第7話 恋煩い

夏休みでも登校しなければならない日というものがあった。それはプールの掃除当番の日。

惰眠を貪ることは今日に限っては許されず、少し遅刻気味で家を飛び出した夏夢は急いで学校へと向かった。

今日の掃除当番は夏夢と彼方の二人で、どちらも学校のジャージを着ている。



「彼方」


「遅い」


「ごめん、待たせて」



怒られる、と身構えたが予想に反して彼方は嘆息するだけだった。

来る途中に何もなかったかと尋ねられ、要領を得られず頷く。すると再び彼方は大きなため息をついた。



「よかった…お前に何もなくて」



ようやく言われたことの意図を理解して、彼方の顔を下から覗き込む。



「もしかして、心配してくれてたの?」


「当たり前だろ。…まあ大方寝坊して俺からの連絡にも気づいてないんだろうとは思ったけどな」



視線を逸らしながらぶっきらぼうに言うけれど、彼方のこういった優しいところを夏夢は沢山知っていた。



「彼方は相変わらずお兄ちゃんみたい」



一瞬複雑そうな表情を浮かべたけれど、すぐに呆れ顔になる。



「…いいから早く掃除するぞ」



わたしたちは使い古された掃除用具を引っ張り出して来て、ホースで水を出しながら水の抜かれたプールの底へと下りた。

始めるまでは億劫に感じられたそれも、始めてしまえば案外楽しくなってくるものだ。

プールの端から端までもちろん掃除しながら走って競争したり、ホースから出る水をかけ合ったりすることは、掃除当番にならない限りはなかなか出来ない体験だ。

一頻り遊び終えると、やっと掃除らしい掃除をまじめにやり始める。



「なぁ、苔でも生えそうな勢いのこのプールがきれいになる未来お前には見えるか?」


「見えないね…。帰りに職員室に寄って掃除用具一式新しいものを買ってもらえるように頼まないとだめな気がする」


「だな。掃除用具の方汚ねえ」



他愛のない会話をプールの底なんかで話せるのもいつまでなんだろう、と夏夢はふと空を仰ぐ。

ジャージをこんなにも水に濡らして、ホースから出る水と掃除用具しかないのにこんなにもはしゃげるのは、きっと今だけなんだろうなと少しだけ寂しくなる。

(大人になったらこういうことも、自然としなくなっちゃうんだろうな)



「あのさ夏夢」


「ん?」



これ以上掃除をしても無駄だと言わんばかりに掃除用具を手放した彼方が不意に声をかけてきた。



「今日さ、この後二人でどこか行かないか」



二人。

確かに普段は四人で行動することが多くて、昔のように彼方と二人で遊ぶ機会はめっきり減ったように思う。

珍しい彼方からの誘いに心惹かれたけれど、申し訳なく思いながらその誘いを断った。



「ごめん、この後ちょっと用事があって」



嘘ではない。ただ、想くんに会えるかもしれないから神社へ行くとは言えなくて、曖昧な返答になってしまう。



「そっか。それならまた今度」



何も怪しまれていないと思いほっとする夏夢とは裏腹に、彼方の表情は曇ったのだった。





〇─〇─〇





掃除が終わって早々に夏夢はどこかへと行ってしまった。

用事、と曖昧に誤魔化されてしまったが、もしかすると誰かに会いに行っているのかもしれない。

俺には言えない誰かのところに。

長く一緒にいると、その分隠し事なんかに聡くなる。

彼方の悩みであるそれは、今回ばかりは例外であってほしいと思った。なぜなら、当たりをつければ、いつも大体当たるからだ。



「しけた面してんなぁ彼方」


「蒼、なんでいんだよ」


「あんたたちが掃除当番だって知ってたからさぁ、終わったらどっか行くかなーと思って」



水が申し訳なさ程度に出ているホースを彼方からとりあげると、足をぶらぶらと揺らしながらプールの底をみつめていた彼の隣に蒼は腰掛けた。



「恋煩い?」


「…」


「え、なに図星?」



始めはからかうような表情だった蒼の顔は、みるみるうちに無言の彼方を気遣うものへと変わる。

何も答えないまま、彼方は半袖の体操着のシャツを脱いで絞っていた。

水の滴る不規則な音のリズムと、煩い蝉の声だけが重苦しい空気の中軽快な音を奏でた。



「夏夢?」


「まあな」


「だろうね。で、恋敵は?」


「恋敵って…」


「じゃあなんて言えばいいの?、ライバル?」



じりじりと容赦なく照りつける日差しの暑さで、彼方のTシャツはすぐに乾いた。まるで夏夢と水浴びをしていたのが、なかったことにされたように。

蒼は彼方が話すまでそこを動かないと言わんばかりに、首筋に汗を伝わせながらもホースから出る水を自分の足にかけながら涼を得て暑さを凌いでいた。

観念した彼方は、先の夏夢の反応について詳しく話した。

すると、声のトーンを落として少し不安げな表情になる蒼。



「ねえ、相手誰だかわからないの?」



蒼の言いたいことを察した彼方は苦笑してしまう。



「心配すんな、友ではないと思う。だってあいつめっちゃわかりやすいから、もし夏夢に対して気持ちがあって二人で会ってたら、絶対分かる」


「な、何言ってんだよバカ」



相変わらずわかりやすい子である。

夏夢への想いを隠しきれていない彼方と同様、蒼も友に恋心を抱いていた。そしてそれぞれ相手が鈍感すぎるあまり、二人の気持ちには微塵も気がついていない。

誰よりも傍にいるのに、今の関係が壊れることが怖くて言い出せない。けれど誰かに取られたくもない。

何とも歯がゆい一方通行が続いている。



「…彼方はさ、どうしたいわけ?」


「は?」



どうせ「略奪愛、最高じゃん。ドラマっぽい!」とか「ヒロインを奪い合う仲になるんだから、そいつのこともっとリサーチしないと!」とか他人事だと思って、無責任に言いたいことを好き放題言ってくると思っていただけに拍子抜けする。



「このまま放っておくの?、夏夢のこと。それとも振り向かせるために行動するの?」


「いや、その…」



歯切れの悪い自分に、盛大なため息をつかれジト目で指を指された。



「あんたいっつもそう。待ってるだけ、様子見。行動しなきゃ変わるもんも変わらないってもんよ」



自分のこと棚に上げたアドバイスだな。



「俺は、夏夢の気持ちを尊重したいだけで…」


「へえ、じゃあその気持ちを尊重した結果、夏夢が別の男と付き合うことになってもいいんだ?」



肯定は出来ないけれど、夏夢の気持ちを尊重したいのは事実だった。

気持ちを押しつけるようなことは自分のポリシーに反したし、それに夏夢からの俺の見方が幼馴染のままである限り、気持ちを伝えたところで戸惑わせてしまうだけだろう。

呆れ返ったように後ろへと寝そべった蒼は「あっ」と何かを思い出したような間抜けな声をあげた。



「そういや彼方は自分を優先出来ない奴だったわ」



容量を得られず首を傾げると、寝転がった体勢のまま視線だけをよこされた。



「人には譲れないって思うことがあると思うんだけど、彼方は昔からそれを簡単に譲っちゃうタイプだってこと」



今思い出したわ、と呟く蒼を不思議そうに見据える彼方にはその自覚がなかった。



「そうか?」


「うっわ、無意識なんだ?。かわいそー」



そんな風に言われるのは納得がいかないといった表情をしていた彼方のお腹が鳴る。

それを代弁するように「お腹空いた」と蒼が楽しげに笑う。



「職員室寄っていいか?」


「えー嫌だよ。宿題ちゃんとやってるか?って聞かれたらやってませんとは言えないし?」


「やれよ…」



そんな会話を交わしながら、二人は昼食のため学校を後にした。

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