第6話 生まれ持った力
人の言葉を覚える時間は、ぼくにとって大切な時間の一つだった。
陰陽師寺には、100年足らずの人の寿命では読み切れないのではないかと思うほど沢山の書物があって、よくそれらを読みにここへ足を運んでいる。
初めの頃は理解できずに眉をしかめることも多かったけれど、時々ここにやって来る陰陽師のかをる君や、滝にぃに教えてもらいながら少しずつ文字を習得していった。
今ではなんの苦労もなく読めるし、前よりも人の言葉を流暢に話せるようになった。
人間について無知だった頃よりも、夏夢ちゃんと同じ世界を見れている気がして嬉しかった。
月光に照らされる階段で、久しぶりに夏夢ちゃんに会えた時間に思いを馳せている。
夕方に座っていた所と同じ場所に腰掛けて、彼女のいた場所を嬉しくなる心で眺めた。
また会えたことが嬉しい反面、複雑な気持ちでもあった。
会いに行くと言っておきながら、先に会いに来てくれたのは夏夢ちゃんの方だったから。
言葉は覚えたはずなのに、夏夢ちゃんを前にした途端、話す言葉が見つからなくなってしまった。
思いや気持ちを表す言葉はどれも陳腐で、この気持ちをそのままそっくり説明できる言葉が見当たらなくて困ってしまった。
きっと言葉の数より、言葉にできない思いの数の方が多いのだろう。
けれど夏夢ちゃんとは言葉を交わさずとも、どこか分かり合えているような気がした。
彼女の表情、温もり、纏う空気から彼女の気持ちがそのまま僕の中へ入ってくるような錯覚を覚えるほどに。
だから僕も、言葉に出来ない思いを二人きりの空間にそっと委ねることにした。
それでも交わしたほんの少しの会話は、驚くほど鮮明に覚えている。
言葉は目に見えなくとも、心に刻まれるのだと実感した。
「言葉って不思議だな」
不意に人ならざるものの足音が聞こえ耳をすましてみれば、寺の外をかつて仲間だった妖狐たちの声が通る。
「ここに例の?」
「声が大きいよ。中にいたらどうするんだい」
「どうもしないさ。あんな人間の真似事しようと思うような奴が俺たちの中に紛れていたとはな」
「滝も滝さ。あんなのとつるんでるから悪事に走ったのさきっと。良き妖狐さえ惑わす妖だよ」
「ああ嫌だ嫌だ、さっさとここを離れようじゃないか」
疎まれるのも、蔑まれるのも、仕方のないことだと諦めていた。しきたりを破ってしまったのだから、当たり前だろう。
かつては臆病だった自分も、これくらいのことではめそめそしなくなった。この程度のことで傷ついていれば、この先一人で生きていくことは困難と言えるだろう。
そうでなくとも数少ない妖狐という存在。滝にぃを除いて他全ての仲間に見捨てられたのだから、死にたくなければ強くならざるを得ない。
「最近は人の子の出入りも多くてたまらんわ」
「人間の行く先などいくらでもあるだろうに何故わざわざ神社で騒ぎ立てる?…煩わしい」
自分のことはどう言われようが構わなかった。身から出た錆であるし、仕方の無いこと。
けれど夏夢ちゃんたちを悪く言うことはどうしても赦せなかった。
「消えてしまえ」
いつの間にか口にしていた恐ろしい言葉と共に、寸刻前まで話をしていた二匹の妖狐は糸が切れたようにその場に倒れ伏した。
一体何が起こったのかわからずしばらく彼らから目を話せずにいると、間もなく二匹の妖狐は目を覚ました。
なにか恐ろしいことをしてしまったのではないかと内心穏やかでなかった想は、ほっと胸をなで下ろした。が、彼らは妙なことを口にした。
「あれ、俺たち今何を話して…」
「とにかく帰ろう」
「あ、ああ…何だか不気味だな」
薄暗い竹林の向こうへと姿を消す彼らのいた場所をぼうっと眺めながら、掌に残る熱に手を開いたり閉じたりしてみる。
ふと、今は亡き父親との会話を思い出す。
『お前は白毛の妖狐だ。白い毛を持って生まれた稀な妖狐は、かの昔から代々強い力をその身に宿して生まれてくると言われている』
『力、ですか』
そんな話を理解するにはまだ幼すぎた想は、案の定ぴんと来ていない様子で父親の話に耳を傾けていた。
今まで気にもとめていなかったが、言われてみれば父親も母親も白毛ではないことくらいは理解することができた。
母は温もりのある銀毛、父は炎が揺らめいているような黒みがかった赤毛だ。
『生まれ持った力の効力は発現するまでわからない。その理由は、力を宿した妖狐自身によって効力が変化するらしい』
『…?』
『あはは、お前にはまだ難しかったか。まあいい、いつかわかる時がくる。その時が楽しみだな』
靄がかっていない、今でも鮮明な記憶を追想する。
父親の柔らかく落ち着いた懐かしい声音、優しげに垂れた目まではっきりと思い出すことができる。
「父様…これがおっしゃっていた力なのですね」
ぼくに備わった力の効力はきっと──
「そんなところでどうしたの?」
陰陽師でもあり、この寺の所有主の息子でもあるかをる君がいつの間にか帰宅していたようだ。
過去に思いを馳せていたばっかりに、入口の戸が開く音を聞き逃していたようだ。
「おかえりなさい」
彼とは滝にぃの紹介で知り合った。
普段陰陽師として悪さをしている妖を退治している彼は、戦慄するほどの冷酷さを感じさせる部分も垣間見えたけれど、悪さをしない妖に対しては人と接するのと変わらない態度で接してくれた。
滝にぃと仲のいい彼との出会いは、まるで二人目の兄が出来たようで嬉しかった。
「おかえりは正しくないね。確かにここへはよく出入りするけれど、住んでいるわけじゃないんだよ?」
「そうだったの?」
「実家は京都の方にある。でも嫌いだから、油を売るために掃除もかねてここへ泊まりにくるのさ」
かをるは両手に提げた買い物袋を畳へおろすと、ふうっと額の汗を拭った。
「それにしても暑いね。もう夜だっていうのに」
何か言いたげに寄越された視線に、「何でしょう」と戸惑う想。
「妖狐って冷やし中華食べられる?」
「う、うん」
「ほんとに?、よかった。実家では討伐した妖の死にざまとかを平気で語りながら食事するから嫌でね。美味しい物も味がしなくなるから普段誰かと食卓を囲んで食事をすることがないんだ」
さっき意図していないとはいえ使ってしまった力を見られていて何か言われるのかと身構えていたけれど、どうやら杞憂だったようだ。
「すぐ作るから、滝も呼んできてよ。どうせなら三人で食べたいじゃない?」
「わかった」
人の姿を解いて、身動きしやすい本来の姿で竹林の中を走る。
月光が差している奥まった場所に、漆黒の尾が揺れるのを見てそこへと前足を進める。
憂いを帯びた眼差しで俯いていた滝は、聞きなれた足音が近づいてくるのに耳を動かして、笑顔を繕う。
少しばかり昔のことを思い出していた顔を、想には見られたくなかった。
振り返った滝に、何も知らない想はかをるが夕食に誘ってくれたのだと告げた。
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