第三項「水瀬さんとの学校生活(前半)」 side水瀬瑞葉

翌日の朝、目覚めが良いものになるよう設定した目覚ましの音が枕越しにくぐもって聞こえる。


「んん……」


 馴染なじんできたベットから体を離し、軽く背伸びして脳を覚醒させてから支度を整えるため洗面所へ向かう。


「これでよしっと」

 

 学校へ行く準備まで済ませた後、残ったやるべき事はご飯を作ることである。


「そういえばお昼ご飯も必要よね……」


 神里君に学校でのお昼ご飯はどうしているのかを聞き忘れていたが、『契約』上お昼ご飯も作るのが妥当だろうと感じて一応買ったお弁当箱を食器棚から2つ取り出す。


「だし巻き卵あたりを作ろうかしら」


 そうと決まれば行動は早いものである。

 お米をいて味噌汁みそしるを作るなどしていると神里君が起きてきた。

 

「おはよう、水瀬さん」


「おはよう。簡単だけど朝食はできているわ」

 

 盛り付けを終えたお皿などを運んでいると、それを見ていた神里君がこんな質問をした。


「水瀬さんはいつも何時くらいに起きてるの?」


「だいたい6時くらいかしら」


 その日の予定や曜日によってズレはあるものの目覚ましは6時に設定してある。


「起きる時間早めようかな……」


 私の答えに何かを感じたのか、神里君は起床の時間を早めようというつぶやきをこぼした。

 神里君にとって起きる時間が早いと何か不都合なことでもあるのかと、私は神里君にその呟きの理由を問いただす。


 すると返ってきた答えは、私の手伝いをするためということだった。

 確かに、そう言う神里君の気持ちも分からないわけではない。

 逆の立場であれば、私も奉仕されているだけとやり場のない思いを抱えていただろう。


 「これは『契約』よ。ご飯を作ることは私が履行りこうすることなの」


 しかし、それはそもそもの私達の関係を根底から覆すものである。

 ただ神里君にお世話されるのではなく、互いがwin-winの関係になれるよう結んだ『契約』に則って行動しなければならない。

 そう主張すると神里君は納得してくれた。


 ただそれだけだと神里君の気遣いの行き先が無くなってしまうであろうことも分かっていたので、違う方向で手伝ってもらえないかと提案した。

 すると私の予想通り、『契約』をじ曲げることなく互いの意見を尊重した結果に収めることができた。



 朝食をとっている時、忘れないようにと渡したお弁当箱に神里君はひどく驚いていた。

 一応『契約』に則ってはいるものの神里君に何も聞かず行動したので、迷惑だったかと後悔の念が頭をよぎる。


 「そんなこと思ってないよ。水瀬さんお手製の弁当、楽しみだな」


 神里君の話を聞く限りどうやら杞憂きゆうだったらしい。

 そんな神里君の反応を見てほっと一息ついてから、『契約』通り先に学校へ向かうことを告げる。




 随分ずいぶんと時間に余裕ができたが、無事天真高校に辿り着くことができた。

 教室に入るとまだ人は少ないもののあちこちで楽しそうに話しているクラスメイトを見かけた。

 しかし誰かに挨拶を交わすこともなく自席に着く。


 私は彼らを嫌っているわけではないし、嫌われているわけでもない。

 彼らに興味がないだけであってグループワークなどを行うときは必要な分だけ会話する。

 

 では私が普段から会話する相手がいるのか、という話になる。


「おはよう! 水瀬さん!」


 その相手がこの声の主、たちばなさんである。


「おはよう、橘さん」


「もう、花蓮かれんでいいって言ってるじゃん!」


 あまり思い出したくない記憶ではあるが、千代ちよとの一件以来距離感が近い状態で話すことに躊躇ためらいを持っていた。

 さらに家庭の事情でいっぱいいっぱいだった私はあまり交流を好んでいなかった。

 

 話し相手が隣の席の子だろうと、先輩だろうと必要以上の会話をせず、帰宅はいの一番に行う。

 その状態を続けていれば、どこのグループにも属することがなかったのは必然である。

 

 そんな中、橘さんは私の態度なんて関係なしに話しかけ続けてくれた。

 当初は神里君すら認識していない時期だったので正直物凄く鬱陶うっとうしく思っていたが、神里君に出会って思いを変えた今、こうして話しかけてくれることがどれだけ有難いことか身にみる。


「ほんと、元気よね……」


 我ながら素直じゃないなあと思いつつも以前の私と態度を変えることなく返事をする。

 しかし、これには私の心境の変化に気づいてほしくないという思いも混じっていた。


「これから1日が始まるのに暗い気分でいられないでしょ?」


「そういうところはしっかりしてるのね……」


 クラスのムードメーカーでもある彼女はいつでも明るく振舞っているため、端から見れば能天気のうてんきであるように思えるがそれは大きな間違いである。


「水瀬にゃん、もしかして良いことあった?」


 この鋭さが橘さんの素晴らしいところであり、恐ろしいところとも言える。

 大勢の人と関わってきた橘さんだからこその観察眼は以前と変わらず健在だった。


「ないわよ。ていうか水瀬にゃんって何よ」


「水瀬にゃんって響きが良くない? 水瀬にゃんも猫っぽいし」


「はいはい。私はいつもと変わらないわよ」


「……そっか」


 口では納得してくれたものの、何か含みを持たせたような間が自分の心を見通した上での沈黙という気がして怖い。

 どうしたものかと思っていると、ちょうど1時限目の先生が入ってきた。


「あれ? もうこんな時間かあ。水瀬にゃん、またね!」


 そう言うと橘さんは嵐のように自席へと去っていった。




「水瀬にゃん、ただいま!」


「……いい加減、にゃんは止めてもらえるかしら?」


 お昼時、お弁当を広げようとすると橘さんが待ってましたと言わんばかりの勢いで突っ込んできた。


「あ! ちょっと忘れ物を取ってくるね!」


 私の抗議もむなしく、橘さんは返事を待たずに教室から出て行ってしまった。


「はあ……」


 ふと溜息ためいきこぼれる。

 思えば人に振り回される経験など数えるくらいしかなかった。


「でも悪い気はしないものね……」


 新しい体験というものは脳を活性化させるものである。

 従って、心は疲れていてもどこかこの状況を楽しんでいる自分がいた。


「ねえ、水瀬さん? だよね」


 そんな不思議な気持ちに浸っていると、見覚えのない男子生徒が複数人、私を取り囲んでいた。

 そのグループの中で如何いかにも私がリーダーですと制服を着崩きくずした男子生徒が1歩前に出る。


「前に見かけたとき、可愛いなって思ったんだけど、どう? 今日だけでいいからさ、俺とお昼なんて」


 どうやらまたお昼のお誘いらしい。

 覚えきれないくらいこのようなお誘いは断ってきたが、それでもまだ止まないのが現状である。


「ごめんなさい。今日は先客がいるの。だから、申し訳ないけどお引き取り願えるかしら?」


 橘さんとお昼を共にしようと約束したわけではないので先客というと微妙なところだが嘘ではない。

 それを口実にしながらやんわりと断る。


「それなら明日はどう?」


 何となく分かっていたことだが、リーダー格の男子生徒に引き下がるような様子は見られない。

 こういう時は『あの一言』とつい最近学んだのである。


「……私、あなたに興味が無いの。そもそもあなたが誰か分からないわ」


 はっきり伝えるとリーダー格の男子生徒はぽかんとした顔を浮かべた後、すごすごと帰っていった。

 こんな一言であっさり帰るのかと思ったこともあるが、こういう相手こそ余計に周りからの評判を気にしたがるのだと納得した。


「戻ったよ~って、水瀬にゃん、何かあった?」


「何もないわよ」


 忘れ物を取りに行っていた橘さんがすれ違いで戻ってきた。

 朝と変わらぬ橘さんの様子を見てさっきまでのとげとげした気持ちが消えているのを感じ、改めて橘さんは凄いなと思ってしまう。


 (私も橘さんのように明るかったら、『あんなこと』にはならなかったのかな)


 そう、思い返してしまうほどに。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る