第一項「同棲契約」 side水瀬瑞葉
1つ星が
端からは
「これを見られたのなら十分かな……」
きっと、私もあの星のように
1つ違うところを挙げるとしたら、見てくれる人の数だろうか。
星は無数でも、私は0人。
そう、静かに消えようと決意した時、後ろで階段を踏みしめる音が聞こえた。
展望台の管理人が来てしまったのかと音の方向へ振り返る。
そこには、私と同い年に見える1人の少年が立っていた。
しかし、
少年が何か言いたげだったが、構うことなく展望台の先端から故意に足を踏み外す。
ああ、なんでこのタイミングで来たかなあ。
飛び降りる直前に心の中で呟いた言葉は誰にも拾われない――はずだった。
「マジかよっ!」
少年のであろう言葉と重力に逆らう衝撃によって、意識の海から現実に無理矢理引き戻される。
滑り込んできた少年は私の左手首を掴んでいる。
少年の反射神経のおかげなのか、落ちる最中で掴まれた手首を痛めることはなかった。
私は生きている。
展望台から飛び降りたことでリセットされた心が、少年の行動により再び動き出す。
完全に想定外の状況であり、それをしっかりと認識した時には打ち勝っていたはずの死の恐怖が顔を
「君! そこの段差、掴める!?」
この手を離したら、終わり。
「……い……に……のよ」
「ごめん、よく聞こえない!」
いらっ。
もちろん少年は意地悪で言っている訳ではないと分かっている。
それでも、高所は苦手という私の弱点を『はっきりと』告白しなければならない状況にさせた少年の言葉に
この時、幸か不幸か、死の恐怖よりプライドを傷つけられた怒りが上回っていた。
「わたし、高い所苦手なのよ!」
怒りの
「じゃあなんでこんなところで飛び降りたんだ!」
「う、うっさいわね! 貴方には関係ないでしょう!」
反射的に本音をぶつけてしまう。
その反動か、掴まれていた手がずるずると滑っていった。
「本当に落ちるぞ! いいから掴め!」
私たちを囲む森は選択を迫るように風に吹かれて大きな声を上げた。
つられて下を見ると、深緑色の
「む、むり!」
助かるわけがない。
本能的にそう思ってしまう。
「頑張れ! あと少しだぞ!」
私が勇気を出せるように、少年はあと少しという言葉を使ったのだろう。
なぜそこまでして私を助けるのか。
これまで誰も『私』を見てくれなかった。
それが今、初めて『私』という存在を認識し、目を向けている人がいる。
その人が手を伸ばせと言っているのだ。
「……わかったわ」
覚悟を決めて、手を伸ばす。
私の右手は段差を掴むと同時に、新しい未来も掴んだような気がした。
「よし、いいぞ! 今引き上げるからな!」
ぐいと引っ張られる感覚が体を襲う。
その後は必死になっていたので覚えていない。
気が付いた時には、私も少年も横たわっていた。
風も止み、呼吸音だけが響く。
私は、助かったのだ。
数年ぶりとも思えるような、大地の硬さを
さて、隣の少年になんて声を掛けようか。
ありがとう、だろうか。それとも、ごめんなさい、だろうか。
迷いながら開いた口から出てきた言葉は、そのどれでもなかった。
「ねえ、なんで私を助けたの?」
そして、口にしたことで私の気持ちを自覚する。
ああ、怖いんだ。
初めて『私』に向けられた目。
もし、それが嘘だったら。
「なんでって……」
少年は絶句する。
私も薄々気づいている。
目の前の少年は騙すなど頭の
「……あなたも私を否定するの?」
「……もう『正しさ』が何なのか分からないわ……」
心の器からぽつぽつと
確かに、新しい未来に手を伸ばした気がした。
その明るさを前にしても、私の過去の影は未だ残っている。
最低だな、私。
後悔と恐怖と自責の念が頭を駆け巡る。
しかし、暗闇で
「……もし、もし君が良ければなんだけど、一先ず俺の家に来ないか?」
はい?
突拍子もない少年の発言を受けて、私の脳内は少年の言葉の理解を最優先に切り替えざるを得なかった。
「いや、えっと、そういう意味じゃなくて……いやでも、その通りなんだけど……」
急にあたふたし始めた少年は、順序立てて説明するようにこう続けた。
「……君、ご両親は?」
「一応いるけど、あんなの親だともう思っていないわ」
浮かんできた2人の顔を即座に消す。
「帰るつもりも……」
「ないわ」
あるわけがない。
「だからもし良ければなんだけど、一度落ち着いて考えるために俺の家に来ないかと提案したい。本当に嫌なら近くの公園でもいいけど」
少年の言うことは一理ある。
むしろ、行き場を失った私にとって有難い提案でもある。
「……まあ、いいわ。でも変なことはしないでよね。もししたら今度こそ死ぬわよ?」
私の素の性格は、素直ではないらしい。
少年に恩は感じている。
助けてもらったし、それに少年と話していると少し気持ちが温かくなるような気もする。
でも、素直にその気持ちを伝えようとすると、どうも私のプライドが邪魔をするのだ。
「しないってば」
ここは私の
純潔を守りたいというのも嘘ではないし。
「あなた、名前は?」
少しの間ではあるが、お世話になるのなら名前くらいは自己紹介が必要かと少年に声を掛ける。
「神里悠人。えっと漢字は、神様の神に郷里の里。悠久の悠に人」
「……水瀬瑞葉」
「えっと、いい名前だね」
「あの人たちからもらった名前なんて褒められても嬉しくないわ」
そう、あの2人から貰った名前を褒められるのは嬉しくない。
だが神里君に褒められるのは少し違った、表現し難い感情を覚えた。
「呼び方は……」
取り付く島もないと感じたのか、恐る恐る話しかけられる。
「水瀬でいいわ」
「……水瀬さんで」
ここで呼び捨てにしないあたり、神里君は一定のラインを弁えているのだろう。
そんな彼に対し、人の礼儀としてお世話になるのであれば私も見返りを提示しなければならない。
そう考え、私が提案したのはある『契約』だった。
「……1つ契約。今夜はあなたの家にお邪魔させてもらう。その代わり1食、いや2食分私がご飯を作る。それでこの件の貸し借りは無し。いい?」
1食分を訂正したのはお世話になることと、助けてもらったことの2回分を含めているからである。
当たり前だがこれで全て帳消しになるとは思ってない。
しかし、彼の行動や言動からなんとなく分かる神里君という人物像を踏まえると、この『契約』が私の後ろめたさも薄れてちょうど良い。
「了解。それで貸し借り無しだね」
神里君も納得してくれたようだ。
「よし、それじゃあ遅くなったけどまずは家に向かおうか」
そう言って
近い年齢であるはずの彼の背中が私に
神里君とは長い付き合いになる。
少しお世話になるだけのはずなのだが、私の直感は反対のことを告げていた。
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