はなむけ
九JACK
夜零
宵闇の中、一つだけ暗い灯りを灯すバーがある。
客の入りは多くもなく、少なくもない。凡庸としたジャズバー。
歌い手がいて、ピアノがある、くらいだろうか。けれど、それも探せばどこかにはあるにちがいない。
しかし不可思議なのは街灯よりも暗い灯りが何故だか人目を惹くことだ。
否、店灯ではない。近づくとわかる。木漏れ日のように立て付けの悪い扉の隙間から、灯りと共に零れてくる、声。それに惹かれて店につい、足を向けてしまうのだ。
店名は入口前の古びた木の看板に書いてある。だが随分と土やら埃やらにまみれたのか、当初は白いペンキで書かれてあったであろうそれは、とても読みづらい。
かろうじて読み取れる名は「
「あなたを、忘れない……」
切なく、胸を締め付けるような声のソプラノが、店名を暗示するように響く。そう、彼女の歌うフレーズはこの店のためにあるのではないかと思うほどだ。
秋に咲く、薄紫色をした花。放射状に花弁を開かすその姿は、誰にでも向けられているようで、誰も見ていない。
けれど彼女の歌声が客の──聴き手の心を掻き乱すような魅了の響きを持っているのは何故だろう? ……彼女自身の放つオーラの輝きに外ならない。
かくいう私も、魅せられずにはいられなかった。
けれど店の扉を引いて、鈴の音で邪魔をするのも憚られる。と、店の前で私は一人往生していた。何、他に人はない。かまわないだろう。
……ああ、ピアノソロが始まった。頃合いか。からんと私は店の戸を推した。
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