第13話 曇天
久しぶりに早朝から目が冴えていた。
陰陽師である人間全てがそうというわけではないだろうが、かをるの一族は仕事をした分だけ睡眠で体力を回復させなければ直ぐに身体を壊してしまう家系だった。
だからかをるはよく眠る。
悪い妖も減ったこのご時世では曾祖父の時代なんかよりもずっと仕事が楽なはずなのにななどと考えながら、んんっと伸びをする。
せっかくの気分のいい朝は、生憎の曇り空。
朝と言うには起床している人間は少ないであろうこの時間帯には、境内に薄い霧が立ち込める。
昨夜降った雨水を含んだ空気は新緑の香りを伴っていて、これはこれで好きだなと心の中で思う。
神社の端で紫陽花が咲いている。
紫陽花の色は土の性質によって変わると人間には教わり、気に入りの株があるとその花弁に自分と同じ色を付けて独り占めしようとした鬼の仕業と友好的な妖たちには教わっていた。
花も生きていると教わって育った幼い頃の自分は、花が気分で色を変えているのだと本気で思っていたので、それを知った時は少しだけショックだったことを思い出してふっと笑みがこぼれる。
「
来年も綺麗に咲くように、争うように咲き誇る花を必要な分だけ間引いて、間引いたものを手水舎に浮かべていると、聞きなれた声に名前を呼ばれた。
想を連れずに彼が僕のところへ来るのも時間の問題だと思っていたけれど、予想していたよりも早かったな。
「君がここへ来た理由の察しはついているよ」
気遣うような視線を向ければ、「昔のことはもういいんだ」と、黒い妖狐は目を伏せた。
「想君と夏夢ちゃんのことで話があるんでしょ」
尋ねると、遠くの空で雷が轟いた。
「血は繋がらないけど、想は俺と似てしまった。あいつの親が死んでからずっと弟同然に可愛がってきた。だからこそ…」
「傷ついてほしくない?」
言い当てると、滝は自嘲するような笑みを浮かべた。
「昔のことはもういいと言いながら、俺は想にあの時のような思いをしてほしくない。かと言って人と妖の隔たりをなくすような行いは決してやってはならない。…どうしたものかな」
エゴとも思える心中を語る彼を、手水舎を挟んだ向かいから見据える。
言うか言わまいか悩んだ末、選んだ答えを口にする。
「この前想君、人になれたらって言ってたんだ。僕から進んで手を貸すことはしないけれど、あの子が望めば手を貸すつもりだ」
鋭い視線が向けられる。それは人に悪さをしようと企む妖のそれだった。
「いくら旧い友人だからといって、何をしても赦されると思うなよ人間」
「君に赦しをもらう必要がどこにあるのかな。あの子の未来はあの子自身で切り開くもの。あの子が望むことを、君のエゴで叶わなくさせるの?」
誰かの運命というのは、その誰かにしか変えられないものだ。取り巻く環境や持てるものが違えど、その身を生きるのは己だ。他人にとやかく言われても、決断するのは自分なのだ。
だから滝のエゴは聞き入れられない。それが例え本当に想のためであったとしても。
「エゴ…か。確かにそうかもしれない。凄んですまなかった」
「ううん。僕も厳しいことを言ったね」
弟のように可愛がってきた想を案じる気持ちはわかる。後悔してほしくないのだってわかるさ。
僕だって心を持っているんだから。
けれど、想の人生を決められるのは想だけ。あの子がそうすることを望んだならば、僕は手を貸すべきだろう。
沈黙の続く僕らの頭上から紋白蝶が現れた。
水に浮いた紫陽花の上をふわりふわりと漂い、そしてまたどこかへと飛び去って行く。
(なんだかあの蝶…儚いな)
人はどんなに大切な記憶でもいつかは鮮明に思い出せなくなる生き物だ。あの時どんなことを感じ、どんな匂いをかいで、どんな表情を浮かべたか。細かな事柄は全て曖昧になって、確かこんなことがあったという程度の枠組みしか残らなくなってしまう。
けれど妖は違う。
力を持つ妖ほど長生きをして、見たもの経験したこと全てをそのままに覚えている。
例え忘れたい記憶があっても、忘れることが出来ないのだ。
今では一般的な妖の寿命は人間と二十年ほどしか差がなくなってきている。というのも、段々と妖たちの力が失われつつあるからだ。
けれど、白い毛を持つ妖狐が例外なことは、父親の厳しい教えの中で耳にたこができるかと思うほど聞かされていた。
かつて人の世を跋扈していた妖に匹敵する力を有して生まれてくる白妖狐が悪さをすれば人に害をなす、と。
想君はそんな悪さをしないと信じたいけれど、立場上妖のことは信じず常に疑っていなければならない。
力を持っている限り、その力がどう働いて何が起こるかわからない。生まれ持った力とやらがどんな形で発現するか、本人が把握していなかったら尚のこと危険だ。
だから、見守る必要がある。滝とは異なる視点から。
僕はあの子が人に危害を加えないために。
滝はあの子自身が力に呑まれて破滅しないように。
でもこれは陰陽師としてのかをるの思いだ。
ただのかをるとしての思いは、ただ想君に後悔のない生き方をしてもらいたい。それだけだ。
「…さっきの蝶、なんだか儚いな」
沈黙の間、考えていたことはきっと違うだろう。同じ妖として想君を思う滝と、陰陽師の僕とでは。
それでも、何気ない情景に同じ感想を抱ける、衝突してもまた元のように会話をすることが出来る僕らは、人と人ならざる者の壁がありながら共にあることが出来た間柄なのではないか。
悲嘆にくれた彼女が死ぬまで願ったそれを叶えたのが僕でいいのかと、苦い罪悪感に胸を締め付けられる。けれど僕がそれを証明できたのなら、想君はもしかすると叶えられるかもしれない。
だけど僕は妖とも人間ともつかない中間の存在。だから妖と歩み寄ることが許されているのかもしれないとも思う。
そんなことを思いながら、滝と合ってしまった目をさりげなく逸らして、微苦笑してしまうのだった。
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