第五項「倒れた水瀬さん」 side神里悠人

「おーい、水瀬さん? もう朝だよ?」


 すでに時刻は7時30分を過ぎており、それでもなお水瀬さんが起きてくる様子は見られない。


 始めはそんな日もあるかと思い、自分で朝食を用意して支度も一通り済ませたのだが、いくら何でもあの水瀬さんがここまで寝坊するとは考えられない。

 時計の針の音がやけに響く静けさの中、嫌な汗が背中を伝う。


 (流石に部屋に入るのはまずいよな。でも万が一水瀬さんに何かあったら……)


 部屋は完全なプライベート空間であるため入ってはいけないという理性と、もし本当に緊急事態ならそんなことは関係ないという本能がせめぎ合う。


「水瀬さん! 朝だよ!」


 どちらを選ぶか迷いながらも、もう一度さっきよりドアを強くノックして呼び掛けた。


「……」


 それでも水瀬さんからの返事は得られない。


 (……よし、部屋に入るか。緊急事態を見過ごすよりかはこっちの方が適切だろう。もし本当に何も無かったら……その時は誠心誠意しっかり謝ることにしよう)


 そう覚悟を決めてドアノブに手をかける。


「ごめんね、水瀬さん! 失礼するよ!」


 そう言いながらドアを開けると、そこにはひたいに異常なほどの汗をかきながら苦しげにベットに横たわる水瀬さんの姿があった。


「っ! 水瀬さん、大丈夫?!」


 明らかに大丈夫ではなさそうだが、せまる緊急事態に思わず声が出てしまう。


 そもそもよく考えてみれば、鍵を掛けられるはずの水瀬さんの部屋のドアが施錠されていなかったこと自体異常だったのだ。

 しかしもう、そんなことは問題ではない。


一先ひとまず冷たいタオルに氷枕、あとスポーツドリンクがあればいいか?!」


 水瀬さんの様子を見るに、事態はかなり緊迫しているようである。

 急いでリビングに戻り、冷蔵庫からスポーツドリンクを、冷凍庫から氷枕をひったくって水瀬さんの部屋に戻る。


「ああ、タオルが無い!」


 洗面所からタオルを3枚ほど取って、また水瀬さんの部屋へ急いで向かう。

 依然いぜん、水瀬さんは辛そうな表情をしていた。


「んん……」


「ごめん、起こしちゃったかな?」


 ドタバタしていたのがうるさかったのか、氷枕を用意している途中に水瀬さんがかすかな反応を示した。


「……神里君? けほっけほっ……」


「水瀬さん無理しないで、横になってて、ね?」


 体を起こそうとする水瀬さんを軽く押し戻しながら再びベットで寝る体勢を作ってもらった。


「今、何時……?」


「今? 今はだいたい7時半過ぎくらいかな?」


「えっ?! 学校行かなきゃ……! っ!」


 返事を聞くやいなや、起き上がった水瀬さんが痛みをこらえるように頭を押さえる。


「体調悪いんだよね? 水瀬さん、今日は学校休もう? 俺の方で連絡はしておくからさ」


「いや、でも」


「これ以上悪化させたら体育祭に出られなくなっちゃうかもよ?」


 そう言うと、何か言いたそうだった水瀬さんは言葉を飲み込んだ。


「それじゃあ、お言葉に甘えて」


「うん、了解。それでスポーツドリンクや氷枕とかは準備したんだけど、あと他に欲しいものはある?」


「ありがとう。今は食欲もないし、これで十分だわ」


「分かった。何か食べたくなったら声かけてね」


 すると、水瀬さんは言葉を返すよりも先に固まってしまった。


「「……」」


 突如、静寂せいじゃくが訪れる。

 先に口を開いたのは水瀬さんの方だった。


「……神里君、学校は?」


 水瀬さんが体調不良でも、怒っていそうな声のトーンだと分かる。


「休むつもりだけど……」


「なんでなの?」


 この水瀬さんの反応で確信を持つことができた。

 水瀬さんは確実に怒っている。


「それは、水瀬さんの看病のために」


「行きなさい」


「え?」


「行きなさいと言っているの! けほっけほっ」


 急に大きな声を出したせいか、水瀬さんはきこんでしまった。


「ほら、無理しないでって。水瀬さんが体調不良なのに置いて行けないよ」


「身の回りのことくらいなら自分で何とかなるわ……っと」


 無理して立ち上がろうとした水瀬さんは、案の定完全に立ち上がる直前でふらついてしまった。


「ふらついてるのにそんなこと言われても説得力ありません」


 まるで小学校の先生みたいに人差し指を立てて水瀬さんをさとす。


「でもそれじゃあ神里君が学校に行けないじゃない……」


「水瀬さんの体調の方が心配だよ」


「それは……私が足を引っ張っているようで嫌だわ」


 何となく感じていたことだが、やはり水瀬さんは周りに迷惑をかけることをひどく嫌っているようだ。

 もちろん、その迷惑の度合いにもよるだろうし一概に水瀬さんが間違っているとは言えない。


 しかし、この場合は、俺の場合はそうでないことを水瀬さんに知ってもらいたい。

 ではどうやってそれを知ってもらうのか。

 その手段は比較的簡単である。


「水瀬さんが足を引っ張っているなんて思ってないよ。これは俺がやりたくてやっていることだから。水瀬さんはそんなに気負わなくていいよ」


 その手段とは『行動が自らの意志で行われていることを伝える』ということである。

 特に水瀬さんのような真面目で相手を尊重できる性格ならばなおの事であろう。


 相手がやりたいと言っているのであれば、その意思を妨害するようなことはしないはずだ。


「そんなことを言うのなら、私だって自分の世話は自分でしたいわよ」


 予想とは裏腹に、風邪で思考がにぶっているのか水瀬さんはほほふくらませながらごね始めた。

 とはいえ、水瀬さんも『分かっている』のであろう。




 そう思いながら繰り返すこと数回。

 このままではらちが明かないので言い方を変えることにした。


「お願い! 水瀬さんのことが心配でたまらないからお世話させて!」


 もはや直球勝負である。

 ここまでしても断られるのであれば、おとなしく学校に行くしかない。


「むぅ……それはずるいわよ、神里君」


 ようやく水瀬さんは納得してくれたようだ。

 

「ず、ずるい?」

 

 いつもの水瀬さんからは発せられない言葉が出てきた。

 先ほどのやりとりも相まって、水瀬さんが駄々をこねる幼い子どものように見えてくる。


「そんなこと言われたら、強く言えないじゃない」


「水瀬さんの言いたいことも分かるんだけどさ。でも、これは譲れないな」


 そう言うと、水瀬さんは再びベットに潜り始めた。


「……ごめんなさい。今日は甘えさせてもらうわ」


「もちろん。任せてね」




 こうして本人の許可の下、水瀬さんの看病をすることになったあと、スマホで学校を休む旨をくまに伝えた。

 欠席理由は水瀬さんと同じ体調不良ということにした。

 

 天真高校は進学校であることから学習塾に通う子も多く、生徒の自主性を重んじる校風もあって生徒の欠席に関してとやかく言われることはないらしい。

 本当に、社会的なルールと学業を怠らないことだけ守っていればいいのだ。


「これでよし、と」


 くまが2人の欠席を把握したことを確認し、制服から私服へと装いを変える。

 授業の板書も見せてくれるらしいから学校に関する後顧こうこうれいはない。

 

 いや、あるとすればそのくまからの返信に『なんで悠人が水瀬さんの体調不良を知っているんだ?』とあったため、この弁明を考えなければいけないのが憂いではある。


「水瀬さん、入ってもいいかな?」


 何はともあれ、これで水瀬さんの看病に専念できる状況となった。


「ええ、大丈夫よ」


 少しかすれてはいるが水瀬さんの声が返ってきた。


「えっと、これが一応常備薬としての風邪薬。それとお水ね」


「ありがとう。お薬を飲んだら、また寝させてもらうわ」


「うん、ゆっくりしてね。部屋のドアは開けておくから、何かあったら……あ」


 そう言えば、口頭での確認が主な連絡手段だったために水瀬さんの連絡先を持っていないことに気づいた。


「どうしたの?」


「いや、連絡先交換しようかなって。声を出すのが辛かった時に連絡取れるように」


 体調不良である水瀬さんに労働を強要するのは心苦しいが、水瀬さんも合理的だと分かってくれるはずである。


 そう思っていたのに、その予想は次の水瀬さんの言葉で見事に裏切られることとなった。


「もちろん、いいわよ。ただ……その、神里君にとっては迷惑だと思うけど、今日……今日だけ、そばにいてくれないかしら……?」

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