二たびの夜

 仕事帰り、何の気なしに、そういえばあの店は何時に開くのだろうか、と思って歩いた。

 別に洒落てもいないコンクリートの固い地面にまるで芸術性のない白い線が時折掠れてあるだけ。その道をやはり、美しいわけでも汚いわけでもない、平々凡々とした家が建ち並んでいる。クリーム色だの焦げ茶だの灰色だの、夢のない無機質な色は、毎日見ているせいもあってか、やはり楽しくもない。

 ……そういえば、昨日はどうやってあの店に着いたのだったか。歌に惹かれるまま無意識に歩を進め、帰りもほどほどに酔っていたため定かな順路の記憶がない。今はまだ日が傾いて間もない時間、歌が流れるには早いだろう。待つか? ……いやいや。

 さてどうしたものかと悩んでいると、灰色の建物の陰からひょっこり見知った顔が出てきた。忘れようのない立派にたくわえられた顎髭。楽しそうに笑っている目尻には年相応のしわがある。フランクそうな雰囲気の初老の男性はバーの常連、顎髭老だろう。

 私と目が合うなり、やあやあと声をかけてくる。覚えていたのか。

「どうも、こんにちは」

「うん、昨夜は世話になったねぇ、新顔くん。今日も一杯引っかけに行くのかい?」

「はい、そう思っていたのですが……恥ずかしながら、道を忘れてしまい」

 その事実はやはり口にするととても気恥ずかしいもので。通い続けて三十年にもなるれっきとした常連に聞けば、道などすぐわかるだろう。だが、どうにも恥が邪魔をして、なかなかそれを口にできない。

 すると顎髭老が呵々と笑い、私の肩を叩きながら言った。

「ならば今晩も一緒にどうかね? もちろんあの店だ」

 その申し出は有り難い。言い出しにくかった身としてはとても。すぐに「喜んで」と応えた。

「今日の払いは僕だから、正真正銘僕の奢りだよ」

「あ、いえ、支払いはいいですって」

「僕が奢りたいんだ、甘えたまえ」

 こっちだ、と出てきたところとは別の道を示し、歩き出す。そこでふと疑問が湧いた。

「あれ? あちらの道ではないのですか?」

 てっきり出てきた方の小路にあるものだと思っていた。相当な常連のようだから、もしや昼間から入り浸っているのでは、と……ある種失礼なことを。

 とはいえ老人が出てきた灰色の建物の向こうは細路地に見えた。昨日の店は隠れ家のような印象も受けたし、細い道だのが入り組んだ向こう側にあってもおかしくなさそうだが。

「うん? ああ、あちらの道はね、面白いものが見られるただの裏路地さ」

「面白いもの?」

「君もあの二人を好きなら、知っておいて損はないだろうねぇ」

「というと?」

 あの二人と言ったら、決まっているじゃあないか、と顎髭老はニヤニヤと笑う。この人が笑うと、悪戯小僧を見ている気分になる。

 口元に人差し指を立て、そんな笑みのまま、告げる。

「どうもピアニストくんと歌い手さんはできているらしいんだよ」

 あ、やはりそうなのか、と内心思った。そして少しほっとした。ピアニストの青年は片想いではなかったのだな、と。

「あそこは逢い引きの場所かなぁ。二人の姿を毎日見かけるんだよねぇ、別々だけれども」

「……なかなかいい性格をしていらっしゃいますね」

「失礼だな、君。覗き見なんて野暮なことはせんよ。盗み聞きはしてるがね」

 盗み聞きは野暮じゃないんだろうか。とはいえ、かくいう私も興味をそそられるのは確かだ。

「あの二人、早く付き合っちゃえばいいのに」

「え、付き合ってないんですか?」

「うん。お似合いなんだからさっさと恋人になっちゃえばいいのに。……っていうと眼鏡くんが『お前、自分のことでもないのに節操ないぞ』って渋い顔して小突いてくるからやめてね」

 なんだか目に浮かぶ。思わずふふ、と声を漏らして笑ってしまった。

 顎髭老にわかりましたと応じると、おお、君、話がわかるねぇ、と呵々と彼は笑った。

「ただ、あそこは路地裏なだけあって、逢い引き以外にも使われているようだが」

「と言いますと?」

「よくない輩がうろちょろしてる。まぁ、よくある話さ。あと、今日は十四回目の告白現場を目撃したね」

「十四回目?」

 はて、と思考を巡らして、昨夜出た十三という数字について思い出す。

 どこの誰かはよく知らないが、歌い手の彼女を口説こうとかしているという。

「今日も見事に玉砕してたねぇ」

 御愁傷様である。

「というかまさか、それも毎回……」

「聞こえてくるんだもの、仕方ないじゃない」

 あっけらかんとして言う顎髭老に私は呆気に取られたというか、呆れた。


 と、歩いているうちに、ぽーん、というピアノの音が聞こえてきた。様子からするに調律でもしているのだろうか。

「おお、今日も早いね。さ、着いた」

 そう顎髭老が示した先には、「Zion」と少し曲がった字で書かれた看板。どうやら件の店に到着したようだ。

 顎髭老に先導され、中に入ると、さすがにまだ日の入りが深くないからか客の姿はない。ただ、ピアノの前に座す青年が一人。昨日のピアニストの青年だ。他に人は……と辺りを見回すと、ちょうど昨日座った辺りの席に、空気に馴染むような静けさで眼鏡老がいた。

「ん、あ、昨日の……」

「どうも」

 挨拶もそこそこに顎髭老に導かれて座る。眼鏡老は私の存在を大して気にした風もなく、ピアニストの青年の方を眺めていた。

「いやぁ、いつもながらに早いねぇ、彼」

 顎髭老の感嘆に「それだけ入れ込んでいるのだろう」と短く応じる眼鏡老。短いながらも少し熱のこもった言い方に感じられる。

「まあ、美人さんのエスコートができる稀少な場だ。気合いも入るにちがいない。あ、ちなみに熱烈な輩は本日十四回目の黒星を飾ったようだ」

 顎髭老の告げた事実に眼鏡老は眉を寄せ、「お前はまた……くだらんことを」と呟いた。

「何も心配しなくとも、あの歌い手は、彼以外に弾かれる気はあるまいよ」

 そんな深奥を突いた言葉を紡ぐ眼鏡の奥の瞳は、片時もピアニストの姿から離れることはなかった。

 聞くに、どうやらピアニストの青年は毎日早めに店に入り、ああしてピアノの微調整を行っているのだそうだ。そのおかげなのか、歌とのバランスが非常によく、心地よく耳朶を打ち、音の涙に満たされる。青年の生真面目な努力が、歌い手の声に更なる特別感を与える。これは、正真正銘ここでしか聞くことのできない声だろう。

 歌の間、二人が目を合わすことはほとんどなかった。けれど、息の合った演奏。私は音楽の方面はからきしだが、二人の相性のよさは素人目にもわかる。ピアニストは歌い手のブレスポイントを、歌い手はピアニストの間の置き方を、どちらも把握しているのだ。

 哀愁を誘う詩は、時折胸を掻き立てるほどに苦しくあるが、何故だろうか、演奏を聴いていると、心安らぎ、落ち着くのだ。

 これを聴きながら飲む酒は格別、という顎髭老の元も頷ける。酒の善し悪しを語れるほど舌は肥えていないが、どんな酒も心地よく飲める。

 ただ少し目を惹かれたのは、今日の歌い手の衣装だ。昨日は印象に残るような派手な色ではなかったはずだが、今日は鮮烈な赤。バーの青い光も貫くような。淑やかな印象の彼女には不似合いとまではいかないまでも、演出にしては少々苛烈な気がした。

 その代わりか、デザインは昨日以上にシンプルなようで、服には何の飾りもなく、柄もない……何なのだろうか。

 まあ、彼女の圧倒的な歌唱力と抑揚の前には些事に過ぎないが。

 今日は演奏が終わると、あちらの方から相席を、と来た。願ってもない。

「やあ、今日は一段と抑揚に富んでいたねぇ。この老害が思わず涙しそうになった」

 顎髭老が髭をいじりながら、歌い手に喝采を贈る。歌い手はたおやかに笑んだ。

「あら、昨日の方、今日もいらしてくださったのですね」

 何故か彼女がこちらに微笑んでくるもので、私はきょとんと目を丸くしつつも、正直に応じる。

「ええ、歌を聴きに」

「まあ、嬉しい」

 何気ないやりとりだが、私の言葉にぽんと手を叩く仕種など、今日の歌い手は一挙手一投足がどこか華やかで艶やかだった。

 見惚れていると案の定、ピアニストに睨まれてしまったが。

 そんな感じで今日も夜が更けていく。昨日とは違うが、楽しい夜だ。


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