一めの夜
からん、と扉の鈴が鳴ると、聞き入っていた客たちの中で反応したのは、入口から近い角の席に陣取る、初老くらいの男性二人だった。
顎髭を立派にたくわえた白髪の老人が私を見るなり呵々と笑い、手招きした。見も知らぬのに相席を誘ってくれるとはありがたい。入ったことのないバーというのはまずどこに座ったらいいか戸惑うものだ。こういう気のいい人がいると助かる。
相席、失礼致します、と、もう一人、大きな黒縁眼鏡に、こちらは口髭が印象的な男性だ。顎髭の御仁と対照的に寡黙な方のようで、軽く目配せをして会釈、という形に留まった。
顎髭の老人の向かいに座ると、やはり陽気に呵々と笑い、私に言う。
「新顔だね、君」
「わかるんですね」
「そりゃ、伊達に常連やっとらんよ。君。あーと……何年だったか」
顎髭をなぞり、問いかけてくる隣に、ちみりとグラスを舐めて眼鏡の御仁が「じきに三十年だ」となる。それは常連も常連だ。
「いやぁ、ここのこれを聴きながら飲む酒は格別でね。マスターは酒のチョイスもいいが、スカウトマンの素質もあるんじゃないかね」
君もさしずめ、これに惹かれてきたんだろう? と笑み、問いかけてくる。子どものような悪戯っぽい笑みがよく似合う。言われた通りだったので、私は頷いた。
「スカウトなのですか」
「歌い手とピアニストがね。まぁ、何年かごとに変わるが、今回は特にいい」
「お前……毎回そう言ってるだろう?」
これまで口を開いていなかった眼鏡の御仁が、口髭の下の口をへの字に曲げ、微かに眉根を寄せた。だが、口元はすぐに戻り、「まぁ、概ね同意だが」と顎髭老の意見を肯定する。
「こいつは、眼鏡の奥に確かな物を見る目を持っているからなぁ。こいつが言うんなら、確かだ」
「……お前という奴は」
いつも適当に物を言って人を試すな、とぼそぼそ悪態を吐き、グラスをちみりとやった。
顎髭老は眼鏡の老人の審美眼を試していたのか。しかし、言葉少なに称える声は、確かに真実味を持っていた。事実、私は歌に惹かれてここにやってきたのだ。間違いないのだろう。
顎髭老は我が事のように自慢げに語る。
「特にあの別嬪さん。いい声だろう? 容姿もいい」
示されたステージの上でマイクを握るシンプルなロングドレスの女性は声も姿も魅力的だ。まだ年若いであろうに、声には深みがあり、それでいてかなり音域が広いようで、余裕がある。声としても歌としても安心して聴けた。
見目は綺麗だ。夜の舞台だというのにあまり化粧が濃いように見られない。表情はまあ、ブルースのような曲調もあってか、慈しみに満ちたものである。
「かなりモテるらしいがどこも蹴ってここでしか歌っていないらしい。貴重な歌声だ。堪能していきたまえ」
「モテる、とは?」
「彼女をスカウトしようとする輩が多いらしいのさ。中にはご執心のやつもいるらしくてね。そいつが蹴られた回数が確か……十三回だっけ?」
「わあ……」
「そこまで熱烈なラブコールを受けても断り続ける。女性とは強いね」
所帯を持つならああいう女性がいいね、と冗談かよくわからないものを飛ばす顎髭老。おや、独り身なのだろうか。
「まあ、それはさておき、だ」
顎髭老は髭をなぞると、ぽん、とテーブルに手を突いた。
「せっかく来たのだ。君もそろそろ何か飲みたまえよ。偶然にも出会えたことを祝して奢ってあげるからさ」
「ちょっと待て、今日の払いは俺持ちだぞ」
眼鏡老がすかさず指摘する。さすがにそこまで面倒をかけるわけにはいかない、と私は自分で頼もうとするも、何故か眼鏡老がマスターに自らアイコンタクトを取り、「白三つ」と告げた。
「ちょ……自分で払いますって」
「いい。奢られておけ」
かちゃりと眼鏡のブリッジを持ち上げて言う。なかなか様になった動作だ。
いい人だな、と思いながら席に座り直す。ほどなくして白ワインの入ったグラスが三つ、運ばれてきた。ちょうどピアノソロも盛り上がりを見せ、心を強く掻き立てるような、絶妙なタイミングだった。
「白とはいいチョイスだねぇ」
「……乾杯」
静かな眼鏡老の声に、チン、とグラスを合わせ、心の中でこの出会いを祝した。
同時、コーラスが始まる。
静かにピアノで掻き立てられた深奥を突くような歌声。
「秋に寄り添う 花のひとひら
風とともに散り逝き、あなたへ届きたい」
聞き入りながら静かに顎髭老が語り始める。
「この歌はねぇ、彼女が自分でこの店のために作った歌なのだよ」
「え、あの方作曲もなさるんですか」
「そうそう。相当歌に入れ込んでいるらしいね」
くい、とワインのグラスを干す。
「なかなかセンスがあるでしょう?」
「ええ、ピアニストも腕がいいですね」
私が何気なく呟いた一言に、眼鏡老がぴくりと反応する。
「演奏が終わったら呼ぼう」
「へ、え?」
「全く、君はいつも唐突だね。まあ、概ね僕も賛成だが」
笑う顎髭老と舞台をじっと眺める眼鏡老に戸惑っていると、歌い手の声が駆け上るように辺りを巡ってくる。
「叶わぬ夢を抱いて、花は枯れ朽ちゆく」
ピアノが後を追うように駆け抜ける。余韻が店内を満たして数秒、わっと拍手が上がる。眼鏡老は拍手しながら、静かに二人に歩み寄り、短く言葉を交わす。すると二人が眼鏡老についてやってきた。
眼鏡老が二人に軽く手を上げて応じる。その落ち着いた様子と対照的に、私はわたわたとしてしまい、咄嗟に立ち上がってへこへこ頭を下げた。
「お歌もピアノも素敵でした」
月並みな感想しか出てこない自分の口が呪わしい。
私のあからさまに緊張した様子に歌い手の女性がくすりと笑う。
「あなたがおじさまのお話ししていた御方ですね。初めまして」
お、おじさま? と思ったが、おそらく眼鏡老のことに違いない。まあ、彼女の推定年齢からすると、この初老の男性二人は「おじさま」なのだろう。淑やかな表現だ。
「は、はじめまして」
「そう緊張なさらなくてもいいのですよ」
女性がたおやかに微笑む。ううむ、こう美しい女性に微笑まれると、なんだかくすぐったい。
「お初にお目にかかります」
そのとき初めて、私はピアニストの青年の声を聞いた。初対面にするにしては、少々棘のある声色だ。目を向けると、全く笑っていない。
ああ、なるほど、と私は一つ邪推をした。すると微笑ましくなった。
私の表情変化に気づいたのか否か、青年はむすっとしたままである。
「ピアノ演奏、素敵でした」
素直に褒めてみるが、いえ、と視線を外されてしまった。ううむ、仲良くなれないものか、握手でも求めてみようか、などと考えると、唐突な笑い声。顎髭老である。
「皆さん揃ったことだし、乾杯なんてどうだい?」
いつの間にかボトルを一つ持っている。眼鏡老が物言いたげだ。だが、何も言わず、二つの追加のグラスを持っていた。
「まあ! ご一緒してよろしいんですか、おじさま」
「勿論」
眼鏡老の短い返答に、お言葉に甘えて、と近くの空席から二つ椅子を持ってきて、さりげなくピアニストの青年の腕を引き、隣り合って座る。
青年が何か緊張して、かたんと少し音を立ててしまったのに、「あっ」と慌てふためく姿が初々しくて微笑ましかった。
グラスが行き渡ったところで、顎髭老が改まったようにこほんと一つ咳払いをした。
「では、この出会いを祝して、乾杯」
ちん、と涼やかな音色が、店の片隅を満たした。
それから五人でボトルを三本ほど空けるまで飲んだ。といっても空けたのはほとんど顎髭老で、顎髭老がボトルを追加注文するたびに眼鏡老の眉間にしわが寄っていったのはわざわざ自ら思い出すまでもなく瞼の裏に浮かんでくるまでになった。
私はしかしながら仲が険悪になるというわけでもない、二人の老人の年月の重なった友情の傍らで、初々しい青年を眺めていた。青年は苦手、というわけではないそうだが、あまりグラスを空けなかった。おそらく想い人の隣で緊張したのだろう。実に初々しく、微笑ましい。……おっと失礼、邪推であった。
とはいえ青年の反応がいちいち愛らしく、わかりやすかった。彼女のグラスが空けば、すぐ気がついて注いでいたし、会話の相槌も丁寧だった。なんとも甲斐甲斐しいではないか。
ただ、歌い手の彼女はどうにも読めない。まあ女心を語るなんて大層なことは私程度の年の功ではまだまだなのだろう。だが、見ていてもどかしいほどに、歌い手がピアニストに向けている感情がわからないのだ。なんでもないような素振りでつかず離れずのような。どうにももどかしい。
彼女はほとんど、歌の話をしていたように思う。時折、青年のピアノへの賛辞を交えながら。
贔屓目なしに、青年のピアノの腕は本物だと思うし、歌い手の彼女もまた然りだ。しかし歌い手とは対照的に、ピアニストは自分の演奏について何かを口にすることはなかった。新顔の私がいたから緊張していただけかもしれないが、口数が少なかったように思う。そのせいか、歌い手とピアニストの関係は、まだぎこちない顎髭老と眼鏡老の関係のように見えた。仲睦まじい、まではいきそうだが……友情以上には、ならないものなのだろうか。
いやしかし、偶々立ち寄っただけの私がああだこうだと首を突っ込んでいい話でもなかろう。自重せねば、とそこに関して私が二人を追及することはなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます