第9話 小さな花火

ヒグラシの夏を笑うようなしいしいと鳴く声が、寂しい夕暮れとともに一日の終わりを告げる。

かをる君が花火に必要な物を取りに席を外している間に、想くんはわたしの膝を枕に眠ってしまった。

そっと想の髪を撫でる夏夢は、くすぐったそうな表情を浮かべた。

空が橙色に染まるこの時間帯。わたしはいつもこの世界に取り残されたような、ひどく不安な気持ちになる。



『夕暮れ時は、誰かの寂しさが涙となって風に乗り、僕らの元へやって来るとき



想くんは眠る前に夕暮れ時のことをそんな風に話していた。誰かに共感してもらえるのは初めてで嬉しかった。

想くんもわたしも、寂しくなる匂い、寂しくなる景色、寂しくなる時間、寂しくなる色という曖昧で誰かに説明するのも理解してもらうのも難しい感覚を持っていた。

いつもならめいっぱいの寂しさを持つ橙色の世界が襲いかかってきて、そのせいで寂しくなってわけもわからずに泣き出してしまいそうになる夕暮れ時だけど、今こうして想くんの体温を感じていると同じ世界でも、安心感で包まれるような気がした。



「足、痺れてない?」



水を汲んだバケツに、左右に振ればカラカラと音をさせるマッチの箱。それから蚊取り線香と花火セットを持ったかをる君が、それら一式を畳の上に置いて隣にあぐらをかいて座った。



「大丈夫、この重さが心地いいくらい」



幸せそうな想の寝顔と、それを見てまた幸せそうに目を細めている夏夢の顔を盗み見て、かをるは静かに微笑むのだった。








外は夜の帳が下り、ヒグラシの鳴く声もいつの間にか鈴虫の音に代わっていた。

時計で確認せずとも、自然はわたしたちに時間を教えてくれる。

焚かれた蚊取り線香の匂いは、夏だと主張するような独特の香りを辺りに漂わせていた。



「想くん起きて」


「ん…」



むくりと起き上がり片手で目を擦る想は、朧気な視界に白とも黄色とも緑ともつかない不思議な色で噴き出す花火を見て弾かれたように縁側を下りた。

試しに一本の花火に火をつけていたかをるは、「やっと起きたの」と小さく苦笑した。



「花火だ花火だ!、ぼくもやる!」



下駄に足を伸ばした夏夢に手を貸しながら、二人で一緒に選んだ花火を手にする。

花火から吹き出す火が移らないよう竹林からは十分に距離を取り、水の張られたバケツの近くで両手に花火を持った。

かをるから花火の火を分けてもらった二人は、一瞬沈黙した花火が急に噴き出すのを楽しげに見つめた。




〇─〇─〇




楽しく過ごす時間というのはあっという間に過ぎてしまうもの。

三人で花火をする時間も、もう終わりが近くなってきていた。

水の入ったバケツには、先端が黒く焦げて縮れた花火の残骸が沈黙していた。

最後の一本を夏夢がそこへ入れると、小さくジュっという音がした。

楽しい時間の終わりを告げる嫌な音だと思った。



「僕まだやりたいよ」


「わたしも」



かをる君を困らせるだけだとわかっていても、わたしたちはこうすることでしかこの時間を延ばすことが出来なかった。



「そんなこと言われても…あれ?」



わざとらしく袖の中をまさぐったかをる君は、六本入りの線香花火の袋を取り出して見せた。



「こんなところに花火が隠れてたみたい」



それを嬉々として受け取った想くんは中から二本取り出して手渡そうとすると、かをる君は首を横に振った。



「もう残り少ないんだ。後は二人でやるといいよ」



かをる君にお礼を言うと、想くんに並んでバケツの傍にしゃがみ込んだ。

土の上を列をなして歩いていた蟻たちも、花火が始まるぞと仲間を呼びに散らばって行った。



「どっちの火の玉が長く残るか競争しよう」



パチパチと不規則な火花を散らす線香花火の先端は、少しずつ少しずつ蜜柑色の火の玉を大きくしていった。

それを落とさないように身動きせずじっと眺めていると、片方の火の玉がぽとりと音もなく地面に落下した。



「夏夢ちゃんの勝ちだね」


「あっ」



ほぼ同時と言ってもいいタイミングで、夏夢の火の玉も地に落ちた。

六本全ての線香花火を終えると、もう辺りは夕日の色を少しだけ残した紺色の世界から、闇の色に染まっていた。

月の青白い光だけが、陰陽師寺に集う者たちを照らしていた。



「またいつか一緒に花火しようね」


「うん。次は絶対勝つよ」





〇─〇─〇





縁側に腰掛けたかをるは、想の帯から落ちて忘れ去られた団扇を手に、二人を見守っていた。

笑いあったり、目が合うと照れくさくって熱くなった顔を冷ますため俯かせたり、二人の表情はまるで万華鏡を覗き込んでいるかのようにくるくると変わる。

二人を見ていると、どうしても昔の滝と彼女を見ているような気がして切なくなる。

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