第12話 言えないこと、知りたいこと
顔を上げる。
鏡に映るのは、クマの出来た冴えない自分の顔と、そこから滴る水滴だった。
昨夜夏夢の両親から、いつもより帰りが遅くなるから夏夢を預かってほしいという旨の連絡があった。
道を挟んで向かいの家に迎えに行き、インターホンを鳴らしたが返答がなかった。中にいる気配もなかったので、一旦家に戻って自室からずっと夏夢の帰って来るのを今か今かと見ていた。
結局夏夢が帰って来たのは夜の九時頃で、夏夢が浴衣を着ているのも、どこか嬉しそうな顔をしているのもなんだか癪に障った。
濡れた顔をタオルで拭いながら黙考する。
(あんな遅い時間に一人でどこへ行ってたんだ。心配してた俺が馬鹿みたいに幸せそうな顔して帰ってきやがって)
悪態をついていると、不意に「彼方〜」という呼び声がしてはっとする。
階段を駆け下りて玄関先へと向かえば、そこにはいつもと変わらない夏夢が立っていた。
「おはよう。彼方の方が遅いなんて珍しいね」
スクールバッグを肩にかけた長髪の幼馴染は、こっちの気持ちも知らないでいつもと同じように微笑みかけてくる。
ようやく自分がまだ寝間着姿のままだったことを思い出し、自室で着替えを済ませてから靴を履く。
「待たせた」
「ううん、全然」
夏夢に手を伸ばしてそっと髪に触れる。
「髪…寝癖ついてるぞ」
こんなことをしたくらいでは、夏夢は恥じらうこともない。「じゃあ彼方直して」と言わんばかりの間抜け面でこちらに頭を突き出してくる。
兄のようにしか思われていないことが悔しくて、そう思った時には体が勝手に動いていた。
「えっ…」
驚いた反応の後、夏夢は何が起こったのかわからないといったようにフリーズした。
額から唇を離し夏夢と目が合うと、彼女はみるみるうちに赤く染まっていく。
(そう、こういう顔が見たかったんだ。俺の前でも出来るじゃん)
「ほら、行くぞ」
「え、う、うん」
まるで何事なかったかのように二人で坂を下り、いつものように呉服屋の前で友と合流する。
ここが待ち合わせ場所になっているのは───
「おはよう」
「おはよ」
「蒼は?」
「まだ」
「だよな」
店の外にいても聞こえる騒音に、寝坊した蒼がドタバタと支度をしているのが目に見えるようだ。
数分後、靴の踵を踏んだ状態でつんのめりそうになりながら蒼が店ののれんをくぐり、膝に手をやりながら息を整えた。
「…待った?」
尋ねた彼女に友と声を揃えて「待った」と答える。すかさず夏夢の後ろに隠れた蒼は、肩を落として「だよね」とうなだれる。
「そう思ってんなら最初から可愛く、お待たせ、くらい言いなって」
苦笑する友の自転車のサドルが私の場所なのだとでも言うように、蒼は自然にそこへと腰掛けた。
「別にいい。遅れそうになったら置いて行くから」
「彼方容赦ないッ」
大袈裟におどけてみせる蒼を乗せた自転車を友が引き、次に彼方、一番歩道側に夏夢の順に並んで少し離れた場所に位置する中学校へと向かう。
「高校ってどんなところなんだろう」
唐突な蒼の疑問に、三人それぞれがうーんと唸る。
一番に答えを出したのは夏夢だった。
「勉強が今よりも難しくなるところ」
その答えが気に入らなかったのか、微妙な反応を示す蒼に、今度は俺が答える。
「中学より近所」
しびれを切らした蒼は、「そういうことじゃないんだよ」と喚いた。
「じゃあどういうことだよ?」
呆れ半分に聞き返した友に、蒼は口をとがらせてぶつぶつと言った。
「なんかこう…新しい何かが始まるのかなって」
随分ふわっとした言い回しだとツッコミたかったが、言わんとすることがわからなくもなかったので口を噤んだ。
新しい何かが始まる時。これから何が起こるのかというワクワクした気持ちと、これまでと何かが変わってしまいそうな不安が同時に押し寄せる。
言葉足らずな蒼も、要はそのことを言いたいんだろう。
「ま、あたしはあたしたち四人がこのまま一緒に過ごせたらなんだっていいんだけどさ」
その言葉に妙な沈黙を置いたのは、友だった。
友が喋らなくなる時は、大体隠し事がある時だと決まっている。
「どうした?」
ダメもとで聞いてみるが、予想に違わず「何でもないよ、暑くてぼうっとしちゃった」と隠されてしまった。
友が悩んだ時に相談するのは決まって夏夢だ。同じ男である俺にはプライドが邪魔をするのか話せないようで、面倒見がいい蒼には心配をかけたくないのだろう。まあ、蒼に関しては話せない理由があるんだろうけど。
ここは俺が無理に掘り下げようとしても、相談相手は夏夢だけというのは簡単には覆らない。
仲がいいからといって、なんでも話せるなんてことは俺にもないし。
「何じっと見てんだよ」
「…ああ、ごめん」
ついつい友に視線をやったまま考え込んでしまっていた。
「否定はしないんだ?」
いらないツッコミを入れてくる蒼に便乗して友もふざける。
「そんなに俺のうなじ美し──」
「黙れ」
歩き慣れて今更珍しい物も見当たらない通学路に、爆笑にも近い笑い声が響く。
そんな時も、隣を歩く夏夢はどこか上の空だった。
そんな夏夢を気がかりに思っているうちに、気がつけばもう中学校の正門をくぐるところまで来ていた。
自分たちは二組だからと、友と夏夢が隣の教室へと向かった。
同じクラスである蒼と一組の教室へ入れば、間髪入れずに様子が変だと指摘されてしまった。
「ぼーっとしちゃって、なんかあった?」
「別に」
「どうせ夏夢のことなんでしょ。吐いて楽になっちゃいなよ」
流石に朝玄関先で待っていた夏夢の額にキスしたとは言えない。し、あいつが上の空になっていた理由が今朝のそれであるなら、俺としては満更でもないなんてことはもっと言えない。
なんとか話題を逸らそうとしたところで、さっきの友の様子を思い出す。
「俺より友の隠しごと聞き出した方がいいんじゃないか」
「え?」
「あいつ絶対なんか隠してるぞ」
気づけなかったことにショックを受けた顔だ。
友のことを一番よく見てるくせに、あいつのそういうことには人一倍鈍いのが玉に瑕だ。
「何それ…どういうことよ」
それ以上話すつもりはないことを沈黙を貫き通すことで暗に伝えると、ため息をついた蒼は離れた自分の席にバッグを雑に放り投げた。
〇─〇─〇
休み時間。教科書をとんとんと揃えて机にしまう夏夢のところへ、普段学校では男友達と遊んで過ごしている友が珍しくやって来た。
その表情はどこか晴れない。
「…サッカーしない?」
連れられるまま校庭の隅でただボールを相手に向かって蹴るだけのサッカーをした。
久しぶりのそれに苦戦してまっすぐ蹴れないわたしの代わりに、明後日の方向へ向かうボールに軽く追いついて、何事もなかったかのように上手くこちらへ蹴り返してくれる。
何か相談があるのかもしれない。
友君が口を開くのを待っていると、決心したように彼はボールを足で止めた。
「俺、中二になったら地元を出るつもりなんだ」
一瞬息を飲むが、ゆっくりと先を促すように相槌だけ打つ。
いつもと変わらない返事に安堵したのか、少しだけ涙を浮かべた友君はサッカーボールを足で止めたまま腕で目元を擦った。
「夏夢たちと離れたいわけじゃないんだ」
「うん」
相槌を打ちながら、彼の背中をそっとさする。
「離れたくないって気持ち以上に、叶えたい夢が出来たんだ」
胸中を明かしてくれた友の、あまりに突然な告白に、戸惑いながらも夏夢は「うん」と頷くことしか出来なかった。
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