第十二項「自分がやりたいこと」 side水瀬瑞葉

「水瀬にゃん? 大丈夫? ぼーっとしてるよ?」


「……」


 人間の脳の仕組みというのはある種単純であり、それでいて残酷でもある。

 

 昨晩『あんなこと』を呟いた割に、今朝起きてみると非常に冷静になった頭が『あんなこと』を単なる事実として処理するのだ。

 それからある程度時間が経ったものの、未だ思い返す度に恥ずかしさがこみ上げて集中が削がれてしまう。

 

「水瀬にゃーん?」


「! え、ええ、大丈夫よ」


 橘さんの呼びかけに気づき慌てて返事をするが、その返答は自分でも『大丈夫には見えないわよね……』と感じてしまうほど心ここに在らずといった状況を体現するものだった。


「……もしかして悠人となんかあった?」


「神里君と? いいえ、神里君は関係ないわよ」


 橘さんの鋭い疑問に冷や汗をかきそうになりつつも、あくまで冷静を装いながら答える。


「え~? だって、水瀬にゃんがそこまで悩みそうな事って悠人絡みの事しかなくない?」


 これを流石というのかどうかは問いただされている私の立場からだと難しいところではあるが、橘さんの嗅覚は今日もピカイチで簡単に逃してはくれない。


「そう? 私も普通に色んなことで悩むけれど」


 嘘はついていない。

 実際、頭を抱えるような問題に直面しては悩み、それを繰り返してきた。


「そうじゃなくて……ん~、水瀬にゃんがこう、見える形で悩むのを見たことが無いから不思議に思ってるの」


「それは……」


 橘さんの言う通り、確かに今までどんなに辛い問題を抱えようとも外ではその姿を決して見せようとはしなかったので、そう見えないのも確かに事実である。


「あ、心配しないでね。うち、そういうのに敏感だから分かるだけでクラスの皆からは分からないと思うよ」


 ちょうど私が危惧きぐしていたことを橘さんが言葉をかけてくれたため、思わず胸を撫で下ろしてしまう。


「あ~! ほっとしたということはうちの予想はやっぱり当たりだったと」


 そう言いながら橘さんはにやりと音が付きそうな笑顔をまとう。


「……橘さんに嘘はつけないわね。その通りよ」


「んで~水瀬にゃんは悠人の何で悩んでいるのかな~?」


「ここで言わないわよ」


 まだ人は少ないものの教室に人はいる状況である。

 さっと見渡すと、まだどこも自分のグループでの会話に夢中らしく、声量的に聞こえる心配はない。

 

 しかし、人の目がある空間でお悩み相談したくないというのが人間の心理だろう。


「じゃあ、あとでなら聞かせてもらえる?」


「……人がいないところならいいわよ」


 とりとめのない悩みではあるが、神里君に打ち明けたように人に話すことで何かが解決することもある。

 今回は相手が橘さんということもあり、このまとまらない悩みを聞いてもらうことにした。


「それなら水瀬にゃんのお部屋にしようよ! 昨日入れなかったしお邪魔したいな! あ、でも体育祭の練習もあるからその後でもいい?」


「構わないわ。私も練習するつもりだし、一緒に帰りましょう」


 今まで色々あったので時間が取れなかったのはしょうがないものの、流石に練習を再開しないと体が鈍ってしまう。


「わ~い! 水瀬にゃんと放課後デート!」


「……これ、デートって言うのかしら?」


 そっと呟いた声さえ吹き飛ばす橘さんのテンションから察するに私の部屋へ訪問するのが本命であるように見えてしまうが、悩みを聞いてくれることは決定した。


「じゃあ、水瀬にゃんまたね!」


 私の呟きを余所に、喜びを体現するような足取りで橘さんは自分の席へと戻っていった。


 (不思議ね……)


 橘さんが話を聞いてくれるというのが決まった辺りからすでに心は軽くなり始めていた。

 あの頃とは違い、私を見てくれる人たちがいるおかげなのだろうか。

 

 深く考えそうになったが学校にいる今は学業に集中することが大事なので、気持ちを切り替えるためにも水筒を取り出してお茶を一口飲むことにした。




「んでね、その子がさ~」


 最近の昼休みの過ごし方は、このように専ら橘さんのお話を聞きながらご飯を食べることである。

 そんな今日も同じように平穏無事なお昼休みが過ごせるはず、だった。


「……あれ? 珍しい。悠人が誰かに呼ばれるなんて。それにあの子は……」


「神里君がどうかしたのかしら?」


 話の続きを期待していた心は、あまり良さそうな状況には見えない橘さんの表情と神里君の話題のコンビネーションによって不安が勝る心へ急落することとなった。


「悠人が誰かに呼ばれてるらしい……う~ん、他のクラスの子と特に関わりがあるようには見えなかったんだけどなあ」


「……問題があるようには聞こえないのだけど」


 まだ私の知らない交友関係くらい神里君にはあるだろう。


「というよりも問題なのはその相手なんだよ」


 そう言いながら橘さんは流し目で『その相手』を指した。


「彼は……もしかして、あの時の」


 橘さんの目線を追って『その相手』を確認してみると、『その相手』は以前お昼時において私にナンパっぽいことをしてきた人という記憶が蘇った。


「え、水瀬にゃん知ってるの?」


「知ってるも何も、前にお昼のお誘いを受けたわよ」


 驚く橘さんにその時の出来事の一部始終を軽く説明する。


「ということは……なるほどね。ん~、うちの予想ではやっぱり嫌な予感がするなあ」


「どういう意味なの?」


 神里君に関することで嫌な予感と言われたため、思わず短い言葉で問い詰めるように聞いてしまう。


「……ごめんね。あくまでうちの想像だし確信をもって言えることじゃないから伝えられないかな。伝えてはいけない部分もあると思ってるし。でも、1つ言うなら、水瀬にゃんのためにも悠人のためにもあの子とは関わらない方が無難だと思うよ」


「それは……どうして?」


 現段階でも誘ってきた『彼』に対して良い印象は持ち合わせていないが、交友関係の広い橘さんがそう言うので理由を聞きたくなり尋ねる。


「あの子の噂、というか実話なんだけど女たらしがすごいらしいの」


「……具体的には?」


「あの子に告白した子は全員成功していて、しかもあの子が告白した子も含めて複数人の彼女がいる」


 具体例が突飛な話過ぎて、一瞬自分の耳を疑いそうになる。


「橘さんの忠告は理解したわ。でも、それ……色々と大丈夫なの?」


 昔の時代ならともかく今は一夫多妻制ではない。

 複数人の彼女がいるということは、いずれ必然的に誰かを選ばなくてはならないということだ。

 倫理的な問題などはとりあえず置いといて、その観点を彼女達が理解しているのか非常に気になるところではある。


「まあ、本人らが満足してるならいいんじゃない? うちは……当然ナシだと思うけど」


「それはそうよね……」


 もちろん私もナシだと思っている。


 そんな話をしているうちにいつの間にか『彼』と神里君は教室から消え、神里君がいない以外は何も変わらないお昼時が戻ってきた。


「あとで悠人に聞いてみようかな」


「……私にも聞かせてもらえるかしら」


 他の事はあまり気にならないのに、神里君という付加価値がついてしまうとどうしても気になってしまう。


「もっちろん! お悩み相談のときにね!」


 さっきまではシリアスな顔をしていたはずなのにどこでエネルギーを得たのか、橘さんはいつもの活力を取り戻していた。


 (何も無ければいいのだけど)


 心の中でそう呟いてみたものの、頭に渦巻く心配の気持ちと悩みは消えそうになかった。

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