第四項「体育祭頑張ろうウィーク」 side水瀬瑞葉

「それじゃあ、女子側のアンカーは水瀬にゃんだから!」


 クラス対抗リレーの練習中、数日前に告げられたたちばなさんの言葉がよみがえる。


 人生における何度目かのリレーのアンカー。

 今年は特にクラス代表として色別対抗リレーに選ばれるほど好タイムをたたき出すことができたので、クラス対抗リレーのアンカーを務めることに驚きはなかった。


「よーし、いいぞ男子! もっと早く!」


 いつもと変わらないテンションの橘さんが声を張り上げる。

 本番ではないものの、学年全体としては初のクラス対抗リレー練習ということで周りの皆はこれ以上ないほどの盛り上がりを見せていた。


 

 そんな私自身も、体育祭やこの先に控える文化祭などイベントに嫌悪感けんおかんがあるわけではない。

 そういった雰囲気を味わうのは嫌いじゃないし、皆が楽しんでいるのは良いことだと思っている。

 

 とはいえ、その感覚を共有できるほど心を許した友達がいるかどうかは別問題である。


 そんなことを思いながら列が進んでは前にめるを繰り返し、自分の番になるまで待機していた。


「A組女子の最後の走者は1位のレーンに出てきて下さい」


 どこかのクラスの体育委員と思われる人が走者である私を案内する。

 暫定ざんてい1位で、つ女子側のアンカーということもあって、私がレーンに立つと歓声かんせいは更なる盛り上がりを見せた。


『水瀬さんファイトー!』


 橘さんの一言を皮切りに視線が一気に集まってくるのを感じた。


 練習ではあるが本番のためにも自分に適度な緊張感を持たせ、呼吸を整えながら静かにバトンを待つ。

 すると、自然と周りの音が消え、極度の集中状態に入っていくのが分かる。


「はい!」


 リードを促す掛け声と同時に前を向き、右手を後ろに差し出しながら走り始める。

 ここでバトンを落としてしまうと厄介やっかいな手順が発生するのだが、今回は減速すらすることなくしっかりとバトンをにぎりしめることができた。


 コーナーを回り切れば次の走者まではあっという間である。

 目線を少し斜め下から正面に戻していくと、バトンを受け取る体勢をとっている神里君の姿が見えた。


「はい!」


 クラスの取り決めでもあるリードを促す合図を出し、バトンを差し出すため左手を大きく伸ばす。


「あとは頼んだわよ」


 自然と口をついて出た言葉だった。

 私は神里君に何を期待しているのだろうか。

 疲労した頭では答えに辿り着くことも無く、危な気のない神里君のゴールによって考えるのを止めた。




「さっすが、水瀬にゃん! やっぱりうちの目に狂いはなかったっていう訳だ!」


 練習を終え、更衣室で着替えていると橘さんが機嫌よく笑いながら近づいてきて私の肩をバシバシ叩いた。


「ちょっと……ていうか早く服着なさいよ」


 てっきり着替え終わっているのかと思ったが、振り向くと橘さんは上下ともに下着姿のままだった。


「大丈夫、大丈夫。ここ女子更衣室だから」


「男子が居たらもっと問題でしょ。それよりも早く、服。風邪引くわよ」


「私は風邪引いたことありません! えっへん!」


 両手を腰に当てて自信ありげに胸を張る橘さん。

 心なしかふくらみのある一部分が普段よりもさらに大きく見えた。


「はいはい。それは凄いわね」


「もう、冷たいなあ。うちはただ、後続をさらに引き離す水瀬にゃんの走りに感動してるんだよ?」


「それを言うなら橘さんもじゃない。そもそも50m走のタイム、私の記録とそんなに変わらないでしょう」


 確か、コンマ何秒くらいの差だったとクラスの誰かが話していたのを聞いた気がする。


「これはこれ、それはそれだよ。なかなか自分の凄さを認めないなあ。だから水瀬にゃんって言われるんだよ」


「どこに因果関係があるのよ」


「さあ? どこでしょーね?」


 ブレることのない橘さんのスタンスに慣れるまではまだ時間が掛かりそうである。

 そもそも私とネコにどんな共通点があるのだろうか。


「じゃ、私は先に行ってるから」


 いくら何でもこのテンションのまま翻弄ほんろうされ続けるのはしゃくさわるので、橘さんの着替えを待たずに更衣室から脱出した。




「先生が『今日は連絡ないから橘に任せる』って言ってたから、今日はうちの挨拶でめちゃうね! それじゃあ、解散!」


 結局、最後まで橘さんのテンションが衰えることはなかった。

 そんな橘さんの声を合図に皆が思い思いの行動をし始める。


 もちろん、私にもやることはある。

 学校の課題にテスト勉強、体育祭の練習など、ほんの少しの時間も無駄にすることはできない。


 予め片づけていた荷物を手にとって、喧騒から逃れるように教室を後にした。




 5月の夕暮れはこの後にくる梅雨を感じさせない明るさと色味を持ち、時間帯もあって夕日に照らされながら帰る人々が多く見受けられた。

 同い年に見える学生やスーツ姿のサラリーマン、少しチャラそうな人まで、それぞれの目的地へと足を進めている。


 

 その様子を何となく眺めながら交差点を横切ろうとした瞬間だった。


「……代、聞いてる?」


「聞いてる、聞いてる。……で、何の話だっけ?」


「もう~、前に言ったあのお店、今度行こうって話!」


「ああ、あのお店ね。……今から行っちゃう?」


「えっ、いいの? 行こう! 行こう!」


 足が凍り付く気分だった。

 もしかして、という心理が無意識に働いて声の主の方に顔は向けていないため、本当に『彼女』かどうかは分からない。

 

 でも、本当に『彼女』だったら?

 

 嫌な妄想が静かにむしばみ始める。


 確かに、神里君の家で暮らすことになったとはいえ、二度と会わないほど『彼女』の実家と距離が離れたわけではない。

 ばったり会う可能性はすぐ傍にあったのだ。

 

 私は無自覚にその可能性を無視していた。

 つまり、『高校生』という生まれ変わったにも等しい気分で記憶を上書きしていたのだ。

 


 再び青になった信号が見える。

 

 本能からか、ゆったりしていた足取りは逃げるような駆け足へと変わっていた。



 

 なるべく意識しないように心掛けて家に辿り着くと、手始めに服装を変えた。

 形から入って、少しでも早く気持ちを切り替えられるようにするためである。


 ついでに勉強道具を広げ、別のことに集中できるような環境を作り上げる。


 

 結果から言うとこの手段は成功で、私をむしばんでいた嫌な妄想は神里君が帰ってくるまでに消えていた。



 

「ただいま~」


 少し上機嫌な神里君の声が聞こえる。


「おかえりなさい」


 問題を解きながらの片手間ではあるが挨拶は欠かさない。


「よいしょっと……って、水瀬さん、どうしたの?」

 

 神里君はリビングに入ってくると、私を見て固まっていた。

 どうやら私の服装について何か思うところがあったようである。


 そんな神里君に私は『相応の服装』と返したが、実はそれ以外にも目的があったりする。

 それは簡単に言えば、身バレ防止のためである。


 天真高校の運動着にはその生徒の名前が刺繍ししゅうされてある。

 もし仮に誰かが運動着を着ている私を見かけたら、『天真高校のあの子』とすぐに足がついてしまうであろう。


 しかし、スポーツウェアを着ていれば『私によく似た別人』で通すことが可能になる。

 そもそも誰にも見られることが無ければいいのだが、いかなる時もリスクヘッジは大切である。




 その後、神里君と体育祭の練習をすることになった。

 100m走用に何回か軽くダッシュして、二人三脚の練習では電柱の間を何往復か走るトレーニングをして感触を確かめる。


 二人三脚の、特に速さとタイミングが過去一番の出来だと思っていると、どうやら神里君も良い手ごたえを感じたらしく、終わり際には軽口を叩けるようになっていた。


 

 ……これで、何事も無く帰ることができれば良かったのだが。

 帰り道を吹き抜けていく心地良いはずの風は、肌があわ立つような、得体の知れない寒気を私にもたらしていた。

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