをかけるように言うのは憚られて、言うか言うまいか迷っていると、聴き逃してしまいそうな小さな声で「頑張れよ」と応援され、泣き虫な俺の涙も頬を伝った。

そんな二人の泣き声は、たった今上がり始めた夕闇の花火の音で聞こえない。




〇─〇─〇




本堂に近づけば近づくほど屋台や赤い灯りも減っていき、どんどん人気がなくなっていく。

想と夏夢が歩く石畳の端に寄り添うようにして生えている朝顔も、もう青白い花を閉じて眠りについていた。



「怖がらなくていいんだよ」



不意に足を止めた想は、朝顔に向かって屈みながら手を伸ばす。そんな彼を夏夢は鈴を転がしたような声で微笑わらった。



「怖がってるわけじゃないんだよ、想くん。朝顔は夜になると花を閉じるお花なの」


「そうだったんだ。ずっと暗い夜に怯えているんだと思ってた」



感心したように屈めていた腰を元に戻す想を、夏夢は愛おしげにみつめた。



「そんな風にお花を見てる優しい想くんのこと、わたし大好きだよ」



はにかむようにして告げられた思いは、想を狂わせてしまいそうなほどに純粋でまっすぐなものだった。

人々の喧騒から抜け出した空間は、まるで二人だけのもののようにさえ思えた。

出会った時のように本堂の裏の壁に背を預ける。花火がとてもよく見える、誰も知らない二人だけの秘密の場所。



「もうすぐ終わっちゃうね、今年の夏祭り」



花火が上がるのを待っていると、夏夢ちゃんが寂しそうに口にした。



「時間を…止められたらいいのに」



鈴虫の声がぼくの背中をそっと押すように、少しだけ力強く音を奏でた気がした。

今日はある覚悟の元、彼女に会いに来たのだから。



「夏夢ちゃん」


「ん?」



首を傾げる彼女の寂しげな瞳から、目を離せなくなる。



「僕は…」



僕は君のことが大好き。

だけど、それを言うにはあまりに残酷な運命が僕らの間には横たわっている。

彼女は人間で、僕は妖狐だから。

最後に抱きしめるくらいは赦してほしいと、夏夢ちゃんと向かい合った途端。彼女の方から抱きついてくれる。背中に回された手を愛おしく思いながら、僕も彼女を強く抱きしめ返す。

僕が人であったならば、この先の未来を望むことも赦されたんだろうな。





────ドンッ





あの時と同じはずなのに、今日はとても悲しげに散る大きな花火。



「なんだか想くんいると、離れたくなくなっちゃうな」



一瞬、決心が揺らぐ。

こんな思いをするくらいならいっそのこと、悪い妖のようにこのまま彼女をさらってどこかへ姿をくらましてしまおうか。

本当はずっとずっと彼女の隣にいたい。

優しく微笑んでくれる彼女の傍で、笑っていたい。

彼女をもっと独り占めしたい。

考え始めると、欲に際限はなかった。

それを断ち切るように、夏夢を自分の体からそっと離した。そして伸ばした手を彼女の後頭部に当てる。



「さよなら」



白い毛を持って生まれた力を持つ妖狐。僕に宿ったその力の効果は────



忘却



初めて使った時は無意識だったけれど、今ならどう力を扱えばいいのか考えなくても体が勝手に理解しているようだ。



「汝、我が命に従いその力を呼び起こせ」



淡い白い靄が夏夢と想を包んでいく。



「この者の我の記憶のみを消したまえ」



夏夢ちゃんの持つ自分の記憶を、ゆっくりと消していく。

彼女が僕と接っする中で抱いた気持ちの数々が、術越しにありありと伝わってきて、胸が苦しくなる。

夏夢ちゃんの目から伝った涙を拭うことも、今の僕には赦されないだろう。



意識を失ってだらりと脱力した夏夢ちゃんを誰かが見つけてくれるように、本堂の表から足だけが見えるように横たわらせた。

後ろ髪を引かれながらも彼女から離れて、妖狐の姿に戻って茂みに身を潜める。夏夢ちゃんがちゃんと見つけてもらえるまで、そこまではせめて見守りたい。


誰かが来た。

夏夢ちゃんを抱き抱えて、意識を取り戻した途端泣き出してしまった彼女の背をそっと撫でている。

(嗚呼、この人が夏夢ちゃんの傍にいて然るべき相手なんだろうな)

そう自分に強く言い聞かせ、淡い恋心を必死に殺そうとしたその時。一瞬彼と目があった気がした。

探されては困るので、茂みから竹林の方へ身を翻してその場を去った。





〇─〇─〇





花火も終わり、夏祭り自体がお開きに向け片付けを始めていた。花火の感想を口々に語りながら出口へと向かう人々の波。

くまのぬいぐるみを片手に、友は蒼にちゃんと話せただろうかなどと考えながらなんとなく人混みとは反対方向へ歩いていた。



「っ…」



本堂の裏から見えている足、それは夏夢の下駄を履いたものだった。

ぬいぐるみを放り出して駆け寄り、倒れていた夏夢を抱きかかえる。大きな声で呼びかけると、うっすらと目が開いた。

胸を撫で下ろしたのもつかの間、泣きながら訴えかけられる。



「わたし…」



目からこぼれ落ちる飴玉大の涙を、流れた傍から親指で拭ってやる。

何があったのか、どうしてこんなところで倒れていたのか、会っていた男はどうしていないのか。聞きたいことは山ほどあったけれど、今はただ彼女の背中をさすりながら「大丈夫だ」と言うだけにする。

ふと近くの茂みで音がして、目を向ける。白い体をした動物がいたような気がしたけれど、きっと屋台の匂いにつられてやってきた野生動物の類だろう。

夏夢をおぶって、くまのぬいぐるみの土を払って片手に持ち、そのまま人並みに沿って境内を出る。

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